2020年02月16日

◆反省が知の源泉である

加瀬 英明


12月に、83歳の誕生日を迎えた。令和の御代の2年目が明けて、干支で子というと、鼠の歳を迎えるから年男になった。

「光陰矢の如し」というが、「光」が太陽で、「陰」が


月を意味している。天照大御神が光を司られ、その弟神の月読尊(つきよみのみこと)が夜の食国(おすくに)を支配されているから、この83年せわしく交替されたことになる。

例年のように、2つの神社のために絵馬を描いて、宅配便でお納めしたが、鼠だったから自画像のようなものだ。クロネコヤマトの商標がネコだから、ネコに咥えられて、道中さぞ恐ろしかっただろうと思って、深く反省した。

中世の西洋哲学の大宗のデカルトが、『省察録』か『哲学原理』のどっちかのなかで、「反省が知の源泉である」と説いているが、私もまだ認知症を患っていないのだと気づいて、安堵した。

失敗が人を成長させる。動物も植物も成長ホルモンによって、育つ。植物であれば成長ホルモンによって、種の休眠が中断され、芽をふき催花を促し、実を結ぶ。私は失敗するたびに励まされる。

ミケランジェロは中世の絵画、彫刻、建築の天才として崇められているが、遺稿のなかで、鼠を時間の象徴として「ネズミはたえまなく噛り続け、時間を食い尽くす」と述べている。

時間は味と共通している。振り返ってみると、時間にはさまざまな味がある。

恋を成就した甘い時間から、振られた苦い時間まである。味には塩から、酸、甘、苦まで、基本的な4つの味質があって、混合融合していろいろな異なった味になるそうだが、その日その日の食生活と似ている。

だから、人生はリズムがあって飽きることがないのだろう。同じことが重なったら、退屈して厭きてしまう。

もちろん、あらゆることに例外がある。

中島兄哥(あにい)と姐さんの仲むつまじい鴛鴦(おしどり)夫婦は、濃厚なシロップのようだ。お会いするたびに血糖値があがる。毎日、無量の幸せを紡いでいられるにちがいない。 

結婚生活は来る日も、行く日も同じことが繰り返されるのに、兄哥(あにい)と姐さん夫婦はきっと初恋から、片時も醒めたことがないにちがいない。

気っ風のよい兄哥と粋な姐さんは、夫婦の鑑(かがみ)だ。男坂と女坂が交わって、山の頂きを目指す幸せの一本道となる。

私は洋装の姐さんにしか、会ったことがない。それなのに、粋だ。

一口で、日本女性の美しさをいえば、粋だ。

容姿が美しいだけでは、不粋(ぶすい)だ。粋は控え目であるのに、表に現われない心意気、気合がこもっていて、一瞬、男をたじろがせる。

もちろん、粋は知的な女性だけにみられる。このような女性は年齢にかかわりなく、眩(まぶ)しいほど美しい。

粋はいうまでもなく、異性なしに成り立たない。巧みに媚態を秘めながら、暗示しながら、男心をくすぐる。

ほのあかりの美であるのに、目が眩(くら)むほど美しい。いまのほとんどの女性が不粋(ぶす)いであるのに、日常生活のなかで、気というリズムを感じさせる。

それにしてもこのところ、どうして女性の容貌だけを指して、「ブス」というようになったのだろうか。江戸時代から大正頃までは、「不粋(ぶす)」いというと、身のこなしかたが醜悪なことをいった。

私は兄哥を手本として、古今和歌集の仮名序の「遠き所も出で立つ足下(あしもと)より始まりて」の句を励みにしているが、凡百匹夫だから、目指している仙境に辿り着くことが、とうていできない。

私は兄哥夫婦のような天上の契りを、いくら努力しても真似ることができないが、夫婦仲がよいことでは、人後に落ちない。

おそらく大正時代の造語なのだろうが、私は典型的な「サイノロ」だ。漢字で書けば、「妻鈍(さいのろ)」になる。「鈍(のろ)い」は女に甘い、女にだらしがないことを意味している。

『東海道中膝栗毛』のなかで、弥次郎兵衛が、遊女の枕(まくら)金(かね)を値切ると、十返舎一九は遊女が「かけ値は申しゃせぬと、弥次郎をじろりと見る、たちまち鈍(のろ)くなりて‥‥」と、描いている。

「妻鈍」は英語の「サイコロジー」をもじって、「サイノロジー」という和製語をつくったものだ。この40年ほどの「ノミニュケーション」のようなものだろう。

私は「東海道中膝栗毛」よりも、江戸時代に『浮世道中膝栗毛』と呼ばれていた書名のほうが、ふさわしいと思う。栗毛の貸し馬に乗るカネがないので、膝で代用して歩いて旅するという題名は、負け惜しみのユーモアがある。

妻や恋人のことを、得意になって話すのを、鈍けるというが、惚気(のろけ)るとも書く。

私が夫婦仲がよいというのは、けつしてのろけではない。

夫婦関係は異文化交流だ。異文化交流は、難しい。

もう半世紀も妻帯してきたから、同じ時間を結婚について現地調査――フィールドワークに費やしてきた、というよりも、打ち込んできた。

私の研究成果を披露すると、女性のほうが男性よりもはるかに強いから、女性と争ってはならない。

女性と言い争ったら、科学的にいって男に勝ち目がまったくない。

女性の声の高さが200から300ヘルツであるのに対して、男性は百から150ヘルツしかない。100ヘルツは声帯が1秒間に、100回震動しているのをいう。

男性はこれだけとっても、女性に抗うことができない、女性たちは強力な武器を与えられて、生まれている。だから抗わないようがよい。

女性は男性より、エネルギーに溢れている。

そのために、際限なく喋り続けることができるが、男性のほうはすぐに息切れして、萎縮してしまう。だから、いたずらに血気にはやって、妻に立ち向うのは、匹夫の勇でしかない。道理に暗い小者が、匹夫と呼ばれる。

中国の聖賢が「君子危キニ近カヨラズ」と、戒めているではないか。

男は弱いから、女性に甘える。女性は強いから耐える。それに男性は合理的だから、女性に負ける。

女性はその証拠に、占いを信じるが、占いの語源は「うらづけがない」というものだ。

明治の日本を創った碩学(せきがく)の福沢諭吉先生が、「無力な道理は、有力な無道理に勝てず」と諭しておられる。

私は永世平和を求めて、勝算のない戦いを避けてきたから、夫婦円満、家内安全の日々を送っている。

私はめおとを夫婦と書いてきたが、「夫婦茶碗」の「夫婦」を、どうして「めおと」と読めるだろうか。もともと日本語では、女男(めおと)といって、古来から女性を男性の上位に置いてきた。

夫婦は赤い糸によって結ばれるというが、夫は気がついてみると、蜘蛛(くも)の網に搦(から)め捕られている。蜘蛛の糸なのだ。

鼠だから、毎日、忙しい。論語が「小人閑居シテ不善ヲナス」と戒めているが、何か噛っていないと落着かない。

昨年は、3冊の本を出した。今年は1月に1冊、2月に2冊が出版される。

川崎の稲毛神社に奉納した絵馬には、墨で鼠を描いて、「子日 ネのたまわく ネズミどしのオトコはみな男前だ」と、書き添えた。
(中島氏は日本大学OB誌社長・編集長)
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