2019年10月18日

◆「老いの自戒」少々、自虐気味?

眞鍋 峰松


最近、私には「老い」についての記述が増えている。これは何も自虐的な意味合いを持たせる積もりもないのだが、日々の暮らしの中で、己なりの自覚と反省する上に立つ事柄が多くなった故だろう、と納得する。 

憤怒調節障害。最近、ある新聞紙上で初めてこのような言葉を眼にした。この障害は、精神的苦痛を受けた時に「不当な扱いを受けている」と思い込み、侮蔑感、挫折感、無力感などが持続的に、しかも頻繁に表れ、些細なことで怒り出し殴る、一種の病気だというのである。

しかも、この障害による暴行検挙件数は、高齢者で増加しており、最近の2013年のデータでは3048人、20年前の45倍に及び、その原因は「激情・憤怒」が60%以上。「飲酒による酩酊(めいてい)」の14%を大きく引き離している、とのこと。
 
高齢者が些細な事で、ブチ切れ、突如、凶悪な人間に変身する。元来、高齢者によくみられる特徴として、短絡的で独善的なことが多いと指摘される。

短絡的とは物事の本質や筋道を深く考えずに、原因と結果などを性急に結びつけてしまう様を意味し、独善的とは @他人に関与せず、自分の身だけを正しく修めること、A自分だけが正しいと考えること・独り善がり。言うなら、他人の利害や立場を考えず、自分だけが正しいとする考え方に固執することである。

これが「年寄りの強情と昼過ぎの雨はたやすく止まらぬ」と酷評される由縁だろう。

私自身を振り返っても、ご他聞にもれず、年齢を重ねるごとにこれらの症癖が強くなってきたような気がする。つまり、自分で言い出したら人の言うことを容易に聞かない、一旦言い出すと滅多に変えようとはしない等、の症癖を自分自身で自覚するというよりは、家人からよく指摘されようになった。
 
特に自覚する問題行動は、テレビ放送の途中でやたらと怒りの声を挙げ、罵詈雑言の類に走る己の姿である。

自分でも怖くなるのは、それこそ“どうにも止まらない”ことで、後々、自省することがたび重なる。それでも止まらない。 だが、これは果たして生来の悪癖なのだろうか、と思いながら自戒する。

こんな折、昨年12月頃、地下鉄内の広告で、週刊誌の見出し記事に<「老人の品格」はどこへいった?>と掲載されているのを見つけた。

記事内容を読むと、スーパーでいつも入り口に近い障害者用駐車場に車を留めるおじいさんがいて、店員が注意したら「私は高齢者だ。障害者と同じようなもんだ」「常連客に向かって文句をいうのか」と言い返された。

スーパーのレジで気がつかないふりをして割り込んだ高齢女性たちに「並んでください」と言ったら「年寄りに長い時間並べっていうこと?」と睨(にら)まれた、等々。 確かに眉をひそめるような事例が並んでいる、のである。

これらの現象について、社会学者で甲南大学准教授の阿部真大氏は、「『世間体』を気にしなくていい世の中になりつつあるということが考えられます」「社会的背景が、『周囲が見えない』『配慮ができない』シニアを作ってしまった面がある」。 

核家族化が進み地域のつながりが希薄になって、しっかりしたおじいちゃん、おばあちゃんでいなくてもいいという意識が広がったから、と解説されるのである。

 そして、問題をより深刻化させるのは、老人と若者との間の軋轢である。
 
既にお読みになった方も多いと思うが、6月1日の産経新聞記載の桑原聡氏の「【鈍機翁のため息】(293)間奏 I 若者の老人憎悪は臨界点に」の記述である。                           
以下、長文なので略述してみると、『 コンビニでたばこを注文した老人の傲慢な振るまいについて書いた「醜悪なクレーマー」が、インターネットの掲示板サイトで話題になっている、と知人が教えてくれた。

早速のぞいてみると、書き込みの半分以上は《老害死ね》とか《団塊の老害はほんと社会問題になってるよな。どこの店員に聞いても口をそろえてジジイが一番態度悪いって聞くわ。ゆとりの方が100倍マシ》といった、わがままな老人への若者の憎悪だった。・・・かように老人と若者の対立は古今東西変わることなく存在し、この対立が善きにつけあしきにつけ、社会を変える原動力となってきた。

ただ掲示板を読むと、貧しい若者と裕福な老人という世代間格差の問題も絡んで、対立は憎悪に変質し、それは臨界点に達しつつあるように感じる。ささいなきっかけで若者の暴発が起こりそうな気配。 私の頭には「世代間戦争」という不気味な言葉が浮かぶ…。 』というのである。
 
到底、この状況は世代間の相克、意見対立といった次元の上質?な類のものではない。

幾ら何でも私に限っては・・と思いつつ、以前に本欄で「50年後の“高校 卒業式”」という表題で、こう記述したことを思い出した。
 
それは、毎年、母校の高校で、その年の卒業式に招かれた、50年前の卒業生。つまり我われ同期生が「ややお恥ずかしいことだが、終始静粛・厳粛さを保ってきた式場全体の中で、我々後期高齢者の面々が、この雰囲気とは裏腹に、私も含め、終始お隣の同期生同士、眼前に進展するドラマと往時の回顧とを重ね合わしながらの、ヒソヒソ話。 極々の小声とは言え、若干非難されても仕方が無い状態」であったことである。

しかし、「これも考えれば、我々はもはや人生の檜舞台から下りようとする、或いはもはや既に下り切った世代。 眼の前の風景は、これから人生の大舞台の上で長い長いドラマを演じようとする若者達の世界。
 
所詮、彼らのドラマの門出をお祝いする観客にしか過ぎない我が身。 その様な哀感の想いなどを自分自身で無意識に感じながらの2時間半。 どうか失礼の段、平に平にご容赦のほどを」との記述である。

上記の我々の振舞いも、考えれば、如何にも社会性・協調性を欠いた行動であり、同時に、高齢者がこれから人生の大舞台の上で長い長いドラマを演じようとする若者達の世界に接する場合の、無意識の羨望の想いが背景にあるのではないか、と感じる。

 私淑する紀野一義師がこんなことを書いておられる。 

『わたしが、わたしが、と我が強い。年をとるということが、人間を、こんな無神経な、がさつな存在に変えるのである。 年をとるとこんな風になる。 自分が何を言っているか、自分がどういう立場に置かれているか、ちっとも気がついていない人が沢山いる。

それは人間の精神が衰弱している一つの証拠である。 人間は自分のしていることにあまり疑いを持たぬ。「無駄に飯は食っていないよ」とか「この年になるまでには色々なことを経験して来たんだ」とか強気に言う。

 しかし、人間には勘違いしていることに気がつかないぐらい悲しいことはない。どんな偉い人にも勘違いということはある。それに、自分が見ている側とは全く反対の側から見ている人だっている。 自分の考えていることがみんな正しいとはいえぬ。』というのである。

  さらに、道話にはこんな歌もある。 「おたがいに いつまでもいる 娑婆でなし 喧嘩口論 せぬが利口ぞ」「花咲かせ 実をなす見れば 草も木も なべて務めは ある世なり」というのである。

人間には自分で罹っていることが分からない病気がある。 その一つが、自分が考えていることは絶対に間違っていないと思い込む病気。 人間というものは、長い間人生を歩いて来ていると、自分のやってきたことに自信を持ってきて、何をいっても間違っていない気がして、「私の経験からいうとこうですよ」と言い立てるようになるのだろう。

 及ばずながら、それこそ、いよいよ人生の良き先達として自重自戒せねばならないと思う次第なのです。

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