2019年05月25日

◆「お富さん」で大学生

渡部 亮次郎


まだカラオケなどない昭和29(1954)年、「お富さん」の明るく小気味よ
いテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲
み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番
として広く庶民に浸透していった。

その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべえ〜 みこしのまあ〜
つに」と意味もわからず歌っていたものだ。

このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」とし
て、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治
体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。

もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人で
さえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解で
きなかった。

とにもかくにも、作曲者の渡久地(とくち)政信氏は「みんなで楽しく飲ん
で歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中
したのである。

この年の4月、上京して大学入学。なかなか下宿が見つからず、親戚で不
愉快な思いをしたもの。遂に絶縁状態となって今日に至っている。冨さん
は苦い歌である。

お富さん
歌 春日 八郎
作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信
昭和29年
1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)


2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ


3 かけちゃいけない 他人の花に
  情かけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒


4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついてくる気か お富さん
  命みじかく 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久
地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキ
ングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。そこで社内で
代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。

春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒット
させ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶
対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。

急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段
馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかった
が、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたそ
の歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。

テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングは宣伝にも
力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表し
ないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興
味を引いていったのだ。

当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎
はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろ
うか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、
その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存知の通り。

この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわな
さけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得
ている。それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、
バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常
に珍しいテーマであった。

この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さん
と許されぬ恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ斬りにあい、お富
さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は3年後、松の木が見える黒
塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。

そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだ
が、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。

尚、場歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際
にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本
橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。

前年の昭和28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江らによって芽を吹きは
じめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって
見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みど
りの「一週間に十日来い」などに結実するのである。

渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を
取り入れたもの。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れる
オリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズム
とサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ないだろう。

春日八郎
●本名:渡部実
●大正13年10月9日生まれ 1991年10月22日没
●福島県・会津出身

旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現在の東京
音楽大学)声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイト
しながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。

長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合
格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌
手となる。

最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩
歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずら
に年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列
車」がヒットした。

「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の
「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで
「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまた
また大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の
屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの
周辺を玄治店(げんやだな)と呼ぶようになった。なお、この地域には芝
居関係者も多く住んでいた。人形町3丁目交差点には「玄治店由来碑」が
建立されている。
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