2020年02月10日

◆「生誕日」が分からない蕪村と芭蕉

                                  毛馬 一三



与謝蕪村、松尾芭蕉と並んで江戸時代の三大俳人と言われる小林一茶の「生誕を祝う」催しが、出身地の長野県信濃町で開かれている。

一茶は、今から250年前、江戸時代後期1763年=宝暦13年の5月5日に、今の信濃町で生まれている。

これを記念して信濃町では、5月5日、一茶の生誕を祝う催し「一茶まつり」が開かれる。町内にあるJR黒姫駅からは、地元の子どもたちを含むおよそ数百人が、「一茶音頭」などの音楽に合わせて町を練り歩ている。

一茶の仮装をした人や、一茶のイラストを書いた手作りのプレートを持って歩く人もいて、沿道に集まった人たちを湧かせた。

ところで、大阪の与謝蕪村は、享保元年(1716年)、大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国東成郡毛馬村)で生またが、肝腎の「生誕日」は、残念ながら今でも分かっていない。

しかも芭蕉も、同様に「生誕日」が不明。寛永21年(1644年)三重県伊賀市生まれたのは定かだが、「生誕日」はが分かっていないのだ。しかも厄介なことに、生誕地そのものも、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり、困惑させられている。

だから、確定している「生誕日」に「お祝い」するのは小林一茶だけということになり、蕪村と芭蕉を顕彰する人達にとっては、大きな困惑だ。

となれば、「生誕日」が定かではない以上、まず蕪村については3年後の2016年に迫った生誕の「年内」の「然るべき時」に、「生誕300年の記念主要行事」をせざるを得ないことになる。

そこで、小林一茶の「生誕日」に「お祝いの行事」が行われた機会に、本誌でこれまで触れたことの無かった小林一茶の生涯等を、綴って置きたい。その訳はこのあと追々。

◆小林 一茶は、宝暦13年5月5日(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生まれた。

3歳の時に生母を失い、8歳で継母がやってくる。しかし継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳になった時、郷里を離れて江戸へ奉公に出向く。

25歳のとき、小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶことになり、一茶の俳諧への取り組みが開始される。

寛政3年(1791年)、29歳の時、一旦故郷に帰り、翌年から36歳の年まで俳諧の修行のために、近畿・四国・九州を歴遊する。

享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病するが、1ヶ月ほど後に父は死去。以後遺産相続を巡り、継母と12年間争うことになる。

一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつも、遺産相続権は争い続ける。

文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻・きくを娶り、3男1女をもうけるが、皆幼くして亡くす。きくも、痛風がもとで、37歳の生涯を閉じた。

62歳で2番目の妻(田中雪)を迎える。しかし老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。

64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける。(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長するものの、一茶の血脈を後世に伝える。1873年に46歳で没。

一茶は、文政10年閨6月1日(1827年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った粗末な「土蔵」暮らしをするようになる。

そして、その年の11月19日、その土蔵の中で、一茶は、64年半の生涯を閉じる。法名は釈一茶不退位。

◆さて、<一茶俳句の作風>だが、

幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と、平易かつ素朴な語の運びに基づく「句作」が目を引く。

その作風は与謝蕪村の天明調に対して、化政調と呼ばれている。

◆<代表的な句>は
・雪とけて村いっぱいの子どもかな
・大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
・めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
・やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
・悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
・雀の子そこのけそこのけお馬が通る
・蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
・やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
・名月をとってくれろと泣く子かな
・これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
・うまさうな雪がふうはりふうはりと
・ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)

◆序でながら、<一茶の作った句の数>のことだが、句数は約2万句と言われ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句に比べ非常に多い。

しかし、よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の「類句」があり、これを1句とするか3句とするかは、議論の分かれる。<参考:ウィキペディア>

以上、一茶「生誕日」祝賀会のニュースを知り、一茶生涯を掲載してみた。

ところがここで述べたかったのは蕪村が、「生まれた毛馬村」で父母の死後、私生児として味合う精神的軋轢と自虐的苦悩が、一茶の感慨と極めて類似したところが多々あることだ。

これが、一茶の生涯を明らかにすることによって、蕪村と重なる予期しない苦衷の共通点が見つかり、そのことを書き留めて置きたかった。


「生誕日」が分からない蕪村だが、小林一茶の「生誕日祝賀」に劣らないような記念主行事を、3年後の適切な時に開催し、大阪の文化振興に貢献したいと考えている

どうか、この趣旨にご賛同を頂ける方々に大いなるご助力を賜ることを祈念したい。
                                           (了)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。