2019年05月15日

◆木津川だより 浄瑠璃寺(2)

白井 繁夫


奈良山丘陵の京都側当尾の里には、前回述べた「浄瑠璃寺」(木津川市加茂町西小)の門前に、南北朝時代造立(文和4年:1355年)銘の石塔婆(せきとうば)が、のどかな風情に溶け込むように立っています。

そこから寺の門へ向って馬酔木(あしび)が、素晴らしい生垣となった通路があります。
入口の門は生垣より小さすぎて、何か遠慮しているようにも見えますが、訪れる有縁の人々を格式ばらずに普段着の姿で迎え入れようとする気持ちが感じ取れるのです。

北の正門をくぐると、左側に鐘楼があり、更に少し進むと静寂な池が広がっています。この池の東側の奥には、檜皮葺の朱塗りの三重塔(国宝)が、木立の間から美しい姿を覗かせています。

池の右側(西側)には、九体の金色阿弥陀仏を安置する本堂が建ち、この本尊仏がこの寺の通称名「九体寺」となったのです。

池の中の島には弁天祠があり、三方は丘陵に囲まれて、晩秋の紅葉につつまれた境内は、まさに藤原時代の浄土庭園そのものが、いまも眼前に広がり再現されているようでした。

永承2年に義明が浄瑠璃寺を創建した時の本仏(重文の秘仏薬師如来)を安置する三重塔は、京都より治承2年(1178)に移築された塔ですが、平安時代後期の京では多数の塔が建立されていました。しかし、現在はこの塔が唯一の遺構となっています。

浄瑠璃寺の塔は、檜皮葺の三間三重塔婆で総高16mと小規模です。しかし、一乗院三重塔(兵庫県)とともに、初重に縁がある最初の例です。いかにも平安貴族が好んだであろう姿、軒が深くて勾配が緩やかな檜皮葺の屋根の下に、東方浄瑠璃世界の教主(薬師如来)を安置しています。

この塔の池越しの対岸には、西方浄土の来迎仏(金色の阿弥陀如来)が祀られており、春秋の「彼岸の中日」には、まさに金色の仏の真後ろへ太陽が沈んで行くと云われています。

本堂は嘉承2年(1107)に建立されて、その50年後に現在の処に移動しました。建物の桁行11間、梁行4間の寄棟造りの一重の御堂(国宝)です。但し、最初の屋根は檜皮葺でしたが、江戸時代に本瓦葺に葺き変えられて、現在の姿になったのです。

本堂には九体の阿弥陀如来坐像(国宝)が祀られており、来迎印の周丈六像(約2.2m高)の中尊を中心に、左右両脇に半丈六(約1.4m高)の定印阿弥陀如来各4体が、横一列に並んでいる姿を拝しました。

その時、もの言わぬ仏に真に圧倒され、思わず跪き、合掌して仕舞いました。

平安時代後期に隆盛だった定朝様の特色を持った中尊を始めとする各仏像は、御堂関白の宇治の別業(子の頼道が寺にした)に安置されている、いわゆる定朝の代表作「平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像」に勝るとも劣らないように感じました。

その時、思わず藤原道長のエピソードが脳裏をはしりました。

平安時代中期の「末法思想」の恐怖からか、極楽浄土への阿弥陀仏信仰が社会の上下を問わず盛んになりました。特に権勢や財力を持った皇族や貴族の間では「九体阿弥陀堂」の建立に力を注ぐようになりました。

贅を尽くした最初の堂宇を寛仁4年(1020)に道長が自邸の東隣に建立したのが、「法成寺(ほうじょうじ)無量寿院」です。(中央に池を配し東西に薬師堂と阿弥陀堂、北の金堂には大日如来など、それぞれの堂を繋ぐ回廊等々、今は現存していませんが、浄瑠璃寺等も含めその後のモデル寺院でした。)

藤原道長と云えば「一家立三后」とか、即興の歌 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ主です。しかし権勢の頂上にいた者でも、臨終近くになると、「九品(くぼん):上品上生から下品下生まで9階級:9体の阿弥陀如来」の仏の手に蓮の糸の組紐をかけて、その紐を自分の手に繋いで没したと云われています。

浄瑠璃寺の中尊は、この世のあらゆる階層の人々、即ち、全ての人々を救いたいと、印相も来迎印(右手を胸の高さに挙げ、左手は膝に置き、両手ともに親指と人差し指で丸を作る)で極楽浄土へ迎えようとしており、両脇の各阿弥陀如来はこの世で善根を積んだ人、徳のある人々はそれなりに極楽へ導こうと、定印を結んでいます。

浄土信仰の「九体阿弥陀堂」は上流貴族や権勢の人々の浄土欣求(ごんぐ)が主となって、修行などの思想が薄れ、京を中心に30余の寺院が建立されました。(地方では、数ヶ所のみ:奥州平泉の大長寿院、源頼朝の鎌倉永福寺と東大寺の重源が阿波より移建した浄土堂)

しかし、どうしたことか街道から離れた山間のその当時は、無名に近い寺院「浄瑠璃寺」だけが、現在往時の姿を留めて残っています。

何が幸いしたのか、勝手に推測してみました。

★浄瑠璃寺は京都と大和を結ぶ主要街道から少し離れた山間の修行僧の修行や教学の道場として創建され、その後は興福寺の末寺となって、政に関らず来た。
★中興の祖「恵信」は摂政藤原忠道の子息であり、後に興福寺の別当となり、摂関家と興福寺のバックアップを得て、浄瑠璃寺の発展に努めるが中央権勢に交わらなかった。
★浄瑠璃寺以外の九体阿弥陀堂寺院は皇族や権力者が建立の堂宇で、平安時代以降の鎌倉から江戸時代までの戦乱や政変の炎につつまれたり、破壊されたりして滅してしまった。

浄瑠璃寺は、明治初期の廃仏毀釈の時、真言律宗大和西大寺の支援と地元の人々の厚い信仰に守られて被害をあまり受けなかったため、古代から近世までの国宝や重文の堂宇を始め、貴重な仏像や文物などが多数今日まで保存されています。

浄瑠璃寺が所蔵している国宝や重文などの主要文物説明を省略して列挙します。

★本堂内の九体阿弥陀仏以外の国宝や重文など四天王像(国宝)4体のうち2体(持国天と増長天)他2体は国立博物館、重文の子安地蔵と不動明王(三尊像)、(秘仏)吉祥天女像(重文)
★本堂以外の堂宇に安置
  三重塔:(秘仏)薬師如来(重文)、潅頂堂(かんじょうどう):(秘仏)大日如来、 (秘仏)弁財天
★国立博物館へ出展
  東京国立:延命地蔵(重文)、四天王の多聞天(国宝)、奈良国立:馬頭観音(重文)、京都国立:四天王の広目天(国宝)
★浄瑠璃寺の浄土庭園(特別名勝及史跡)石燈籠二基(重文)、(本堂と三重塔の前:池の両岸に立つ)

「浄瑠璃寺の寺宝」を上記に列挙しましたが、同寺院の寺僧長算が転写した「浄瑠璃寺流記事」(重文)は良くぞ保存されていたものだと思って感動しています。

次回も当尾の里にある「岩船寺」へと足を伸ばしてみようと思っています。

<参考資料:浄瑠璃寺と南山城の寺 日本の古寺美術 18 保育社
      大和の古寺  7  浄瑠璃寺  岩波書店
      加茂町史 古代.中世編  加茂町>

                       (郷土愛好家)
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