2020年05月08日

◆雀庵の「見る聞く読む書く呆け防止」

“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red
Gables/113(2020/5/6/水】ゆうべの夢は実に面白かったなあ。「学びに年齢なんて関係ない!」と大学入試に臨むのだが、面接で年齢を聞かれ、


「50歳です、あ、えーっと、辛卯ですから・・・あれっ、70歳?! 信じられないなあ」

面接官はボーゼン、「なんなんだ、この爺さん?」といささか呆れ顔。


えっちらおっちら階段で2階に上がり試験場に向かう時、多分貧血だろう、倒れてしまった(午前2時ごろの震度3の地震で「つぶれるかも・・・」と思ったことの影響だろう)。気がついたら保健室で寝かされている。


上着を脱がされ、丸首のクルーネック姿だったが、鏡を見たらタグが映ってる。つまり裏返しで、しかも前後逆というボケ振りで、ハハハハハと苦笑いして目が覚めた。


楽しい夢はいいもので、元気になる。措置入院でベッドに拘束されていた時は悪夢ばかりで、目が覚めるとハーハー、息も絶え絶え、グッタリした。それに比べれば今は「気分はトム&ハック」、いたずら心でいっぱいだ。躁状態・・・?


さて、鴎外の「渋江抽斎」、小生が編集者ならその作品名の脇に「幕末前後 漢方医と一族の足跡」とか「漢方医と一族の幕末前後」とサブタイトルをつけるな、さすれば――


「難しそう」という風評被害をロックダウン、「面白いじゃん」というクラスターの3密でオーバーシュート、もうソーシャル・ディスタンスなんて吹っ飛んで濃厚接触、ロックダウンなんてとてもできないパンデミック、出版社はまるでコロナ太り、コロナ倒産・コロナ破綻一歩手前の本屋さんも自粛要請どころじゃない、オマケは不織布マスク、次亜塩素酸ナトリウム・・・さあ買った買った、お代は10万円給付で!

てな具合になるかもね。


昨日「渋江抽斎」を読み終えたので今日から再読する。末尾の解説(中野三敏)によると同作は発表とともに物議をかもしたそうで「これは文学=小説・物語ではないと評する人もいるが、その見方がおかしい、一流の文芸、史伝、文学であることは確かだ」と断じている。

共産主義は科学/学問を装った宗教/病気で、他宗派を修正主義、原理主義、左翼小児病、裏切り者、走資派、教条主義者、ブランキスト、日和見主義、冒険主義、トロツキスト、秘密主義、アナクロ、オプチュニスト、スターリニスト、走狗、ルンペンプロレタリアート、亜流、サンジカリスト、一揆主義、亜流・・・などと互いに罵っている。


意味なんてどうでもいい、声の大きい方が勝ち、相手をやっつけると「正義の鉄槌」、やっつけられたら「権力の走狗による虐殺許すまじ、我々はぁ戦うぞーっ」。

こういう騒動は、見物人から見れば「バーカ、共死するがいい」と嗤うだけだが、本人は私利私欲がかかっているから死に物狂いだ。殺される前に殺せ! 狂気の世界。「私は正義」病とか、性善説、甘い言葉に騙されるとまずしくじるね。

しくじった人が痛恨の思いで告白しているのだからね、信じなさい、尊師と呼びなさい、お布施はこちらに・・・


「私は正義」病・・・「悪と自覚しているとブレーキがかかるが、正義と思うと人はどんな酷いことでもやってのける」という、実に厄介な病気だ。風雲急を告げる幕末にもあった。

当時は参勤交代があり、そのために江戸詰めの臣、国詰めの臣があった。江戸詰めの臣は言わば外交官で、世襲制だから何代にもわたって職を務める。つまり江戸詰めは言葉(標準語)から教育、作法、習慣、服装、交友関係までどっぷり江戸風に染まっている。

参勤交代が廃止されると、藩は「国へ帰るも江戸に留まるも勝手」と触れを出したが、新政府軍が江戸に迫ると“外交官”の多くは戦火を逃れるために艱難辛苦して帰郷したのだ。青空文庫「渋江抽斎」から概略コピペする


<米艦が浦賀に入ったのは、嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に艦が再び浦賀に来て、六月に下田を去るまで、江戸の騒擾は名状すべからざるものがあった。幕府は五月九日を以て、万石以下の士に甲冑の準備を令した。新将軍家定の下にあって、この難局に当ったのは阿部正弘である。

安政二年に入ってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘を以て大砲小銃を鋳造すべしという詔が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れていた漢方医・抽斎(単独での将軍お目見え資格にまで出世)も、ここに至ってやや風潮の化誘する所となった。

女丈夫、五百《いお、妻》の啓沃も与って力があったであろう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために(武備のため融資策など)画策するに至った。・・・

安政三年になって、抽斎は再び藩の政事に喙《くちばし》をいれた。抽斎の議の大要はこうである。

弘前藩はすべからく当主、順承《ゆきつぐ》と要路の有力者数人とを江戸に留め、隠居、信順《のぶゆき》以下の家族及家臣の大半を挙げて帰国せしむべしというのである。

その理由の第一は、時勢既に変じて多人数の江戸詰はその必要を認めないからである。何故というに、原《もと》諸侯の参勤、及これに伴う家族の江戸における居住は、徳川家に人質を提供したものである。

今将軍は外交の難局に当って、旧慣を棄て、冗費を節することを謀っている。諸侯に土木の手伝を命ずることを罷《や》め、府内を行くに家に窓蓋《まどぶた》を設ることを止《とど》めたのを見ても、その意向を窺うに足る。

縦令《たとい》諸侯が家族を引き上げたからといって、幕府は最早これを抑留することはなかろう。


理由の第二は、今の多事の時に方《あた》って、二、三の有力者に託するに藩の大事を以てし、これに掣肘を加うることなく、当主を輔佐して臨機の処置に出でしむるを有利とするからである。

由来弘前藩には悪習慣がある。それは事あるごとに、藩論が在府党(江戸詰め)と在国党(国詰め)とに岐《わか》れて、荏苒《じんぜん、物事が延び延びになり》決せざることである。

甚だしきに至っては、在府党は郷国の士を罵って国猿《くにざる》といい、その主張する所は利害を問わずして排斥する。此の如きは今の多事の時に処する所以の道でないというのである。(昨年の津軽旅行では竜飛岬でサルを見た。当時は岩木山を中心にうじゃうじゃいたろう)

この議は同時に二、三主張するものがあって、是非の論が盛《さかん》に起った。しかし後にはこれに左袒《さたん、帰国に賛成》するものも多くなって、順承が聴納《ていのう、了承》しようとした。

浜町の隠居信順がこれを見て大いに怒った。信順は平素国猿を憎悪することの尤《もっと》も甚しい一人であった。

この議に反対したものは、独《ひとり》浜町の隠居のみではなかった。当時江戸にいた藩士の殆ど全体は弘前に往くことを喜ばなかった。中にも抽斎と親善であった比良野貞固《さだかた》は、抽斎のこの議を唱うるを聞いて、馳せ来って論難した。

議、善からざるにあらずといえども、江戸に生れ江戸に長じたる士人とその家族とをさえ、悉く窮北(北の最果て)の地に遷そうとするは、忍べるの甚しきだ(耐え難い)というのである。

抽斎は貞固の説を以て、情に偏し義に失するものとなして聴かなかった。貞固はこれがために一時抽斎と交《まじわり》を絶つに至った>

同藩といっても生まれ育ちが違うと「血は水より濃い」というより、遠慮がない分、近親憎悪的なイジメが発生しやすくなるのか。

今でも帰国子女が新しい環境に馴染めない、それどころか苛められる、孤立する、心を病む、という話は多い。産経記者の近藤紘一氏の奥様は外交官の娘で、幼い頃から世界各地で暮らした。日本では(でも?)馴染めなかった。


<祖国の土と空気を自分のものにしようと懸命の努力を続けていた彼女を、私は再びフランスへ連れ出した。そして、結果的にその内面的崩壊を促すことになった。

妻は次第に塞ぎ始め、やがて私が本気で心配し始めた時には遅すぎた。

つい数か月ほど前とは別人のようにやつれ果てた彼女を、急遽、日本へ送り帰した。自分の迂闊さを、ひどく悔いた。

日本に戻り病院で二か月を過ごし、いったん彼女は快方に向かい始めたように見えた。ある晩、病室訊ねると、彼女は久しぶりに朗らかな顔で、私が去るまで冗談を言い続けた。

翌日、妻は死んだ>(「目撃者
近藤紘一全軌跡」所載、沢木耕太郎著「彼の視線」)

住めば都と言うけれど、少なからぬ人にとってそこはとても馴染めない荒れ地かもしれない。幕末の外国人襲撃・殺害事件の報が本国に届くまで70日ほどもかかったという。今はネットで同時性が可能だ。大使館など在外公的機関の縮小、合理化も検討課題かもしれない。

次回は弘前の「国猿」とMade in Edo
の「在府党」の軋轢を紹介したい。夏彦翁曰く「意地悪は死なず」。(2020/5/6)

       
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