2019年08月22日

◆「万葉集」の軍事メッセージ

毛馬一三


韓国の「百済の都・扶余」の遺跡から、618年に作成された「出挙(すいこ)」の木簡が、2008年前後に発見されている。

「出挙」とは、作付けの季節に農民に利子つきで貸出した「種もみ」を、収穫の秋に利子分を含めた作物を現物で回収する制度で、木簡には農民毎に回収した「作物の量」が記録されている。

この木簡は、日本でも飛鳥時代以前の古代遺跡から、全く同じものが既に発掘されている。

つまり、中国から発祥した貴重な税収制度が、百済を通じて日本へ導入されていたことの証だが、もし百済と日本の間に、当時緊密友好な関係がなかったら、日本へこうした国家構築に属する機密情報が、伝わって来なかったであろうことは想像に難くない。

この韓国の発掘記事を読んだのは、随分以前のことだが、こうした日本と百済との「秘めたる繋がり」の驚くべき逸話を話してくれた、韓国の著名女流作家のことを思い出し、本稿を書いてみた。

同作家は、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員(1981年)を経て、韓国女流文学会会長を歴任。

私は、李氏が来日されたた折、2日間奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇の古墳群」散策の案内役を務めたことがある。

その際李氏から、「軍事、政治メッセージに秘められた万葉集」という驚くべき学説を聴かされたのである。

韓国の李氏が、どうして日本の「万葉集」と関わりを持ったかというと、李氏が韓国国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係の記述が歪曲されているという問題が提起されたことから、日韓両国の国会議員による特別委員会が設けられ、その委員として調査に乗り出したのがきっかけだったという。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに追求するには、どうしても日本の古代史にまで遡って検証する必要があった。そのために両国歴史書を克明に調べている内に、日本の「万葉集」に魅せられて仕舞ったのだという。

まずは「万葉仮名」の研究に惹かれたらしいが、その中で重大なことは「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語で判読出来ないとされている歌のほとんどを、韓国語で詠んでみると、総て詠み通せるうえ、解釈も可能であることを見つけ出したというのだ。

これは当時としては大発見に間違いなかった。

帰国した李氏から、私に李氏著書「もう一つの万葉集」(文藝春秋刊1989発刊)が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれおり、驚愕した。

その中で、特に目を見張らせる下記の記述だった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない「未詳歌」とされているのは3首あり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。斉明天皇(655年即位)の意中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が代詠した歌が、それである。

◆原文:  金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念<巻1の7・未詳歌>
・日本語よみー(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

・この歌は、従来の「日本語解釈」では、こうなっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

しかしこの解釈では、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明なことから、公式に「未詳歌」とされてしまったのだ。

そこでこの祥らかでないこの歌の原文を、韓国語で読んでみると・・・。

(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)
・韓国語で詠むと―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお 上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)。>
 ということが明らかになる。

李氏の韓国語解釈をそのまま読むと、これは斉明天皇が百済に送った「軍事警告メッセージ」というのとが明確となる。

だとすれば斉明天皇が百済に対して、これほどの機密「メッセージ」を送らなければならなかった理由とは何か、その疑問にブチ当たる。

皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3国間は極端な緊張状態にあった。

特に重要なことはこの歌は、百済が新羅・連合軍に滅亡させられた661年より13年も早く、斉明天皇自身が国家危機を予測して、あえて百済に「軍事機密メッセージ」を伝えていたことになる。

となれば、「新羅の不穏な極秘情報」を、斉明天皇は歌に秘めて、百済が滅亡する相当前から「軍事メッセージ」として伝達していたに違いない。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の朝倉宮て新羅・唐との戦争に備えた。

ところが斉明天皇は、遠征軍が百済に向かう前、失意の内に亡くなっている。

斉明天皇のこれほど異常な「百済ひいき」について日韓学者の一部には、斉明天皇は、百済第三十代武王の娘の「宝」で、百済最後の王、義慈王の妹だったとの説もある。

これが事実ならば、恐らく斉明天皇自身、「万葉集」歌に秘めた「軍事警告メッセージ」の存在だ真実味を帯びてくる。

「万葉集」を古代の珠玉の日本文学と仰ぐ人たちにとっては、「万葉集の韓国語詠み」は認め難いらしく、額田王作の「未詳歌」はあくまで「未詳歌」として位置付けている。

しかし、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで、百済救国にこだわり続けてきた当時の日本の歴史を見ていけば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことは証明されている。

だとすれば万葉集愛好家でも、万葉集の中に「軍事メッセージが込められた」「未詳歌」の存在に興味を抱かれるかも知れない。「万葉集」は奥が深い。(了  再掲)


参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア
                             
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