2019年09月07日

◆ロシアの同胞的同盟国の中枢を訪問

宮崎 正弘


令和元年(2019)9月4日(水曜日)弐 通算第6185号   

 ボルトン補佐官、ロシアの同胞的同盟国の中枢を訪問
  ルカシェンコのベラルーシへ米国高官訪問は20年ぶり

 ジョン・ボルトン米大統領補佐官(国家安全保障担当)は、先週から東
欧四カ国を訪問している。とくにウクライナでは航空機エンジンのモトー
ル・シーチ社を狙って中国が株式の過半を買収しようとている動きに「重
大な関心がある」として、直近の中国の「借金の罠」を説明した。

その後、ボルトンはベラルーシを訪問し、ルカシェンコ大統領と会談し
た。ブレジンスキー補佐官以来の米国高官のベラルーシ訪問であり、20
年以上の空隙があった。

最近、ルカシェンコはエネルギー問題でモスクワの態度に立腹、ロシアか
ら距離をおく政治的動きを見せていた。

またモルドバを訪問し、親米的な新首相(女性)と友好的な雰囲気の中で
会談した。モルドバは国内に親露のドリエステ自治区を抱えており、付近
は治安が悪いうえ、隣接するのがウクラナイナのオデッサ港。ルーマニア
との合邦は民族的理想の目標だが、現実は夢想に近い。

ボルトンは最終訪問地のワルシャワに入り、同国のファーウェイのスパイ
逮捕や5G基地局の関連などを突っ込んで話し合うと見られる。ポーラン
ドは政府調達からファーウェイを外したが、民間でのスマホ市場では中国
製品が溢れている。

ボルトンの旧東欧、とりわけウクライナ、ベラルーシはソルジェニツィン
が言ったように「スラブ兄弟国」であり、加えてのモルドバ、ポーランド
への米国政府高官の訪問はプーチンにとっては愉快なことではないだろう。
     
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  菅原道真はなぜ遣唐使廃止を建言したのに失脚したのか
   太宰府での禊ぎ、怨念は天変地異をもたらしたという伝説

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松本徹『六道往還記、天神の道・菅原道真』(鼎書房)
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松本徹全集第5巻である。この巻に納まった作品のなかで、前者の『六道
往還記』については、嘗て小覧で紹介した。

したがって本稿では、菅原道真に絞ってみたい。

 評者(宮崎)が小学、中学の頃、学生服着用だったが、かならず「管
公」か、「楠公」ブランドだった。管公は学問の神様、楠公は日本武士道
の象徴。それほど親しまれた。楠公像は皇居前広場にあり、神戸へ行けば
湊川神社に祀られている。

菅原道真を祭る神社と言えば、京都の北野天満宮だけではない。天神とい
う地名も、天満宮も日本中にある。評者の街のなかにも天満宮があり、受
験シーズンとなると境内に合格祈願の絵馬が溢れだす。全国に天満宮は無
数、総本山は京である。

それほど尊敬を集めている歴史上の英雄であるのに、菅原道真の人とな
り、その作品を知る人はそれほど多くはない。

道真は第一に文章の達人であった。漢詩をこよなく愛し、作詩する一方
で、和歌にも大きな足跡を残した。

漢詩と和歌の天才というのは、その唐風にあきたらず和風に力点を置きつ
つバランスを取ったという意味だけではない。しかし道真は和歌の天才歌
人として、現代に伝えられている。漢詩も多く残したという側面を知らな
い人が多い。

当時の日本の文化、芸術、言語的環境は、唐風に染まっていた。いまの日
本で言えばグローバリズムに染まっているような他律的精神環境があった。

古事記、日本書紀は漢字で書かれているが、古事記は大和言葉を、漢字を
借用しているのに対して日本書紀は最初から漢文、中国語である。
 ひらかな、カタカナの発明は道真の後の時代である。

松本氏はこう書く。

「この時代、公の文書はあくまで漢文であり、政務を公事たらしめる要の
役割を担っていた。漢字という異国の文字を綴って文章とすることが、こ
の国の政治的体制を築き、定め、かつ、動かすことに直結していた」
(239p)。

変化が起きた。日本文化、文学の変容だった。
 
「宇多天皇の関心は、漢詩から離れることはなかったが、唐風一色の朝廷
の在り方に飽きたらぬものを覚え、かつ、後宮の女たちの好みの変化をう
けて、この国土に根差した、より自らの感覚に添った催しや歌に関心を向
けるようになっていた。それに対して道真は、讃岐での日々における自ら
の『詩興』の変化を自覚して、その展開を考えながら、適確に応じて行っ
たと、と捉えてよかろう」(253p)

遣唐使廃止の建言に至る心境、芸域の変化を下記のようにまとめられる。
 
前提として宮廷の文化的感覚の変化、服装、装飾から絵巻もの、角張った
ものをさけ、きつい色彩を遠ざけ、「なよやかな優美さを追求するように
なっていた」。

ゆえに、「このような変化を公式に、きちんと認めるのに、遣唐使の廃止
決定ほど相応しいものはなかったろう。(中略)これは或る意味では、道
真自身が拠って立つところを、自ら掘り崩す方向へ時代を導くことでも
あったのも確かであった」(266p)

道真の失脚は、遣唐使廃止が原因ではなかった。

あまりに顕然と出世しすぎたことが、ライバル達の嫉妬を倍加させ、加速
させ、讒言を呼び込んだと考えられる。

令和日本の現代。太宰府にある天満宮は参道に人が溢れるが、驚くことに
多くが中国人ツアーである。遣唐使を廃止した日本の英雄を、なぜ中国人
が拝みに来るのか訝しい現象だ。まして日本の神道の意味もわからずに、
名所だから立ち寄って、要するに土産を買うのが目的である。

太宰府政庁跡にも観光客が溢れだした。日頃、観光コースから外れた場所
であり、地面があるだけで、訪れる人が少ない、というよりいない。政庁
跡地という看板と、柱の跡くらいしか残っていないからである(ただし菅
原道真は太宰府に「左遷」され、蟄居を命じられていたため、政庁にも
通ってはいない)。

さて道真の出生地と伝承される場所は6つも7つもある。「ここが管公生
誕地だ」という伝説となった土地があり、じつは特定されていない。

松本氏はまず、出生地伝説の土地をたずねる。この作品は旅日誌風であ
り、ともかく菅原道真が辿ったすべてを巡礼の如く、思いを込めて巡るの
である。果てしなく歩き、その現場にたって、土地の風を、土地の匂い
を、そして土地の人々の会話を通じて、一歩でも実相に近付こうという、
一種ルポルタージェ技法を用いての、道真論である。

出生地から、京都での自宅跡地、讃岐赴任時の旅路、讃岐の住まい。そし
て太宰府に左遷となって船で瀬戸内海を各地に寄港しながら尾道、防府と
一ヶ月かけた失意の旅の跡を、克明にたどりながら、松本氏は残された歌
を思い出し、解釈し直し、そのときの道真の心境に迫ろうとする。まさに
意欲的な労作である。文学論でもありながら、この本は評伝の域を超えた
歴史志操を中軸に置いている。思想ではない、「志操」である。

道真の生涯は、言ってみれば志操で一貫した。

幼きときから文章の才能を見出されて天皇の側近として政治にかかわりな
がらも、俗世の出世、嫉妬、派閥争いには恬淡として距離を置き、だから
こそ疎まれ、嫉妬され、讒言された。

ところが道真は百年後には神となり、天皇が参拝に行くことになった。

           
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 訃報
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佐藤雅美(さとうまさよし)氏
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直木賞作家の佐藤雅美氏が7月29日死去された。享年78。

筆者は彼と3年ほど会っていなかった。佐藤氏は『大君の通貨』で文壇に
鮮烈デビュー。その後、独自な味わいのある捕物帖などでベストセラー作
家となる。そんな佐藤氏を紹介してくれたのは西尾幹二氏で、当時、江戸
時代の通貨改革等で辣腕をふるった新井白石や荻生?来などの研究会が
あった。江戸時代の経済情勢など佐藤氏は学者でもないのにやたら詳しい
人だった。

伊東に引き籠もっての執筆活動で、伊豆から都内の会合にでるときはホテ
ル泊まりだった。夕方から酒をはじめ、早寝が得意というのは筆者とたい
そう意見が合い、ちなみに「何時に寝るのか?」と聞くと「午後5時」の
由。いくらなんでも早すぎますね、と言いあった会話を思い出す。

意外な逸話は昭和45年、三島事件の直前に佐藤氏は(たぶん『週刊現代』
の取材で)、馬込の三島邸を訪問した経験があり、インタビューがおわっ
て帰ろうとすると「もう、帰るのかね?」と三島由紀夫から引き留められ
た逸話を披露されたことがある。

それで、筆者は佐藤氏に『憂国忌』の発起人をお願いしたのだった。
 合掌。


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