2018年11月07日

◆奈良木津川だより 太古の木津川地域

白井繁夫


「古墳時代の木津川」を取り上げたいと思って、木津川市山城町の椿井大塚山古墳、木津町の大畠遺跡、土師の七つ塚古墳などを散策していた時、ふと次のことが頭に浮かびました。

前方後円墳の椿井大塚山古墳は、日本最古の箸墓古墳を三分の二に縮めた同型の古墳です。そこでは邪馬台国(九州説もあります)女王卑弥呼の三角縁神獣鏡が三十数枚も出土しました。

他方、記紀に記載された崇神天皇の条:「和訶羅河:わからがわ:(泉河:木津川)」を挟むこの地で、天皇の命を受けた四道将軍の大毘古命(おほびこのみこと)の軍と、反乱軍の建波邇安王(たけはにやすのみこ)との大戦もありました。

第10代崇神天皇は、大和の国の王から倭国を統一した大和朝廷の大王であり、(3〜4世紀に実在した大王とも云われている)、古墳時代の人物ではないか、と云う説があります。

ですからこの度は、太古の時代(旧石器時代)から、弥生時代、古墳時代へと、「木津川地域を散策」しながら、大和朝廷と山背(南山城)と、木津川市とのかかわりも見ようと思います。

地球上に人類が誕生したのは洪積世(氷河時代)で、今から200万年前から1万年前です。
氷河期は水が氷結して海水面が下降し、日本列島は大陸と陸続きの状態になりました。人類は大型動物(マンモスやオオツノジカなど)を追って南北から列島に渡ってきました。

氷河がとける温暖な間氷期を経て日本列島は大陸と離れて、大型動物も絶滅しました。
日本列島の旧石器時代の「人類の遺跡」は昭和24年(1949)に発見された群馬県岩宿(いわじゅく)が最初の遺跡です。そこから打製石器が出土しました。

・前期旧石器時代:3万年以前

列島各地でその後、旧石器時代の遺跡が発見されました。宮城県座散乱木(ざざらき)遺跡、同中峯遺跡、同馬場檀遺跡、栃木県星野遺跡、大分県早水台(そうずだい)遺跡など、出土遺品は初歩的な打製石器です。

・後期旧石器時代:3万年前から1万3千年前:

近畿から瀬戸内にはサヌカイト(安山岩)を用いた瀬戸内技法(ナイフ形石器)が広まる。
「南山城の木津川地域」:八幡市の金右衛門垣内(きんえもんかいと)遺跡:ナイフ形石器、
城陽市の芝ヶ原遺跡:ナイフ形石器と舟底形石器、京田辺市:高ヶ峯遺跡:石核など。

木津川市における同時代の遺跡にしては昭和52年(1977)に木津町の東部の丘陵端:岡田国神社の裏山(岡田国遺跡)で、一点の石器が発掘されました。石材はサヌカイトで4.7cm長の不定形のもので、未完成の製作途中の石器でした。

・更新世(洪積世)終期:1万3千〜1万2千年前:

細石器.有茎尖頭器(有舌尖頭器)の時代:細石器の石刃(長さ数センチ、幅数ミリの特小石刃)、有茎尖頭器(槍の穂先をとがらし、柄に付けるために基部には茎「ナカゴ」をもつ)。

近畿地方は有茎尖頭器が主流です。(細石器のナイフや槍は全国に分布していました)。
「木津川地域では井出町上井出遺跡、木津川市山城町千両岩遺跡、同加茂町例幣遺跡、など」。

・縄文時代(新石器時代):1万2千年前〜前3世紀:

加工技術も進歩して狩猟の弓矢、生活用具などへの応用と、目的と用途が拡大しました。特筆しますと、この時代発明された「土器」は、「煮る」という調理の方法への大変革があったことです。食物の種類と範囲が拡大でき、定住性の強い集落が各地に形成されたことが証明されます。

前期縄文時代の「木津川市山城町の涌出宮(わきでのみや)遺跡」、城陽市の丸塚古墳下層遺跡で、北白川下層式土器が出土しました。(前期の標識土器:京都市北白川小倉町遺跡で出土した爪形文の土器)また、涌出宮遺跡からは連続する三型式の土器が出土し、ここの集落はずっと継続してきたと見なされます。

後期縄文時代:西日本の縄文土器は、東日本と異なる発展をし、土器から縄文が消えて、華麗な装飾を施した多様な器形が盛んになりました。

後期縄文人は丘陵地の動物の減少を補うため、低地へ進出して植物栽培を始めたのです。

「木津川地域」も同様だったと思われますが、「木津川」は大変氾濫が多いため、地下深く眠っている遺跡を発掘する本格的な調査は、未だ実施されていません。

・弥生時代: 紀元前3世紀〜後3世紀中頃 水稲農業と金属器使用の新文化時代

九州北部に大陸.半島から渡来した新文化は、端正な姿形の弥生土器と青銅器.鉄器の時代へ2ルート(瀬戸内地方と日本海沿岸)を通じ、東方へと日本列島を大きく変えました。

・遠賀川式(おんかがわしき)土器:福岡県板付遺跡、佐賀県菜畑遺跡

弥生前期の南山城の稲作文化導入期の土器は河内(東大阪市)より伝わっていました。
(木津川市燈籠寺遺跡、京田辺市宮ノ下遺跡の土器は河内の胎土使用)
北山城(乙訓地区の遺跡など)は、淀川経由ルートで伝播されています。

・弥生中期(紀元前1世紀〜後1世紀)の銅鐸と遺跡の発見

昭和57年(1982)6月木津町相楽山の丘陵(現木津川市相楽台)で相楽ニュータウン造成工事中に銅鐸1個が出土しました。(高さ:40.5cm、型式:扁平紐式6区袈裟襷文)
南山城では八幡市(式部谷遺跡の銅鐸)に次いで2番目、20年ぶりの発見です。(京都市の梅ヶ畑遺跡の4個を含め)山城国では合計6個目です。

銅鐸発見場所から東方約200mの場所で、同時代の集落や墓(方形周溝墓:まわりを方形の溝で囲んだ墓)の遺跡(大畠遺跡)も発見されたのです。

当時の銅鐸は祭祀に使用し、複数の集落を束ねる母体の集落が管理していました。近畿地区の山城、大和、河内では各郡に銅鐸1個の割合ですが、摂津、和泉は1郡に複数(2〜3)個の割合でした。

「木津川市大畠遺跡の集落」の勢力は八幡市、京田辺市北部、同南部、山城町〜井出町南部、城陽市、宇治市西部の6集団に並び立つほどのものと云われています。

稲作農業の人々は低湿地や丘陵の谷間を木製の鍬や鋤で耕し、水田に籾を直播しました。
弥生式土器を用いる生活様式になり、煮炊きする甕、食物を蒸す甑(こしき)、貯蔵用の壺、
食物を盛付ける高杯や鉢などの土器も発達しました。

狩猟や戦闘用の鉄鏃や銅鐸用や銅鏃などの他に、鉄の工具で木材を加工したり、農具にも鉄の刃先を取り付けたり、鉄器の活用で生産活動や生活文化も変化、発展を遂げました。

当時の南山城への物流や文化の伝播は河内から神奈備丘陵(現学研都市丘陵)を越えるルートと大和から佐保丘陵を越えるルートが主流でした。北山城へは淀川経由でした。

大畠遺跡は、近くの音乗ヶ谷遺跡、北隣の町(精華町)を含む複数の集落の母村であり、以後も北へ600mの曽根山遺跡、相楽(さがらか)遺跡へと古墳時代から奈良時代へと続きました。

太古の時代から急ぎ弥生まで、端おって綴ってみました。如何だったでしょうか。

次回は、古墳時代の山城について椿井大塚山古墳を中心に散策記を掲載したいと思います。

<参考資料:木津町史  本文編 木津町
   相楽山銅鐸出土地発掘調査、相楽山銅鐸出土地。大畠遺跡、 木津町教育委員会
   大畠遺跡発掘調査、第1次(1982)、第2次(1983) 木津町教育委員会>
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。