2020年04月06日

◆【変見自在】フリーは記者か

高山 正之
 
半世紀前、新聞記者を志して何社か受けた。

倍率は三桁近かった。奇跡的に産経新聞の補欠に引っかかったが、そこからが大変だった。

入社後も選り分けがあって記者への第一歩となる地方支局に出られたのは五人に一人。あとは整理部とか総務とかに回された。

それは「ダメならいつでも差し替える」という脅しでもあった。

だから不満など一言も言えない。朝から晩までサツや県警、裁判所を回った。

回りながら原稿の書き方を覚える。最初の半年は休みも取れなかった。

新聞は毎日出る。毎日が言わば試験で他社の記者と比較され、下手を書くと一日惨めだった。

それに疲れ切る記者もいた。水戸支局時代には読売の記者が自殺し、本社に上がってからは同期と先輩が鎰(金偏が糸偏)死した。死人が多い職場だった。

なまじの仕事では芽が出ない。支局管内にも誰もいかない東海村があった。通って原子力を勉強した。

3年通って遠心分離方式によるウラン濃縮実験に出くわした。米オークリッジで広島型原爆を作ったのと同じ洗濯槽みたいな筒が並んでいた。いま北朝鮮が懸命に回している。歩き回った成果だった。

それを重ねてやっと本社に上がれた。上がっていいことは専門性の高い記者クラブに出られることだ。

こちらは飛行機のクラブに出た。すぐロッキード社から新型機披露の招待があって、ロスに飛んだ。

ロ社での会見に出て驚いた。各社記者は通訳なしで新型機についてロ社側に突っ込んだ質問をしていた。

そういう手練(てだ)れになって初めて航空機事故を取材でき、解説を書ける。

記者クラブは遊んで務まる場ではなかった。航空機のイロハから管制まで勉強しなければ会見に出ても意味も分からなかった。

当時の日航全日空には戦前派の操縦士もいて、生きた航空史が聞けた。

その中で「米軍に雇われてソ連、中共の奥地に侵入しスパイを落下傘降下させた」秘話を聞いた。スパイ機を飛ばした一人は当時の羽田空港長、中尾純利だった。震える特ダネだった。

経済部、政治部を含めて記者クラブとは研鑽を積んだ猛者が集い、会見は静かな戦場と言ってよかった。



いま新聞協会登録の記者は129社2万人。一線に出て記事を書く記者は約5千人。東京にある中枢の記者クラブ詰めになれるのはその10分の1ほど。国会議員の数よりも少ない。

平成の御代、その記者クラブが閉鎖的だ、開放しろという声が出た。声の出所は嘘しか書かない反日の外人記者会。それにフリーの記者も乗って騒いだ。

彼らはクラブに入って一線の記者と切磋琢磨する気はなく、ただ記者クラブ主催の形をとる記者会見に出るのが目的だった。

戦場に新兵訓練もしていない素人が来る。冗談かと当時は思った。

ただ朝日新聞は記者会見開放派に回った。なぜなら朝日の記者は取材や研鑽はしない。思い付きと浅はかな知恵で記事を書く。「中国の旅」の本多勝一や従軍慰安婦の植村隆がいい例だ。

たまに事実を書く。政治家のオフレコ話だ。あとは政治家の失言待ち。その意味でフリー記者とレベルは似ている。

今村復興相にくどくど無知な質問を繰り返したフリー記者がいた。あれが朝日の記者だったとしても何の違和感もない。

そんな朝日の尽力もあって今は外人記者とフリーの記者が記者会見に出て記者もどきを演じている。

「もんじゅ」事故の会見では彼らが騒いで関係者二人が自殺した。東電福島事故では「次は誰が自殺するんだ」と質問が飛んだ。

記者が自殺する時代から記者が人を死に追いやる時代に変わった。

先日コロナ禍の首相会見があった。小一時間もやって終わろうとしたらフリー記者が騒ぎ、12人が立って辻本清美より意味のない質問を延々ぶっつけていた。

怒らせるか、自殺させるか。記者会見も随分と様変わりした。

出典:『週刊新潮』令和2年(2020)4月9日号
【変見自在】フリーは記者か

著者:高山 正之
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松本市 久保田 康文 
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