2020年01月17日

◆雀庵の「台湾“日本統治時代”始まるが・・・」

“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/64(2020/1/15】マコさまの縁談の行方は分からないが、先日、東急「学芸大学」駅前の建設素材販売業「ノナカ」で一緒だった旧友を数十年ぶりに訪ねた際、ビックリする話を聞かされた。お相手のコムロさんの母上は「ノナカ」のすぐ近くのケーキ屋「マッターホーン」に勤めていたというのだ。

つまり、何かしら縁があったらコムロさんは小生のタネになったかもしれない。思い起こせばスペシャルショートケーキよりおいしそうな店員さんがいたっけ・・・

それはさておき、この旧友は小生の恩人、師である。小生が保釈されて間もない頃で、Gone With the Wind と逃亡する金力、気力はなく、まだぐずぐずとアカの尻尾を引きずっていたのだが、「君はバカだ、下半身に行くべき血が頭に昇っている」とクソミソにやり込められた。

何しろ彼は10代で2回も心中未遂/睡眠薬自殺事件を起こした少年院(年少)上がりで、死神からも見放された文学青年だったから、読書からジャズまで大いに“訓導”を受けた。

「君は幸せだ、素晴らしいことを何も知らずに成長したんだから。これからたっぷり楽しめる。まったくうらやましいよ」

そう言う彼は、すべてやり終え、早くも20歳でも老成していたから、数十年ぶりに会ってもほとんどそのままだった。しわが多少目立つくらいで、相変わらず何やかやと“病気にビョーキ”だった。便秘、下痢から心臓病、肺がんまで十指に余るのではないか。解説を聞いていたらきりがない。

若くして老成すると・・・正直な話、脳みそがそこでストップして、それ以上成長しないようで、ほとんどゾンビのような・・・半世紀前からそのままタイムスリップしてきたような感じだった。小生も相変わらずバカ一筋(おまけにキチ〇イ)だから偉そうなことは言えないが。

山本夏彦翁は「10代で2回も」自殺未遂し(初回はマッターホルン!)、「死神からも見放されたから生きることにした」と書いていたが、夏彦翁は「この世に友が見つからなければ故人と友になればよい、かくして斎藤緑雨と友になれば芋づる式に二葉亭、陸羯南、子規、一葉、漱石、鴎外、荷風・・・安部譲二と友は増える」と多彩な交際を楽しんでいた。「私は生きている人と死んでいる人を区別しない」。

常に興味津々でいれば発見も多い。ただデカルトの言うように、だいたいこの世のことで真新しい発見なんてない、孔孟老荘からマキャベリ、モンテーニュ・・・すべて古人が考え抜いている。読書はそれを発掘する、それをネタにして料理する、美味しく食べる、皆にも食べてもらい、喜んでもらうのが畢竟、読書、文筆、哲学の「キモ」「筋」だ。

(新宿西口の居酒屋「加賀屋」では「まずはもつ煮込みとホッピー!」は定番だった。もう20年近くご無沙汰しているが、今年もオーナーから賀状が届いた。くたばる前に行かなければ・・・福岡名物もつ鍋発祥の「万十屋」、元々は古民家でやっていたが、多分バカ息子がバブルでビルを建てて「高級料理」に衣替えして大失敗した、昔の店も懐かしい。福岡はもつ鍋やホルモン焼きで有名だが、「屠畜場」で働いていた半島人が給料として内臓を貰い、「屠(ほふ)る者(もん)の食い物」→ホルモンになったようだ。旨いものは民族、国境を越える、心を捉える、岡田嘉子は「雪の樺太・恋の逃避行」、ムッシュー・ゴーンは「マネーとハニーとスイートホーム 暁の棺桶大脱走」、焦る気持ちは分かるが、天に恥じることなきか?)

閑話休題。

若くして老成するのもいいが、そこでストップし、毛色の変わった新人や古人と親しく交わらないとただの「生きている化石」になってしまうのではないか。

アンモナイト 化石以外は なんもないと?(修、わしゃ骨壺だけだな、ライブマスクとか骨格標本は皆の迷惑か。献体希望が多すぎているとか)

「(子育てを終えた後など)晩年に生きるのもまた何事かをなすためである」「走る、それができなくなれば歩く、それもだめなら這ってでも進む、1センチ、1ミリでも前へ!」・・・そういう生き方をしたいものだと、この頃よく思う。

「死んでもラッパを離しませんでした」、そういう最期っていいなあと思う。

フランス兵11人殺害の堺事件で切腹した土佐藩士の辞世の句、

時ありて 咲き散るとても 桜花 何か惜しまん 大和魂

泣けるなあ、美しいなあ、やるべきことをやる、たとえそれをやり遂げられなくても、その「志」を了とし、後に続くものを信じて吶喊、突撃する――大和男児はそうありたいね。

棚ボタで“サッポロ五輪”めでたいか 獲らぬ狸に 誰ぞ浮かれる(修)

産経もビジネスチャンスとばかりにはしゃいでいるが、日本を取り巻く情況はとても「♪オリンピックの 晴れ姿 ソレ トトント トトント 晴れ姿」じゃあない。風雲急を告げるようななかで「さあ歌え、さあ踊れ」と煽られても、小生はしらける一方だが・・・

安倍政権に告ぐ。今からでも決して遅くはないから 直ちに現在の準備を中止し 五輪旗をIOCに返し 日章旗の下に復帰せよ。そうしたら今までの罪も許されるのである。 

♪習近平に擦り寄って世界の嘲笑を浴びたいってさあ、安倍もどーかしてるぜ、あんた、あいつの何なのさ

支持者でした、ハイ。シンゾーは小生より若いのに呆け始めたのか。このままなら求心力低下でダッチロール・・・無様をさらけ出す前に辞職するんだな。キチ〇イにバカにされたらオシマイよ、のう。

さて、台湾の物語。先日の総選挙で台湾派≒反中派≒独立派が勝利したが、とりあえず国名を胡散臭い「中華民国」から「台湾」に改めて欲しい。悪魔のように細心に、天使のように大胆に台湾加油!そして香港加油! 我に何ができるかは分からないが、せめて、せめて、死に場所を!・・・邪魔? オジャマ虫? この際だから笑って許してくれんかのう。

1895年6月5日、「台湾民主国軍」は唐景松総統の逃亡とともに消えた。5月25日の“建国”から10日間ほどの存在で、エピソードにしかならないが、敗残兵の乱暴狼藉は「さすが支那兵、漢族」と台湾人をびっくりさせた。王育徳著「台湾」から。

<無政府状態下での略奪のひどさを物語る例として、立派なクルップ製小野砲が一門2、3ドルで売られ、最新式のウインチェスター銃が1ドルでも買い手がつかなかった>


当時、米国の馬車は「市内どこでも50セント。遠いからと2ドル50セントぼったくられた」とO・ヘンリーが書いているが、1ドルは今の1000円相当だろう。タダじゃないが、タダみたいに安い。まるでバナナの叩き売りみたいだ。混乱する断末魔の台北・・・

<恐怖におののく台北市民の唯一の生きる道は、一日も早く日本軍の入場を要請することであった。何たる皮肉であろう。

ここに辜顕栄(こけんえい、1866−1937)という台湾人が登場する。台北で大陸貿易を手掛け、紳商(小ブル)仲間の委託を受けて単身、基隆で台北進攻をためらっている日本軍に台北の状況を説明し、ガイドを務めた。ときに30歳。

日本軍司令部でスパイと疑われ種々脅しを受けたが、泰然自若として応答し、ようやく信用されたという。

この時の功労を認められ、翌年には台北保良局長(福祉局)に任命されるなど、生涯を通じて日本人と協力したので、1934(昭和9)年には貴族院議員に勅選された。その代わり、多くの台湾人から御用紳士第一号、最大の台漢と悪口を叩かれたが、彼には彼なりの信念があった。

かくて日本軍は6月7日に台北を無血占領した。「この分ならば」と樺山総督以下愁眉を開いた。

しかし壮烈な台湾人の抵抗が始まるのはこれからである。抵抗は1902(明治35)年5月まで、驚くなかれ7年間も継続するのである>

日米戦で日本は「本土決戦」を主張する(わが父ら)近衛師団が意気盛んだったが、昭和天皇が「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と終戦をラジオで国民に説いた。その前夜、父らは放送を阻止するために玉音版奪取の一兵卒として動員されたが、父が「おい、映画を観に行こう」と促されて観たのが岡本喜八監督「日本のいちばん長い日」(1967年8月12日公開)だった。

小生は16歳だった。「父たちの戦争が終わった」と思った。是非は分からないが、本土決戦をしていたら7年どころか泥沼になっていただろうとは思う。

終戦の詔勅、あれはあれで「他に策はなかりし」だったと思うが、我々はご先祖様から「後に続く者を信ず」とタスキを受け取っているのだ。戦傷をいやすのは戦勝しかない。中共殲滅、支那解放は日本、台湾、香港の喫緊の課題になってきた。

全国3500万のヂヂババ同志諸君、立て!老いたる者よ、寝てる場合じゃないぜよ、見事に散るべし。

発狂亭“雨降ってペンキ塗り中止、干天の慈雨で体力調整、終日パジャマでバンテリン塗りまくり”雀庵の病棟日記から。


【措置入院 精神病棟の日々(180)2017/1/23】産経、上塚真由「米デモに呼応 世界中で『反トランプ』『思い通りにさせない』」。気持ちは分からないではないが、表は緑、中身はアカのスイカ人種をいくら集めたところで4年間はトランプ政権だ。チンケなデモで何か変わるのか? 仏では大統領選へ向けてスイカどもの予備選が始まったが、ルペンに勝てるのか?(つづく)2020/1/15

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