2018年10月11日

◆木津川だより 浄瑠璃寺

白井繁夫


前回訪れた海住山寺と「木津川」を挟んだ対岸の丘陵地帯には、古くからある当尾(とうのお)の里に「小田原山浄瑠璃寺」があります。この通称「九体寺」が、現在では唯一となった「九体阿弥陀如来坐像(国宝)」を本尊として安置している寺院なのです。

私は深く考えず健康のためと浄瑠璃寺口でバスから降りて約2kmの山道を徒歩で登っていくことにしました。しかし、誰も歩いていない山道を一人で歩いたとき、古の人々は、こんな山中まで、よくぞ材木を運びあげて寺院を建立したものだと、その情熱に畏敬の念を改めて深く感じた次第です。

そこで、「浄瑠璃寺」を散策する前に、もう少し「木津川地域」(木津川市)と、「木津川の歴史的関連」を話題に取り上げてみようと思い、「木津川流域」の概略的事柄を記述してみました。

伊賀(三重県)を源流とする「木津川」は、古代の飛鳥、奈良時代の藤原京、平城京を造営する建築用材運搬の大動脈となり泉津(いずみのつ:木津の港)が、奈良の都の玄関港となりました。これが歴史上「木津川」が果たした重要な役割なのです。

「木津川上流域」の杣山(そまやま:笠置、加茂)から木材を筏に組んで、また近江(滋賀県)の杣山(田上山:たなかみやま)や琵琶湖から宇治川を経由して、さらに遠方の瀬戸内や、丹波からも、淀川を利用するルートにより、木材が運ばれ「木津」で陸揚げされたのです。

この泉津では東大寺、興福寺など諸寺の木屋(こや)所や国の役所等があり、それぞれの用途に振分け加工したりして都へ運び出しました。

泉津から平城京へは上津道(かみつみち)、中津道、下津道(しもつみち)の官道があり、その官道沿いには川や池も設置されていましたので、水量を調節して材木を運ぶ方法も採られていました。

ところで、「木津川流域」に人々が住みついたのはいつの時代からかは正確には分りません。遺跡から観ると、弥生時代の中期(紀元前一世紀から後一世紀)、「木津の相楽山丘陵」から祭祀用の銅鐸が出土し、そのすぐ近くの大畠遺跡に集落跡や墓跡などがありました。

弥生時代になって「階級や身分社会」が成立してきましたので、小さい古墳も流域の各地に出来ました。更に一層政治的に関連が進んだ古墳時代、「木津川」の右岸(山城町)に、前方後円墳の「椿井(つばい)大塚山古墳」が出現しています。

この大古墳は、中国の文献(魏志倭人伝)にある「邪馬台国の女王卑弥呼の銅鏡」(三角縁神獣鏡)が、36面も出土しました。これだけの副葬品が出る墓の人物は、相当偉大な権力者(王)であったと思われます。

また、この巨大な古墳の造り方は、3世紀末に築かれたわが国最古で、女王卑弥呼の墓とも云われている前方後円墳の箸墓古墳(奈良県桜井市)と、多くの共通点がありました。

古事記、日本書紀に記載されている泉河(輪韓河:わからかわ:木津川)の物語 
崇神天皇10年条 (武埴安彦の反乱):

四道将軍の一人大毘古命(おおびこのみこと)が、越国(北陸道)へ赴く途中、武埴安彦(たけはにやすびこ)の謀反を山代の幣羅坂(へらさか)で知り、崇神天皇の勅命により彦国葺(ひこくにぶく:丸邇臣氏の祖)と大毘古命の軍は輪韓河で武埴安彦の軍に挑みました。

その結果、武埴安彦の戦死によって反乱軍は総崩れとなって敗走した様子の地名(波布理會能:ハフリソノ:→祝園:ホウソノ、屎褌→久須婆→楠葉など)が、今もこの地域に残っています。「挑み」伊杼美イドミ→伊豆美イズミ→泉河

この大戦のとき、大和の大王(崇神天皇)軍は、西国道を固めていた武埴安彦の妻(吾田姫:あたひめ)の軍も打破りました。その後(神功皇后摂政2年条:押熊王の反乱)、大和政権は、奈良山西麓を越えた下津道の押熊の王との戦にも勝利したのです。

名実ともに大和政権が確立し、「木津川流域」をはじめ畿内では、大和の大王に敵対する勢力が一掃されました。

5世紀から6世紀になると渡来人が「木津川流域」に多く住みつき、彼らは朝鮮半島より渡来の中国大陸の先進的文化、文明を携えてきました。

570年には高句麗使の一行を迎えるため、大和朝廷の外交官舎「相楽館:さがらのむろつみ」を、「木津の港」にかかわる相楽神社近辺に作りました。(608年には難波高麗館が設置された。)

7世紀後半の「壬申の乱」:天智天皇の太子(大友皇子)に対して672年大海人皇子(後の天武天皇)の反乱の時も、「木津地域」はやはり重要な地域でした。

8世紀になり、藤原京から平城京へ元明天皇が遷都(710年)した奈良時代の天平12年(740)聖武天皇が恭仁京(くにきょう)に遷都したころは、正に恭仁京の泉津として、現木津川市(木津、加茂、山城町)が、最も輝いていた時期と推察します。

奈良時代の加茂町銭司では、日本最初の貨幣(和同開珎)を鋳造しており、(僅か4年間の都でしたが)恭仁京では聖武天皇が大仏造立の発願、全国に国分寺、国分尼寺造立の詔、墾田永世私財法など発信しました。

「木津川市」は、京都府の最南端で、奈良県の奈良市と境界を接しています。ですから奈良時代では大和の北部丘陵地(奈良山)の背後の国:山背国(やましろのくに:山代国)と呼ばれていましたが、桓武天皇が平安京へ遷都(794年)して、「山城国」と詔で命名しました。

都が京都へ移っても、南都(奈良市)には藤原一族の氏寺(興福寺)、氏神(春日大社)があり、平安貴族は競って南都詣でをしていましたので、人々の往来や物資の流通も多く、「木津」は交通の要衝であり、また文化や情報の発信地でした。

9世紀から10世紀の平安貴族文化が盛んな時期も、南都仏教の興福寺、東大寺等の諸寺は
南山城(京都府旧相楽郡、旧綴喜郡)に奈良時代からの広範な杣山(後に荘園にもなった)を所有しており、実質的に南山城は大和の文化、経済圏内でした。

10世紀後半から11世紀になり、南都の貴族仏教の僧侶の中には世俗に溺れ堕落する僧も現れ、世相も乱れかけた現象を疎みました。

このため現世を救う弥勒菩薩や観音菩薩の信仰、または釈迦如来に回帰すべきという思想など様々な思考を持った僧侶が、「木津川流域」の山中にある笠置寺、加茂の岩船寺、浄瑠璃寺、海住山寺などの草庵に籠り、真の悟りを求めて厳しい修行や戒律の教学を開始しだしたのです。

前回訪ねた海住山寺は、寺伝による創建は:聖武天皇が大仏造立発願のため云々ですが、12世紀後半から13世紀の解脱上人貞慶は戒律を重視して、釈迦如来に回帰すべきとして、釈迦の仏舎利を祀る五重塔の建立を開始し、1214年貞慶の1周忌に、貞慶の後継者の覚真上人が落慶供養をしました。

次回は、木津川市加茂町西小の「淨瑠璃寺」訪ねようとしています。創建時の本尊は弥勒菩薩でしたが、現在は九体の阿弥陀如来坐像(国宝)の本尊が本堂に祀られている、この寺院の変遷なども辿ってみようと思っています。

参考文献: 木津町史   本文編            木津町
      加茂町史   第一巻 古代、中世編     加茂町

(奈良から浄瑠璃寺門前行きの急行バスは一時間に一本ぐらいです。時刻表に注意下さい。JR加茂駅からは毎時一本岩船寺、浄瑠璃寺行きのコミュニティーバスが利用できます。)


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