2020年02月27日

◆二・二六事件から84年

宮崎 正弘

 
令和弐年(2020)2月26日(水曜日)通巻6376号 
<二・二六事件から84年>

 トランプのインド訪問はどれだけの成果をあげたのか
   「凡庸な会談」とメディアは酷評した。

1月24日から2日間、トランプ大統領はメラニア夫人を伴ってインドを訪問した。観光の目玉タジハールに立ち寄ったあと、モディ首相の地盤であるグジャラート州で10万人の歓迎集会に出席した。

首都のニューデリーを避けたのは、過去2ケ月に亘って暴動が発生しており治安が悪化、「市民法」をめぐって反対派の暴力によって、11人が死亡している。また首都圏ではモディ首相の支持率が低迷しており、地域の選挙でモディ与党が大敗している。

1月24日に開催された米印首脳会談は、貿易、安全保障、地政学、5Gなど多岐にわたる議題を討議した。しかし見える形の成果は30億ドルの武器供与だった。シーホーク24機、アパッチヘリ6機、レーダー、通信機器など。

インドはロシア製武器で防衛システムがほぼ完成されているため、基盤となる兵器体系が、F16戦闘機など、いきなり全体のシステム変更を余儀なくされる米国の兵器体系を供与されても、効率が悪いとされ、小規模な武器商談に留まった。

インド太平洋戦略では日米にインドと豪を加えての防衛システムの構築が急がれているが、インドが強く議題としたのはパキスタン問題だった。とくにカウンター・テロリズムへの協同、そして中国問題だった。

消息筋に拠れば、中国問題では両国の意見はあまり噛み合わず、とくに5Gの排斥を求める米国に対し、既に基地局や工場、販売の普及などでファーウェイ製品はインド市場に浸透しており、5Gの完全な排斥は無理というインドの立場は変わらなかった。

トランプは「最初の段階に過ぎない」と演説したが、トランプのインド訪問の果実は凡庸だったとメディアの多くが酷評した。

      
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【知道中国 2035回】                      
──「理屈に拘泥せざる支那人の心境を、余は面白しと感じたり」──遲塚(1/5)
遲塚金太郎『新入蜀記』(大阪屋號書店 大正15年)

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遲塚麗水(慶應2=1866年〜昭和17=1942年)は駿河生まれ。講談社の創業者・野間清治が明治44(1911)年に創刊した大衆娯楽誌『講談倶樂部』に中里介山、長谷川伸らと共に拠った大衆文芸作家。大正4(1915)年に山東地方を歩いて記した『山東遍路』(春陽堂 大正4年)で登場している(拙稿1742回〜1744回)。

冒頭の「凡例」に、「新入蜀記は、著者は昨年3月、程を上海より起し、長江沿岸の名勝史蹟を踏遍して三峽を踰へ、四川に入り、重慶より成都に至る一百餘日の汗漫の游びをしるしたる日記なり」とある。「昨年」は14(1925)年に当たるから、今回の四川旅行と前回の山東旅行との間には10年の時が流れている。


この10年間を振り返ると、21カ条要求に基づく日華条約調印(1915年5月5日)、五・四運動(1919年5月4日)、五・三〇事件(1925年5月30日)と反日・排日感情を誘発、刺激する動きが起こっている。これに対し、日本側に反発の動きが高まるのは必然だが、東洋経済新報社に拠る三浦銕太郎や石橋湛山らを中心に「満洲放棄論」や排日運動への過度の反発を諌める見方も生まれた。

一方の中国に目を転ずると、1919年の五・四運動失敗の灰燼の中から1921年には中国共産党が誕生する一方、国民党の基盤強化を目指した孫文はソ連の援助を受け顧問を招き、1924年には国民党を改組し、共産党員による個人資格の入党を認めた(第1次国共合作)。同時に孫文は「連ソ・容共・扶助工農」を掲げ、軍閥と帝国主義打倒を打ち出す。

孫文が「革命、未だ成らず」を遺して北京で客死した1925年に起こった五・三〇事件は、反帝国主義運動として全国各地に波及した。同年7月、国民党は広州に国民政府を設立し、翌26年には?介石が国民政府軍を率いて北伐を開始し、中国統一への道を進み始めている。

遲塚の旅行は1925年3月から100日余ということだから、孫文の死も五・三〇事件も、この間に起こっている。

だから旅行と同時進行で起きていた重大事件に対する現地での反応などに関する報告を期待したいところだが、「旅次各地方に割據する群雄の消長と民心の險易とは、我邦に在りては未だ全く知られざるもの多けれども、この書は唯著者が遭遇し親睹したるものゝみを記し、議論を挾むことを避けたり、要は讀者諸賢の周密なる考索と推斷とに任す」(「凡例」)としているところから、敢えて「時評」の類は避けたのだろう。そこで遲塚の考えを踏まえながら、『新入蜀記』を読み進むことにしたい。

「潮は漸く?色より褐色となり、やがて味噌汁のごとき色となる、西蔵の高原より湧く楊子江の、泥土を海に齎し來る」なかを進み、遲塚の乗る長崎丸は「上海の埠頭に着す」。

翌日は上海城内の雑踏を抜けて湖心亭へ。「湖心亭といふと、水碧に沙明かに、彫欄是を繞つてさながらにして晴波を弄するに堪へたる處なるべしと讀者は思ふけれども、實は穢雜なる市廛の細溝を流れ出づる糞や小便の水を堪へたる池」に過ぎなかった。

 中央に位置する亭は高く尖った屋根を持つ「古風な建築なれど、修理もせずして荒廢に任せ」たまま。そこが「料理店となりて、茶を飲むもの酒を酌むもの、立錐の餘地なきほどにて、拳を鬪はし、歌をうたひ、紛然、雜然、奇態百出す、昔の小學校讀本ではないが、凡そ地球上の人種のうちにて、第一番に饒舌なるは支那人にて、更に一番高聲に語るものも亦支那人なり、尋常一樣に會話の時にても?みつくやうに大聲疾呼」している。「その饒舌にして且大聲の持主なる支那人の群居する此等茶館の喧囂は、氣の弱き東洋の一文士も、耳を掩ふて走り且僵れんとするなり」。

だが彼らと共に過ごし、彼らの「?みつくやうに大聲疾呼」に慣れ親しんでしまうと、「その?みつくやうに大聲疾呼」を心地よく感じるようなってしまうから不思議だ。

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【知道中国 2036回】                    
 ──「理屈に拘泥せざる支那人の心境を、余は面白しと感じたり」──遲塚(2/5)
遲塚金太郎『新入蜀記』(大阪屋號書店 大正15年)

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「流石は東洋の大埠頭、上海の殷賑」を前にしては、「有體に言へば大阪も神戸も東京も横濱」も顔色ナシ。「世界列強の仲間入りをなせる我が日本も、この點だけは恥かしき次第なり」。「さりながら上海の繁華は、居留地の繁華なり、支那全國の富人は、兵革を怖れて、財寶を携へ、妻拏を提げ、安全地帶なる居留地に邸宅を構へて、その生命財産の安固を謀れるなり、亦悲むべきかな」。いわば上海の繁華は列強に蹂躙されたうえでの蜃気楼に過ぎない、という事だろう。

長年の憧れの地であった西湖へ。「晴好雨奇の西湖の景勝」であるはずが目の前に広がる光景は大いに違っていた。「全く幻滅の悲哀を感ぜざるを得ざるを憾むなり」。

それというのも、「水は碧落を湛へて鏡のごとく明かなるべしと思ひしに、濁り且淀みて纓をあらふどころか足さへ洗ふに堪へず」。もはや「風致の十の七八を殺ぎた」る惨状だ。木々の枝は「惡少年に攀折せられて見る影もなく」、水面に浮かぶ東屋は「一箇の廢屋に過ぎず」、諸処を飾る「仙人姿の木像俗惡さ」、周囲に配された所縁の「樓閣のけばけばしさ」は限りなく、建物を飾る彫刻は「姿態痴拙を極めたり」。

「前人の詩に文に、劇賞されたる西湖の名が、その實に較べて雲泥の相違なりしは、頗る東海の游子をして失望せしめた」。これを要するに西湖なんぞは濁った水溜まりに過ぎず、周囲を飾る建物は「俗臭紛々人をして鼻を掩ふて辟易せしむ」ものでしかなかった。聞くと見るとでは大違い。話が違い過ぎる。幻滅の極み、といヤツだろう。

かくして「一體支那の古蹟といふ古蹟は、今や例の軍閥の跋扈から、大抵は荒廢するまゝに放棄して、顧みるものもないのは情けないこと」になる。とはいえ「風流氣のない」俄成金や新興軍閥の「重修で全く凡俗の精舎となつたのも亦淺間しい次第」ではある。

名庭園の誉を持つ庭園を訪れたが、「誠に見すぼらしきに驚かざるを得なかつた、一體支那人は、園藝には極めて稚拙の國民である、その盆栽を作るにしても、枝を撓め葉を剪りて、全く自然の姿趣を傷づけ、極めて俗惡のものにして了ふのである」。

やはり「支那の園藝家に自然を擒ふるの技術の乏しいことを切に思つた」。だが、考えてみれば、その前提として自然そのものに対する考え方、自然の捉え方が違う以上、彼らに日本の園芸家のそれを求める方がムリというもの。ナイモノ強請り、というヤツだ。

廬山での黄昏時のことである。「家々早やくも燈火を催す、靄のうちにそゝり立つ禮拝堂の鐘樓より、夕の祈?の鐘の音靜かに鳴り渡れば、碧眼金髪の童男童女等、誘ひ合ひて、石の柱に蔦かづらの這ひまつはる?會の門に入る、やがてピアノの音に和して、讃美の歌の聞えたり、今日は日曜日なり」。かくして「支那の廬山に在りながら、身は遠く瑞西(スイス)あたりの山の市に在るかと疑はれたり」と。

廬山辺りに「碧眼金髪の童男童女」だけが住んでいるわけはなく、彼らの両親が居るはず。両親、殊に父親はどんな仕事をしているのか。宣教師だけが一帯に住んでいたとは思えない。「碧眼金髪」の“深謀遠慮”を改めて知る思いだ。

次は湖南省長沙だが、「こゝは湖南唯一の埠頭とて人口10萬を超え、市街も殷賑なり、さりながら、排外の空氣は頗る濃厚にて、左傾學生に使嗾されたる無頼漢ども、賣國奴と彫刻したる大いなる木印を手にして、棧橋際に屯し、武陵丸より下り來る支那船客を捉へて、その背に印を捺すなり」。武陵丸は長江を上下する日本の船会社である日清汽船の所属である。

いわば日本船籍の船を利用したから「賣國奴」というわけだ。「支那官憲、我が領事館の抗議に遭へば、嚴に非違を糺彈すべしと口のみ言ひて、しかも彼等が爲すがまゝに放任す」。さて「無頼漢ども」の背後で、若き日の毛沢東は工作していたのだろうか。

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読者の声  どくしゃのこえ   READERS‘  
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(読者の声1)貴誌6375号に掲載の西村眞悟先生の論文は、不文法あるいは習慣法と日本国憲法という名の属国憲法の問題を考える根本的な要因として、我々が一度熟読して、憲法について深く考える機会とすべきだと思います。

私はいわゆる現実主義者の方々が唱える9条への「加権」のようなものは邪道であるばかりか、多くの日本人の心に響かない論だと思います。

憲法の本質を考えるとともに、本当にWGIPの洗脳から覚めないと、日本は亡国の危機に瀕していると思います。
(関野通夫)


(宮崎正弘のコメント)改憲への発議もなされないまま安倍政権は終わりを迎えているようです。「加憲」さえ、いまの与党の体たらく、公明党への配慮過剰をみていると、実現は難しいでしょう。

もっとも小生は現行憲法無効、廃棄論ですので、改正にも反対ですが。。。

廃棄すれば、自動的に「五ケ条の御誓文」に戻ることになり、これだけあれば、あとは不文律で運営できます。
 戦後、「解釈の変更」でやって来ましたが、国防から福祉まで矛盾だらけですから。

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(読者の声2)北朝鮮の現状とアジアの民主化

韓国人権運動家、都希侖(ドヒュン)氏(拉北脱北人権連帯代表)講演会の
お知らせ
 
韓国の人権運動家、都希侖氏がこの度来日いたします。都氏は拉北脱北人権連帯代表として、これまでも韓国人拉致被害者の救援や北朝鮮の人権問題に取り組んでこられました。
 
また、都氏は、昨年12月、韓国にて香港、台湾、ウイグルなどの人権活動家を招いて韓国でシンポジウムを開催し、中国・北朝鮮に代表される全体主義体制に自由民主主義と人権の理念で対峙する必要性を訴えました。

今回の講演会では、都氏がこれまで様々な情報を得てきた北朝鮮内部の最新情報について、また、今後の人権改善と民主化への道のりなどを語っていただければと思います。コロナウイルスの問題などで、北朝鮮や中国の人権問題から目がやや離れがちな傾向がありますが、多くの皆様方のご参集をよろしくお願いします。
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