2020年01月22日

◆中国企業の債務不履行が「ブーム」に

宮崎 正弘

 
令和弐年(2020)1月21日(火曜日)通巻6347号   

 「社債は償還できなくなりました」。
  中国企業の債務不履行(デフォルト)が「ブーム」に

山東省といえば軍人出身者が多い土地柄であり、孔子の生まれ故郷だ。

軍港も多く、安全保障上の要衝である。渤海湾沿岸の諸都市は一時期、韓国からの投資が目立ったが、不景気と共に多くが夜逃げ、マンションは歯が抜けたようになって済南、青島、威海衛など、経済的にぱっとしなかった。

三洋電機と提携したハイエール(海爾)も電化製品の売れ行きが横ばいからマイナス。つまり山東省を牽引する主力産業がなくなった。

アルミ産業はやたら電気を使う。コーン油の大手「西王集団」が社債デフォルト(150億円)をやらかし、中国の社債市場に警鐘が乱打された。

ドル不足に陥った当局の政策変更で与信枠が縮小した(デレバレッジ=過剰債務の圧縮)ばかりか、共通するのは銀行が「借りろ、借りろ」と薦めたため、具体的な拡大計画も青写真もなく、無造作に巨額を借りた。

土地投機、株式、FX相場への投機にあて、海外における企業買収(たとえば山東省の山東如意集団は英国の老舗テキスタイルを買収した)や無謀な設備投資(中国宏橋集団など)、ブームに乗り遅れた不動産投機などで焦げ付きが生じ、つぎに銀行が「貸しはがし」に転じたため、社債パンクが連鎖した。

内蒙古省の地方政府直轄企業とも言える「フフホト経済技術開発区投資開発集団」が発行した債券は昨師走に償還が出来なかった。デフォルトは准公的機関でも起こり、株式なら下落だが、安心といわれた債券の償還不履行となったのだ。

省都フフホトの包商銀行は破産し、公的機関の管理に置かれた。地方銀行の破産が併行して起きた。

もっとも衝撃的なデフォルトは中信国安集団である。この中信は、CITIC傘下であり、信用があるとされた。67億円の預金が凍結された。

引き続きカリウム肥料大手の「青海塩湖工業」、ゼネコンの「南京建工産業集団」。また海航集団関連の大新華航空、東旭光電科技、永泰能源などの債務不履行が連続した。

中国の債権市場の規模はおよそ500兆円、2020年1月からは「ジャンク債市場」を整備する。ジャンク債というのは投資危険というグレードの債券である。

それでなくとも中国民間企業の社債デフォルトは4・9%に達し、異様な状況に陥っている。

武漢の肺炎のように、またたくまに債務不履行の蔓延だ。

2019年12月、天津物産集団がデフォルト(330億ドルのドル建て債券)、ついで北大方正集団が310億円の社債償還が出来ず、政府の継続的援助の展望が望めないことが判明した。

北大方正集団のデフォルトはまだ確定してはいないが、ベンチャーの嚆矢として華やかなビジネス展開をしてきた有名な大学ベンチャーゆえに、去就が世界から注目されるのも無理はない。
 
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【知道中国 2019回】               
 ──「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(1)
服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)

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服部源次郎は大正14(1925)年の「3月2日朝鮮統營を振出しに、滿洲安東を經て北はハルピンより南は廣東に至り、揚子江を上海より漢口まで往復し、上海の大動亂を最後の觀光とし六月十四日に歸鮮を以て(旅を)終」わる。朝鮮総督府より依頼された「露支水産貿易調査」が目的であった。

ここでいう「上海の大動亂」は、同年5月に上海にある日系資本の内外綿株式会社における待遇改善要求運動を機に、誕生間もない共産党指導によって全国大都市に飛び火した反帝国闘争で、上海では5月30日には全市を巻き込んだゼネスト(「五・三〇事件」)に発展している。

ところで著者の服部だが、生没年も出身地も定かではない。ただ『一商人の支那の旅』の冒頭に掲げられている「釜山日報社長芥川正」の「序文」によれば、明治末年に朝鮮に渡り、孤軍奮闘の末に「合名會社の社長として、精米業、海産商及び農事經營もやり、統營の幾多代表事業會社の牛耳をとり、公人としては道評議員、道水産會議員をやり、極めて多忙な人である」とのこと。

本書は「露支水産貿易調査」の道すがらに「毎日の見聞を其の儘我社に通信し回を重ぬること實に88回に及」び、それを纏めたものである。

結氷する鴨緑江を渡って安東へ。「日は西に落んとし、薄暮沈々、鴨緑江を走る橇の音淋しく聽ゆ、零下5度の寒氣は凛として身に迫る」。

やがて満洲へ。「窓外は一面の雪である。滿目白皓々たる銀世界となつた。風はヒユーヒユーと窓を掠めて音凄しい」。やはり「滿洲の人は常に自然界に征服せられ人力の弱さを體驗して居るから呑氣なのだ、天惠薄い國民は幸かなと思ふた」そうだ。

いよいよ張作霖の本拠である奉天へ。たまたま彼の誕生日に出くわす。当時は「張氏の全盛時代なものだから、〔中略〕支那各省の代表者約300人程、思ひ思ひ貴重の贈物を携へて祝賀に來た、賓客は千百餘人で代理は許さぬ」ということで、服部も参加した。幸運なことに、北京から駆け付けた天下の名優の梅蘭芳による祝賀公演を間近で観劇している。「容貌は全く女と變はらぬ、口と眼が非常に良かつた」と感嘆の声をあげる。
服部の記した文章を素直に読むと、舞台が跳ねた後で梅蘭芳と親しく会話したようだが、返答内容からして、どうも梅の公式的な家族構成に合致しない。ということは、ニセの梅蘭芳(たとえば「奉天・梅蘭芳」とか)か。はたまた別の役者だったとも思える。だが、当時の張作霖の権勢からするなら、ホンモノと考えられるから、やはり梅蘭芳の公式的年譜は時に眉にツバして読む必要があるだろう。

じつは梅蘭芳は前(1924)年秋に2回目の日本公演を東京(帝国劇場)、大阪(宝塚歌劇場)なで行い、7代目尾上梅幸、7代目松本幸四郎、13代目盛田勘彌、7代目澤村宗十郎、4代目尾上松助などの歌舞伎大看板のみならず、芥川龍之介、久保田万太郎、山本有三、菊池寛、有島武郎などの文人をも唸らせる芸を披露し、大好評を博していた。

「天下の名優の梅蘭芳」だろうが、当時の張作霖の権勢からすれば奉天まで呼び付けることは簡単だったはず。また役者からすれば日本公演からの帰国直後とはいえ、強大な権力者をパトロンとして弄することが出来るわけだから、奉天までの遠路を馳せ参じたとしても「損」はない。

だが、当然だとは思うが、梅蘭芳の公式的年譜ともいえる『梅蘭芳年譜』(河海大學出版社 1994年)の「1925年(民國十四年、乙丑)32歳」の項には張作霖誕生宴での記述は一切ない。また『京劇泰斗伝記書叢 梅蘭芳伝』(劉彦君 河北教育出版社 1996年)、『梅蘭芳全伝』(李伶伶 中国青年出版社 2001年)、『百年家族 梅蘭芳』(李仲明・譚秀英 立緒文化 民國90年)にも張作霖との関係は記されてはいない。《QED》
     
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読者の声 どくしゃのこえ READERS‘OPINIONS 読者之声
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(読者の声1)「関岡英之氏を偲ぶ」

貴誌通巻6343号の宮崎先生の「関岡英之氏追悼文」で関岡さんが東京銀行の北京駐在員事務所に勤務されていたことに触れておられました。

じつは、私はそのとき所長で、関岡さんと職場を共にしていたのです。

北京事務所は日本からの派遣社員4人で現地中国人スタッフも4人の合計8人でした。私を除く3人の派遣社員は皆、中国語をマスターしていた優秀な人材であり、中国、中国語とは無縁であった私は関岡さんはじめこの専門家集団の助けで何とか仕事をさばいていたわけです。

関岡さんとの思いでの一つは天津への2ヶ月に1度の出張でした。目的は、天安門事件のあとの中国情勢について在天津日経企業の方々にお話しすることと、中国企業への訪問でした。

当時、北京、天津間は列車で3時間もかかるほどでしたので、記憶は鮮明に残っています。関岡さんは資本市場関係の仕事のあと北京に赴任してこられましたので、天津の往復列車の中で最新のデリバティブ金融商品について教えていただくことがいつものこととなっていました。

話は変わります。中国語がはじめての私は赴任当初から中国人のA先生の個人レッスンを受けていました。テキストは語源学員の初級教科書でした。他の所員は中国語レッスンは受ける必要がないので、実務で中国語を鍛えていたようです。

私の1年3ヶ月あとに赴任してきた関岡さんは、何故かA先生の個人レッスンを受け始めました。目的は人民日報の内容について深く掘り下げようとするものでした。

 A先生は終戦までは満州映画に勤務されておられた経歴のある70歳台の方でした。関岡さんは初めての休暇帰国から北京に戻ってきたとき、「これを手に入れました」と古いが立派な写真集を見せてくれました。

『満州映画』の編集した記帳な写真集だったのです。その集合写真には若き日のA先生が写っていました。

この写真集を送られたA先生は大変喜ばれ、懐かしがられていました。

ポツポツと思い出話をなさいましたが、「甘粕さん(関東大震災の時に、無政府主義者 大杉栄を暗殺したとされる憲兵隊大尉。満州映画創立者で社長)は大変立派な方だった」とのご発言が鮮明に思い出されます。

関岡さんのご尊父は石油・エネルギーの専門家で東洋大学の教授をなさっておられました。関岡さん赴任の際にご尊父の著書を何冊かいただきました。

その一つが「大恐慌の謎の経済学」で、1929年のウオール街の株式大暴落とそれ以降の大恐慌を分析したもので、この本を上梓されたとき、日本の株式は上がり続けていたころでしたが、「これはバブルであり、いずれ暴落する」と結論を下されていました。

大恐慌については以前から興味を持っておりましたが、これほどクリアに書かれたものが当時は皆無でしたので今でも大切に保存しています。関岡さんには、この本について私なりに素晴らしいとの感想を伝え、いつかご尊父にお目にかかりたい旨お伝えしましたが、それは3年後に実現します。

北京のあとジャカルタに勤務したあと帰国し、本店で石油・エネルギーの担当部長になり、早速、関岡さんとご尊父のおはなしをいただく機会ができました。

その後、最後の海外勤務から帰国し、1997年に東京三菱銀行を退職し、カナダの移民権を取得し、カナダで生活することにしました。

出発まえに関岡さん父子が六本木のレストランで豪華な送別会を催して下さいました。そのとき、関岡さんも銀行を辞めて早稲田で建築学を学び、新しい道にすすまれるとのことをうかがいました。

その後、日米構造協議、年次改革要望書を厳しく批判した『拒否できない日本』を上梓され、自らの道を果敢にすすまれているご様子に胸うたれました。

15年ほどまえに日本に一時帰国した折、関岡さん父子を食事にご招待し、大いに意気投合のひと時を過ごすことができました。

私自身は13年前、妻を失い、自らも失明し、カナダを引き払い、日本で独居生活の構築に専心せざるをえなくなりました。失明のため目から本をよむことができなくなりましたが、音声読み上げソフトを入れたパソコンで読書に努め、関岡さんの書かれた本は必ず読む(聞く)こととしていました。

『帝国陸軍、知られざる地政学戦略──見果てぬ「防共回廊」』(祥伝社新書)がその最後になってしまいました。
本書最後の部分は涙なしには読むことができませんでした。関岡さん、奥様、心よりご冥福をお祈りもうしあげます。(SSA,千葉)


(宮崎正弘のコメント)しみじみと哀惜と友情に満ちた追悼文をいただき、感謝します。それにしても奇遇ですね。(小生もよく存知あげている)SSAさんが関岡さんの北京時代の上司だったとは! 世間は狭いのですね。



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(読者の声2)かなり以前ですが、貴誌で北極海ルートに大型砕氷船を投入した中国の動きを欧米ばかりか、足下のロシアが異常な警戒をしているとありましたが、一方で、中国人のロシア北極圏ツアーが大人気とか。
 北極海も中国の一帯一路構想に入っている筈ですが、そのご、劇的な進展はあったのでしょうか?
                  (GH生、福生)


(宮崎正弘のコメント)ロシアの北極圏に近い場所はムルマンスク。海軍基地でもありますが、年間の観光客が45万人! このうちの四割が中国人ツアーです。つまり18万人もの中国人観光客が厳寒の土地に押し寄せ、目玉はオーロラ観光とか。

日本のオーロラツアーはアイスランドが主ですから、やっぱり桁違いですかね。

中国の砕氷船は「雪龍」。2号まで就航しており、3号は原子力駆動にする計画です。



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(読者の声3)13日にアメリカ政府は中国を「為替操作国」から解除しました。あれ、と思いました。言うこととやることは違って、突如、トランプ政権は強硬姿勢を軟化させた。
背景に何かあるように思いますが、如何でしょうか?
  (JJセブン)


(宮崎正弘のコメント)為替相場の決め手は経常収支(貿易黒字)と金利です。つぎに政治相場、これを市場は事前に読み込めませんから、狼狽えます。

ところが米国の基準でいう「為替操作国」とは、(1)対米貿易黒字が年間2000億ドル以上、(2)為替介入による外貨購入が一年に半年以上続き、且つGDPの2%以上の国、(3)特大な貿易不均衡や通貨安誘導を促進してきた歴史がある国など、一方的にアメリカが決めているルールで、相手国がみとめたわけでもない。

したがって日本も監視リストから解除されていない。ちなみに米財務省の監視リストには中国、日本、マレーシア、スイス、韓国、ドイツ、イタリアなど10ケ国。
 中国の解除理由は単純明快です。為替安ならともかく、人民元を中国は高めに誘導しているので、つまりこれは自暴自棄か、自らが自分の首を絞めているに等しく、米側からみれば輸出競争力を奪うので、放置したほうが国益に叶うと計算しているからでしょう。

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