2019年06月25日

◆昭和天皇 そのご動静と苦悩

加瀬 英明


私は先の大戦の最後の年の昭和20年の元日の夜明けから、対日占領が終
わった1年前にマッカーサー元帥が罷免され離日するまで、昭和天皇のご
動静を、『週刊新潮』に昭和49年5月から50週にわたって連載した。
  
天皇を囲んでいた皇族、政府・軍幹部、侍従、身のまわりをお世話する内
舎人(うどねり)、祭祀を介添えする掌典(しょうてん)、巫女の内掌典など
160人以上に、克明なインタビューを行ったものだった。

空襲が激しくなるなか、天皇が皇居でどのように過されていたのか、徹底
抗戦を叫ぶ軍と、現実との和戦の狭(はざ)間(ま)に立たれて、どのように
苦悩されたか、知られなかった真実があきらかにされたために、大きな反
響を呼んだ。

連載が始まると、海軍軍令部に勤務されていた高松宮殿下が、開戦翌年に
海軍がミッドウェー海戦で主力の機動艦隊を失った直後に、「兄宮」(天
皇)に宛てて、「この戦争に勝てない」と私信を届けられた秘話を伺って
書いたが、殿下がそれまで語られることがなかったので、大きな話題を呼
んだ。

昭和天皇は弟宮と会われても、その職責に無い者の意見を、取り上げられ
なかった。

昭和天皇は私たちとまったく違う時間の尺度を持っておられた。日本を
2000年以上にわたる物差しで、考えておられた。

昭和20年に戻ろう。天皇は軍がまだ勝利を収めることができると、信じら
れていた。

2月に近衛文麿公が拝謁して、「日本は戦争に敗れた。今降伏しないと共
産革命が起る」と上奏すると、「もう一度戦果を挙げたうえでないと難し
いと思う」と、仰言せられた。

天皇は幼少時から、乃木希典大将、東郷平八郎元帥らの薫陶を受けられ
て、軍を信頼されていた。梅津治美郎参謀総長が皇居内の防空舎に連日参
内して、フィリピンにおける戦況を地図をひろげて上奏すると、「それで
大丈夫か。兵站(へいたん)はどうなっておるか」と鋭く指摘されたが、命
令されることはなかった。

硫黄島が失陥し、4月に米軍が沖縄本島に上陸した6日後に、鈴木貫太郎
海軍大将に組閣を命じられた。鈴木は木戸幸一宮内相から陛下が「終戦を
考慮あそばしておられるように拝察する」ときかされた。

天皇皇后は御住まいを兼ねた防空舎の御文庫で、しばしば夜、侍従、侍従
武官、女官などを招かれて、かるたを楽しまれた。侍従武官が「夜ハ謡か
るたノ御相手ニ興ズ。賑ヤカニ遊バサル」と、日記に記している。

天皇は懊悩されていた。「あのあの」とか、「どうもどうも」とよく独り
言をいわれ、朝晩歯ブラシをくわえられたまま、注意申し上げるまで呆然
とされておられた。

5月に木戸と連合国の和平条件について相談され、「和平は早いほうがよ
い。だが、鈴木は講和の条件についてどうも弱い。軍の完全武装解除につ
いて、何とか3000人か5000人残せないか」と仰言られた。木戸が「5000人
残しても、有名無実です」とお答えした。

7月に入ると、天皇は伊勢神宮にある八咫鏡(やたのかがみ)と、熱田神宮
にある草薙剣(くさなぎのつるぎ)が米軍に奪われることを、憂慮された。
三種の神器のもう一つである勾瓊(まがたま)は、皇居にあった。天皇は木
戸に、「万一の場合は、自分がお守りして運命を共にするつもりだ」と、
いわれた。

昭和天皇は、いつ終戦を決意されたのだろうか? 

天皇は前年10月に靖国神社の例大祭に御幸されたのを最後に、東京空襲が
始まったので、皇居から出られなかったが、3月10日に東京大空襲によっ
て10万人が死亡したと推計されると、被災地を視察されたいといわれた。

軍は「一億玉砕」の本土決戦を決めていたから強く反対したが、3月18日
に皇居を出られて、1時間以内に往復できる深川の富岡八幡宮に御幸された。

天皇は神社の境内から四囲の焼け野原を見入られて、「こんなに焼けた
か‥‥」と絶句され、御料車へ促されるようにして戻られた。私は天皇がこ
の時に、終戦を決意されたにちがいないと確信した。だが、私の推測でし
かなかったので、そう書くことができなかった。

富岡八幡宮の大鳥居を潜ると、伊能忠敬の銅像がある。忠敬はここで成功
祈願を行ってから、全国測量の第一歩を踏み出した。

私は忠敬の玄孫(やしゃご)に当たるので、“江戸の三大祭”といわれた富岡
八幡宮の例大祭が江戸時代を通じて、8月15日であることを知っていた。
天皇が終戦を決意され、例大祭の日に大戦が終わったのは、御祭神の神威
によるものだったと考えたが、これもオカルトのようだったので書けな
かった。

天皇はこの後空襲を恐れて、終戦まで皇居の外にお出になられなかった。

8月に終戦を決定した御前会議が開かれ、天皇は「ほかに意見がないよう
だから、わたしの意見を述べる。わたしは国内の事情と世界の情勢を考え
合せたうえで、これ以上、戦争を続けるのは無理だと思う」と仰言せられ
て、御聖断を下された。天皇は白手袋の指先で、頬を伝わる涙をしきりに
拭われた。

天皇は阿南惟幾陸相が号泣しているのを見られて、「阿南、阿南! わた
しには国体を護る自信がある」と叫ばれた。

軍人は天皇と軍が一体だと、信じていた。「特攻隊の父」といわれた大西
滝治郎軍令部次長をはじめ、「天皇は先頭に立たれず、皇居で女官と遊ん
でおられる」と批判する高級軍人がいたが、天皇は日本の最高祭司であら
れて、武家の棟梁ではなかった。

貞明皇太后は御前会議の決定を知られると、かえって「皇室が明治維新の
前に戻るだけのことです」と、毅然としていわれた。

歴史によって蓄えられた天皇の大きな力なしに、昭和20年夏の未曽有の
危機に当たって、大戦を終えることができなかったろう。

(本書は3月に『昭和天皇の苦悩』『昭和天皇の苦闘』に分けて、勉誠出
版新書として復刻された。)


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