2007年06月30日

◆宮沢喜一元首相が死去



          渡部亮次郎


<「55年体制」下の自民党単独政権時代の最後の首相で、保守護憲派と
して知られた宮沢喜一(みやざわ・きいち)さんが28日午後1時16分、
老衰のため東京都内の自宅で死去した。87歳だった。

通夜は30日午後6時から、密葬は7月1日正午から東京都港区南青山2
の33の20の青山葬儀所で。喪主は妻の庸子(ようこ)さん。自宅は東京
都渋谷区神宮前6の34の1。Asahi Com >2007年 06月28日19時31分

この夜、東京・内幸町の日本記者クラブのレストランでご逝去を知らされ
たが、失礼ながら、何の感慨も浮かばなかった。政治家に転進すること
なく、行政官に徹した方が幸せだったのではなかろうか、と思った。

特に田中角栄元総理が、早くから宮沢のこととなると、火が付いたよう
に「宮沢だけは総理大臣にしてはいかん」と叫んだことを思い出す。そ
れは子分の竹下登を総理にしたくない感情とは全く別で、心底、思って
いるのがよく分かった。

私は宮沢に1度、インタビューしたことがある。面白くも可笑しくも無か
ったが、質問には実に正確に答え、破目の外れる事は1度もなかった。し
かし、それ故にハプニングは1度も無く,面白味の全く無いインタビュー
だった。


あの年代の政治家には全く珍しく戦勝国の言葉・英悟に達者だった。それが大蔵大臣池田勇人の秘書官になって役立った。

<1942年1月、大蔵省に入省。沼津税務署長などを経て、終戦時には本省で戦争保険を担当していた。1945年8月、東久邇宮内閣が発足すると、大平正芳とともに津島壽一蔵相秘書官となる。

1949年には池田勇人蔵相秘書官として、講和条約の準備交渉に携わる。
1951年9月、サンフランシスコ講和会議では全権随員として参加。>「ウィキペディア」

以後、政界入りし、池田のライバルだった佐藤栄作や福田赳夫に重視さ
れて、彼らは常にその内閣の官房長官に起用しようとする。詩化し田中
角栄だけは「奴は秘書官どまり。総理大臣になんか絶対しちゃいけない」といい続けた。

実際、宮沢が通産大臣として何もできなかった日米繊維交渉の後片付け
をあっという間に解決して総理大臣になったのが田中だった。

東大出で無ければ人でなしといい続け、大変な悪酔いであった。或る時、
都内のホテルの部屋で暴漢に襲われたが、独力で退治するというエピソ
ードを残した。

小泉に老齢に伴う引退を迫られ、さっさと引退したが、中曽根は悪態を
つきながら引退したものの、未だに小泉を怨んでいる。或いは宮沢は自
ら自民党の徳川慶喜だった責任を取ったのかもしれない。文中敬称略 
2007 ・06・29



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