2019年07月13日

◆3橋が国重要文化財に

渡部 亮次郎


春のうららの隅田川には有名ないくつもの橋が架かっているが、下流に近
い勝鬨(かちどき)橋、永代(えいたい)橋、清洲(きよす)橋の3橋が2007
年4月20日に国の重要文化財(建造物)に指定された。隅田川にとっては初
めてのことである。

また敗戦時からの復興著しく、最近は「水彩都市」を自称する江東区(一
部は元深川区)は松平定信の墓、旧弾正橋(八幡橋)、明治丸に次ぐ4、5件
目の重要文化財指定だと喜んでいる。

と言っても橋そのものは江東区ではなく国の所有物だ。永代橋と清洲橋
は、共に関東大震災(1923年9月1日)後の帝都復興事業の象徴として内務省
(現在の国土交通省)直営で作られた。

また勝鬨橋は当時、最先端の技術を駆使した日本で最大規模の跳ね橋とし
て作られ、いずれもわが国橋梁技術史上、高い価値があると評価された。
遊里深川に渡る永代橋は男性的、清洲橋は曲線の美しさから女性的といわ
れている。

永代橋が架橋されたのは、元禄11(1698)年8月であり、江戸幕府5代将軍
徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりもやや北側、(西岸中央
区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀1丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)
のあった場所である。隅田川で4番目に作られた。

当時は深川新地の象徴として歌川広重などの錦絵にもよく描かれている。

「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたから
という説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説
(「永代島」は「永代橋」から採られたとする説)がある。

幕府財政が窮地に立った享保4(1719)年に、幕府は永代橋の維持管理を
あきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費
を町方が全て負担することを条件に存続を許した。

文化4(1807)年8月19日、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛け
た群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こす。

橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が
次々と押し寄せては転落し、死者は実に1500人を超え、史上最悪の落橋事
故と言われている。この事故について、大田南畝が狂歌を書き残している。

永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼

なお古典落語の「永代橋」という噺も、この落橋事故を基にしている。

明治30(1897)年、道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄製のトラス
橋が現在の場所に架橋されたが、関東大震災に被災し、木製の橋床が損傷
し大正15年に震災復興事業の第1号として現在の橋が再架橋された。

「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言
われたこの橋は、ドイツライン川に架かっていたレマーゲン鉄道橋をモデ
ルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100mを超えた
橋でもある。

平成12(2000)年に清洲橋と共に土木学会の「第1回土木学会選奨土木遺
産」に選定された。

構造形式
中央径間:スチールアーチ橋
両側:鋼桁橋
工法 ニューマチックケーソン工法
橋長 184.7m
幅員 25.0m

着工 1923年(大正13年)12月
竣工 1926年(大正15年)12月20日

施工主体 東京市復興局
設計 田中豊原案、竹中喜忠設計
橋桁製作 神戸川崎造船所
施工 太丸組/間組

清洲橋(きよすばし)は、東京都道474号浜町北砂町線(清洲橋通り)を
通す。西岸は中央区日本橋中洲町、東岸は江東区清澄1丁目。「清洲」と
いう名称は公募により、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中
洲町から採られた。

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された。「帝都東京
の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」と
も呼ばれた優美なデザインである。

当時世界最美の橋と呼ばれたドイツケルン市にあった大吊り橋をモデルに
している(この橋は第2次世界大戦で破壊され、現在は吊り橋ではな
い)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さ
くする努力がなされた。

もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。

構造形式  自碇式鋼鉄製吊り橋
橋長 186.3m
幅員 22.0m

着工 大正14年3月
竣工 昭和3年3月

施工主体 東京市復興局
設計 鈴木精一
橋桁製作 神戸川崎造船所

勝鬨橋(かちどきばし)とは、東京都中央区で隅田川に架かる橋。晴海通
り(東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線)が通る。

日本では珍しい可動橋(跳開橋)であるが、現在では機械部への電力供給
も無く、可動部もロックされ、跳開することはない。近年、再び跳開させ
ようとの市民運動や都の動きはあるものの、機械部等の復旧に莫大な費用
(約10億円)がかかること、また現在は多数の道路交通量があることか
ら、実現のめどは立っていない。

1905年(明治38年)1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として
有志により「勝鬨の渡し」が設置された。

築地と、対岸の月島の間を結ぶ渡し舟である。埋め立てが完了した月島に
は石川島造船所の工場などが多く完成しており多数の交通需要があったこ
とで、1929年(昭和4年)「東京港修築計画」に伴っての4度目の計画によ
りようやく架橋が実現することとなった。

建設当時は隅田川を航行する船舶が多かった。このため陸運よりも水運を
優先させるべく、3千トン級の船舶が航行することを視野に入れた可動橋
として設計され、跳開により大型船舶の通航を可能とした。高架橋とする
案もあったが建設費が安く済むため、可動橋案が選定された。

勝鬨橋の工事は1933年に着工し、1940年に完成を見た。1940年に「皇紀
2600年」を記念して月島地区で開催予定であった国際博覧会へのアクセス
路とする計画の一環でもあったため、格式ある形式、かつ日本の技術力を
誇示できるような橋が求められた。

そのため、アメリカ等から技術者を導入せず、全て日本人の手で設計施工
を行った。結果的に博覧会は日中戦争の激化などもあって軍部の反対によ
り中止されたが、勝鬨橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほど
の評判を得た。なお当初から路面電車用のレールが敷設されており、1947
年から1968年まで橋上を都電が通行していた。

設置当初は1日に5回、1回につき20分程度跳開していた。この頻度はほぼ
1953年ごろまで続いたが、船舶通航量の減少と道路交通量の増大により次
第に跳開する回数は減少し、1964年以降は年間100回を下回るようになった。

1967年には通航のための最後の跳開が行われた。その後は年に1度ほど試
験のため跳開されていたが、1970年11月29日を最後に跳開されることはな
くなり、1980年には電力供給も停止された。

構造形式
中央部 跳開型可動橋
両側 鋼ソリッドリブタイドアーチ橋
可動部 双葉跳開型(可動支間長 44m)

橋長 246m
幅員 22m

着工 1933年(昭和8年)6月
竣工 1940年(昭和15年)6月14日

施工主体 東京都・銭高組

橋桁製作
月島側アーチ橋 石川島造船所
築地側アーチ橋 横河橋梁製作所
跳開橋 川崎車両
橋脚 宮地鉄工所
可動部(機械)渡辺製鋼所 (電気)小穴製作所

参考資料:ウィキペディア    2007・05・01
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。