2019年09月12日

◆雀庵の「支那人は国を信頼しない」

“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/26(2019/9/10)】京浜急行の横浜からの下り 線
は結構スリルがある。毀誉褒貶の人、島崎藤村「夜明け前」の真似をす
ればこんな具合。

「京急線は概ね山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖際
の線路であり、あるところは十間下の川を越えたり、あるところは山の尾
をめぐる谷の入り口である。山を貫く隧道を抜けるとまた隧道に入り、そ
の数知れず。一筋の線路はくねくねと回りながらこの緑多い森林地帯を貫
き海へ向かっていた」

トンネルを抜けても雪国じゃないから駒子はいないね。藤村が骨まで
しゃぶった「こま子」とか、猪、鹿、狸などのジビエはいそうだ。

仰げばトンビが空をのんびり泳いでいる。思えば遠くに来たものだ、
「旅」という気分になる。南下の旅はひたすら明るい。「三崎口行」なん
てそれだけで気持ちいい。

京急の特急電車は通常は時速120キロ、最速140キロで突っ走る。曲がり
くねっているから見通しが悪く、こんなところに踏切が!と驚いたりす
る。ジェットコースターみたい。少なくともビッグサンダー・マウンテン
より興奮する。

事故を防ぐには線路を高架化すればいいだろうが、莫大な金と時間がか
かるから難しい。比較的簡単なのは踏切を線路の下に移すことだろう。大
型車の通行は無理だろうが。

安全にはカネがかかる、半端ない。日本では自然災害は避けようがない
が、人災は比較的少ない。国家は民に「炊煙と安眠」を保障してこそ存在
意義がある。

「国は国民を守ってくれる」と、戦後復興のいい時代に生まれ育った小
生は思うが、支那の民にとって国=官=支配者=収奪者、民=被収奪者=
囚人、なのではないか。広大な収容所で、囚人は生き延びるためにひたす
ら働き、知恵を巡らせ、獄卒は特権階級として「ユスリ、タカリも芸のう
ち」「三方一両得」で遊んで暮らす。選挙もないから、国民には「自分た
ちの国」という意識があるはずもない。

独裁、専制国家の民はひたすら支配階級の圧政下で生きる道、抜け道を
探り、支配階級は常に簒奪、己の利益のために一党独裁体制護持に努め
る。だから「公共のみんなの国」を愛するとか守るという意識はない。

支那ではあらゆる省庁は単なる行政機関で、その上には絶対君主として
法律を越えた独裁者、共産党が君臨、統治している。党員以外は中共の支
配する専制国家をまず愛さない。愛せというのが無理筋。

中共は建国から70年で、ようやく飢餓を克服した。しかし、恐らく10億
前後の人々の生活は厳しいままだろう。一方で金持も増えているから貧富
の差は開くばかりだ。皆が貧しいのは耐えられても、こちらが冴えない一
品料理でヒーヒー暮らしているのに、隣が毎晩のようにベンツに愛人を乗
せて高級レストランで満漢全席では、なお一層のこと惨めな気分になる。

安全ではない、空気も土壌も汚染されている、社会保障はないか薄い、言
論思想の自由はない、選挙もない、真面目な人がバカを見る・・・そんな
国、体制への愛国心は育ちようがない。それは有史以来連綿と続いた支那
の初期設定だ。

日本の従軍記者の嚆矢でもある岡本綺堂「江戸っ子の身の上」から。

<「昔の従軍記者」

日露戦争の当時、私は東京日日新聞社に籍を置いていて、従軍記者とし
て満洲の戦地に派遣されましたので当時のことがもっとも大きく記憶に
残っていますが、順序としてまず日清戦争当時のことから申し上げましょう。

日清戦争(1894/明治27年〜1895/明治28年)は初めての対外戦争であり、
従軍記者というものの待遇や取締りについても、一定の規律はありません
でした。朝鮮に東学党の乱が起こって、清国がまず出兵する、日本でも出
兵して、明治27年6月12日には第五師団の混成旅団が仁川に上陸する。

こうなると風雲穏やかならず、東京、大阪の新聞社からも記者を派遣す
ることになりましたが、当時は従軍記者ではなく、各社が通信員を送り出
したというに過ぎないので、直接には軍隊とは何の関係もありませんでした。

そのうちに事態いよいよ危急に迫って、7月29日には成歓牙山の支那兵を
撃ち払うことになる。この前後から朝鮮にある各新聞記者はわが軍隊に付
属して、初めて従軍記者ということになりました。

戦局がますます拡大するに従って、内地の本社からは第2第3の従軍記者を
送ってくる。これらは皆、陸軍省の許可を受けて、最初から従軍新聞記者
と名乗って渡航したのでした。

何分にも初めてのことで、従軍記者に対する規律というものがないの
で、その服装も思い思いでした。みな洋服を着ていましたが、腰に白木綿
の上帯を締めて長い日本刀を携えているのがある。仕込み杖をいるのがある。

今から思えば嘘のようですが、当時の従軍記者としては、戦地へ渡った暁
には軍隊がどの程度まで保護してくれるか分からない。万一負け戦とでも
なった場合には、自衛行動をもとらなければならない。非戦闘員とて油断
はできない。

まかり間違えば支那兵と一騎討ちするくらいの覚悟がなければならない
ので、いずれも厳重に武装して出かけたわけです。

実際、その当時は支那兵ばかりでなく、朝鮮人だって油断はできないので
すから、このくらいの威容を示す必要もあったのです。軍隊の方でも別に
それを咎めませんでした・・・>

それから10年後、明治37、38年の日露戦争から従軍記者に対する規律が
定まった。大尉相当の待遇を受ける、その代わりに軍規に一切服従すべし
となった。また、従軍記者は1社1人に制限された。各社とも困り果てた
が、蛇の道は蛇、「上に政策あれば下に対策あり」で、地方新聞社の名義
を借りて複数の記者を派遣するようになった。

陸軍省も知っていたろうが、規定には触れないので許可した。これにより
大手紙各社は3〜6人の記者を派遣できたという。武器はピストルのみ許可
された。

<食事は監理部へ行って貰ってくるのですが、時には生きた鶏や生の野
菜をくれることがある。米は炊き、鶏や野菜は調理しなければならず、な
かなか面倒でした。

私たちは7人が一組で、2人の支那の苦力(クーリー、人夫、軍夫)を
雇っていましたが、毎日交代で日本の料理法を指導していました。


苦力の日給は50銭で、みな喜んで忠実に働いてくれました・・・>

1931/昭和6年の柳条湖事件(満州事変)あたりから、支那は蒋介石国民
党、毛沢東共産党、日本との三つ巴の内戦・乱戦になるのだが、支那人に
とって国民党はゴロツキ、共産党は餓狼山賊殺人鬼、日本軍はそれを追い
払う討伐隊(番犬)というような感じではなかったか。

国民党は“官軍”を自称するが、その徴兵は「アンビリーバボー!」とし
か言いようがない。町村の幹部を脅して、そのアドバイスで“札付きの厄
介者”を拉致したり“通りがかりの若者”を拉致したり。彼らは「拉壮丁」
と呼ばれ、坊主頭で眉毛を剃られて逃げることもできない。捕まれば半殺
しかお陀仏。ほとんど奴隷。

国民党は「砲声一響、黄金万両」(戦争は金儲けのチャンス!)で強
奪、強姦、汚職などの悪事はするが、共産党は奪い尽くし、殺し尽くし、
焼き尽くす「三光作戦」で、「貧民以外は階級の敵」史観だから非常に恐
れられた。

この群は銃を持っているのは3分の1、裸足は2分の1で青龍刀や棍棒を担い
でいる。服装はボロボロ、まるで乞食、阿Qの群だ。「赤匪が来る!」と
なれば近隣の町村はもぬけの殻になったという。

人民は抵抗する術がないから国民党軍や日本軍が来ると用意しておいた旗
を振って友好の挨拶をしたそうだ。「あまり乱暴しないでね」(カネとエ
サとサケはやるから早く出てってくれ)というわけ。にわか娼婦や強姦も
あったろう。

綺堂は、苦力や農村の人々が「日本軍はインテリが多い(現実は「国破れ
て山河在り」とか「月落ち烏啼きて霜天に満つ」なんて有名な漢詩は多く
の人は常識として知っていたし、書けただけなのだが)、漢字で意思疎通
できる、乱暴しない」と警戒心を解き、やがて親密な中になっていくこと
に心打たれている。

今の日本は「日は落ちアカ鳴きて涙天に満つ」だが、愛すべき、支える
べき、信頼できる日本国は土俵際で何とか残っている。最初からそんな母
のように優しい、父のようにイザとなれば頼れる国がない支那の民が、カ
ネ・コネしか支えがないのは気の毒である。互助会みたいな宗族は国の代
わりのなるのか、殉死する価値はあるのか・・・小生には分からない。

♪白樺 青空 南風 こぶし咲くあの丘 北国の ああ 北国の春

支那の民もこの歌が大好きだった。故郷、故国・・・愛すべき国がある
ことは素晴らしいことである。

発狂亭“愚にして辱だがたまには凛?”雀庵の病棟日記から。

【措置入院 精神病棟の日々(144)2017/1/13】産経は「トランプが来
る、大変だ、大変だ!」、まるで狼少年のごとくに騒いでいるが、記者の
中にはリベラル≒アカモドキもいるから、まあ、そのうち慣れるだろう。

政治マンガ(山田伸)はいつも本当につまらないが、今朝のはデタラメ
ルケルがトランプに「保護主義はダメ!」と阻止している絵だった。独を
亡国へ導く“ジャンク”メルケルに比べれば、テーブルの下でプーチンと手
を握り合って「うまいことやろうぜ」と意気投合を演じている怒鳴門・虎
河豚の方が遥かにマシだ。調理次第で高級料理になる。

新聞チラシに入っていた「厚木市タウンニュース」によると、緑豊かな
愛甲石田あたりの住民ボランティアによる無料ミニバン路線バスが金曜夜
の終バス(神奈中バス?)後に深夜便運行を始めたという。「このままで
は地元に若者はいなくなってしまう」という危機感が動機だ。

この辺りの若者の多くは、神奈中バスや小田急などを乗り継いで東京の
職場まで通うと最低2時間はかかる。結構しんどいから東京に住んでしま
う。「せめて週末には故郷へ帰ってきてよ」というヂヂババの願いだ。

過疎化、過疎地をどうするか、みな悩んでいるが、生産性の低い小規模
農業では一家4人を支える最低所得、年収800万円には到底届かない。国際
競争もあるから企業誘致も難しい。サービス業にしても猿と鹿、熊は何も
買ってくれない。

狭い農地にしがみついていないで皆でドローンや無人コンバインを使う
農業法人などを先行企業を巻き込んで創るべきだ。地平線が見えるくらい
の農地! せめて2〜4キロ四方の農地でなければ競争に勝てないし、次世
代は育たない。起業では農地を物納して株主になればいい。

「先祖伝来の農地」を死蔵するのではなく、大いに活かす、頭を使う、
魅力ある産業に仕立て上げる、それがご先祖様への何よりの供養になる。

なあ、爺さん、あんた分かってないようやから教えといてあげるがの
う、誰が住むのか分からんような豪邸を建てても、チンケな農業の跡取り
には嫁さん来ないぜよ、のう。よーく考えることや、脳ミソ使わんと呆け
るで、のう。(つづく)2019/9/10


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