白井繁夫
七世紀末(白鳳時代)の大作(丈六の金銅仏像):国宝の釈迦如来坐像を、現在は本尊として祀る「蟹満寺(かにまんじ)」が「木津川の右岸:木津川市山城町綺田(かばた)」に在ります。
当寺院は真言宗智山派 普門山蟹満寺として、もともとは観音菩薩が本尊でした。寺号が『今昔物語集』の巻十六に収録された蟹の報恩譚と結びつく民話「山城の国の女人、観音の助けに依(よ)りて、蛇の難を遁(のが)れたる語(こと)」で有名です。
当寺の入口近くに建つ観音堂のなかに祀られている秘仏の観音菩薩が元の本尊です。本堂に祀られている現在の本尊:釈迦如来坐像は、像高2.4メートル、重量約2.2トンの巨大な金銅仏です。
「蟹満寺」に参拝した第一印象は、有名な国宝の仏像を祀る寺院なのに、こじんまりした境内で本堂は新しく、外観だけでは南山城の各寺社と比べ、歴史の重みをあまり感じませんでした。だから、「木津川沿い」は昔から度々水害が発生し被害を受けて、いろんな建造物も流されたのか?と思いました。
しかし、本堂に上がり、須弥檀に安置されている巨大な釈迦像に対面した時、芸術的とか歴史的とかを超越した世界に引き込まれ、言葉では表現できない境地になって、遙々訪ねてきて本当によかった。と心から安穏を感じました。
本堂に安置されている銅像の釈迦如来坐像は、巨像の少ない白鳳から天平彫刻への移行時代の鋳造技術の解明に寄与する重要な仏像と云われています。(興福寺仏頭→蟹満寺如来像→師寺薬師三尊の中尊像と技術が推移していると一般的に云われています。)
『山城名勝志』に「蟹満寺は光明山懺悔堂(ざんげ)と号す。本尊は観音像でまた釈迦像がある。」と記されています。(寺伝には光明山寺の廃滅に当って光明山懺悔堂が蟹満寺へ移る。と記されています。)
銅像の釈迦像は類稀な巨像(丈六像)ですが、この寺の本尊でなかった点に疑問が向けられ、下記の諸説が出ました。
<角田丈衞説>:巨像は狛一族が制作したが、高麗寺(山城町上狛)が藤原初期廃滅し、
光明山寺へ移り、蟹満寺へ来た。
<杉山二郎説>:山城国分寺金堂の本尊説、地元高麗鋳物師たちの作品(天平15年開眼供養)
田中重久説:蟹満寺は蟹幡郷が訛って蟹幡寺(かんはた)、蟹満多寺、紙幡寺という。
『太子伝古今目録抄』に「蝦蟆寺、秦川勝建立堂也」とあり、秦氏の長者秦和賀が建立。
<足立康の説>:天平の最高権力者:橘諸兄の別業付属の寺院:井堤寺(井出寺)からす。
(釈迦像の造立年代を白鳳時代と考える説と薬師寺金堂の薬師像と酷似から天平時代と
考える説に分かれています。)
しかし、蟹満寺からは白鳳時代の大和川原寺式の瓦が発掘されており、近年数次の発掘
調査を寺域で行った結果も、7世紀末(白鳳時代)に創建されことが確認されました。
本堂の須弥檀は堂のほぼ中央に位置しており、1300年間釈迦如来座像は創建時の位置
の状態のままである。と云う「説」が発表されました。
(川原寺は壬申の乱に勝利して天下を掌握した天武天皇が崇敬した寺、川原寺系瓦は天武
天皇に味方した豪族に恩賜として使用許可された白鳳時代の瓦です。)
創建期の金堂が薬師寺の金堂とほぼ同じ規模であり、現在の須弥檀も中央に在るからと
いって構造も薬師寺と同じだと断定できない。だから安置場所も確定できない。という
反論もあります。
「木津川流域」は古来より氾濫が多く、その上天井川もあり、歴史的に貴重な文物も地下に眠っていると推察されますので、今後の更なる発掘調査に期待しています。
蟹満寺と云えば、今昔物語集の蟹の恩返しの民話に繋がりますので、古来より伝わって
来た民話から我々の祖先の物の見方、考え方にも(私見ですが)少し触れてみます。
<民話の荒筋:山城の久世に住む慈悲深い娘が蟹を捕えて食べようとしている人に、娘の家にあった死魚と蟹の交換を願い、その活き蟹を川に放つ。
その後、娘の父(翁)は蛙を飲み込もうとしている毒蛇に出会って(蛙を不憫と思い)、
を放てば娘の婿として迎えると約した。蛇は蛙を見捨てて薮の中へ消えた。(翁は悩むが娘に事の次第を告げた。)
娘は父(翁)に蛇が来れば3日後に来るよう告げ、頑丈な倉を造り娘はそこへ入った。
立派な5位の姿できた若武者は娘がいないことを知るや蛇の姿に戻り、倉をぐるぐる巻き
に巻き尾で戸を叩く、娘は観音の加護を願って夜中法華経を誦えると僧が現れ不安を解く。
翌朝、多数の蟹と蛇の屍骸があり、その者らを鄭重に供養して、埋葬した上に寺を建てた。
その寺は蟹満多寺(かみまた)といい、その後、紙幡寺(かみはた)と云う。:>
蟹は助けられた人の恩に報いるため、何の縁も恨みもない蛇を殺す罪を作り、蛇は約束を
果たされずに、逆に殺される。蛇が毒蛇でも何かかわいそうですね。しかし、観音様は悩める全ての者の罪報を助け救ってくださる。と云われています。
蛇はその姿形からして、古来より人は怖がり、畏敬から信仰の対象となって水霊(白蛇.
竜など).農業神にもなっています。ここに出てくる蛙や蟹も水棲動物であり、「木津川の洪
水」に悩むが田畑の灌漑には役立つ水に纏わる動物です。
「蟹満寺」はすぐ近くにある綺原神社(かにはら)と対になって五穀豊穣を祈った寺社
は、と思われますが、蟹の恩返しの民話が有名になり、「蟹供養放生会」が毎年4月18日に盛大に催行されるようになりました。
私達は子供の時から亡くなった人は善人も悪人も皆仏様だから大切にして、罪を憎むが人
を憎まず、過去の不幸等は早く忘れて水に流しなさい。と云われてきました。
しかし、昨今の世界情勢を見ると、「菊池寛の恩讐の彼方に」の世界をはるかに越え、過去に不幸を被ったことは絶対に忘れてはいけない、許すことは先祖を大切にしない。ということと同じだと云う人々が出て来たように感じています。
参考: 山城町史 本文編 山城町
木津川歴史散歩 南山城をめぐる 斉藤幸雄著
2018年10月29日
◆木津川だより 蟹満寺
at 05:00
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| 白井 繁夫
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