2019年09月03日

◆平和憲法の「平和」という言葉の危うさ

加瀬 英明


 青年時代に、私は鶴田浩二や高倉健の任侠映画を楽しんだ。人気が高
かったから、つぎつぎと続篇がつくられた。

任侠といえば、弱きをたすけ、悪――強きをくじくという意味だが、主人公
が男気に富んだ役を演じて、勧善懲悪の物語となっていたから、爽快感が
あった。

座敷か洋間の組の本部には、組長が座る背後に、かならず『誠』とか『仁
義』とか揮毫された掛軸がかかっていた。任侠映画によって暴力団に憧れ
た若者も、いたことだろう。

もっとも、暴力団はこのところは警察の取締りが厳しくなって「反社会勢
力」と呼ばれるようになり、目を背けたくなる暗いイメージを持ってい
る。暴力団を美化する任侠映画を、つくられなくなった。

任侠という美名をかたりながら、弱い飲食店や、商店から、他の暴力団か
ら保護するといって、“見ヶ〆料(みかじめりょう)”を強要したり、不法な
賭博、高利貸し、麻薬売買などを行ってきた。

しかし『誠』とか、『仁』『義』と書かれた掛軸の字には、不思議な力が
宿っているから、それだけで人を説き伏せてしまう力が籠(こも)っている。

だが、さまざまな悪事を働いている団体に、『誠』とか、『仁』『義』と
いった言葉は、まったく似つかわしくないものだ。

ちょっと立ち停まって考えれば、現行憲法は「平和憲法」と呼ばれている
が、この言葉も同じことではないだろうか。

暴力団の本部の床の間にかかっている、掛軸の「仁」とか、「義」という
言葉によく似ている。

「平和」は美しい言葉だ。だが「平和」という誰もが反対できない言葉の
裏で、日本の安全を危うくする力が働いている現実から、目をふさがれて
いるのではないか。

日本には神代――古代から、言葉そのものに霊力が宿っているという信仰
が、存在してきた。言葉を発すると、その言葉に合わせて現実が変わると
いうものであり、今日でも日本では言葉に超自然的な力がこもっている。

英語をはじめとするヨーロッパ諸語であれば、「シンシアリティー
Sincerity」(誠)とか、「ジャスティスJustice」(義)という単語を額
装して掛けたとしても、見る人が「『まこと』といっても、いったい何を
意味しているのか? 何が『まこと』なのか?」「何が『正義』なの
か?」と、その内容についていぶかることだろう。

日本では「験(げん)」(縁起)を担いで、不吉な言葉を発することを慎
む。もし家族に受験生がいたとしたら、「落ちる」という言葉を使うこと
を避ける。私たちは日常、意識しないで験(げん)を担いでいる。「開く」
といえば始まることだが、宴会が終わる時には「これでお開きとします」
という。

いまから74年前の敗戦までは、「無敵日本」「無敵海軍」とか、「神州不
滅」という言葉が、罷り通っていた。

験(げん)を担いで、全滅は「玉砕」、退却は「転進」と呼び替えられた。
軍部は戦争末期に、本土決戦を戦うといって、「一億総特攻」を呼号した
が、昭和天皇の終戦の御聖断によって、亡国を免れることができた。

口先だけのことなのに、言葉は景気づけにも使われるから、警戒しなけれ
ばならない。

「平和憲法」の平和という言葉を鵜呑(うの)みにして、騙されてはなるま
い。「一億総特攻」を繰り返すことになりかねない。


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