2020年07月06日

◆大阪だった「芭蕉終焉の地」

毛馬 一三


松尾芭蕉の「終焉(しゅうえん)の地」を、知っている人は少ない。終焉の句が「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」であることが有名だから、誰もが旅の果ての東北か、北陸の辺りでの死去ではないか思うのは当たり前だ。

ところが、芭蕉の終焉の地は、実は大阪だ。

御堂筋の真ん中辺りの「南御堂」向かいの花屋仁左衛門の離れ座敷だったのだが、そんなことは大阪人のほとんどが知らない。芭蕉が亡くなった花屋仁右衛門宅は、今喫茶店になっており、その屋敷跡から当時の事を髣髴させるものは何もないのも、原因の一つかもしれない。

今は、南御堂前の左側の緑地帯の中に「終焉(しゅうえん)ノ地」と銘を打った碑が、ポツンと建っているだけで、車の通行に挟まれた緑地帯の中だから、通行人の目に止まる筈がない。

私はたまたま、地下鉄御堂筋線・地下鉄中央線「本町」下車して南へ向かう用事があったため歩いていた処、“偶然”にも目に入った。その場所をたまた通り掛けたお陰で、“発見”出来たのは、言葉でも云えないラッキーなことだった。
 
<元禄7年(1694)9月、芭蕉は、故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越え、2度目の来坂をした。長崎へ向かう旅の途中に大阪に立ち寄り、住吉大社を詣でたり、句会に参加するなどしている。

しかし本当の來阪目的は、当時大阪俳壇をにぎわしていた2門人の仲違いが際立っていたため、それを収拾するのが主目的であったとも云われている。
 
伊賀上野の出発時から体調不良を訴えていたが、大阪・住吉神社に詣でたあと、発熱下痢を伴い花屋仁右衛門方離れ座敷で病臥。ついに10月12日夕方息を引き取る。51歳だった。最後の句として知られる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」は、その4日前に病床で詠んだものだという>。

ところが「秋深き隣は何をする人とぞ」は、芭蕉が床に臥す直前に詠んだ句である。臥す直前まで世事に興味津々というか、「晩秋」の移ろいにも鋭利な感覚を失っていない。となると芭蕉は、出来るだけ早く床上げをして長崎へ向かう旅立ちへの気力は、この時溢れていたのではないかと思える。

<大坂御堂筋の花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した。(よく辞世の句と言われているが、結果論である。「病中吟」との前詞があり、辞世とは当人も意識していなかった)という説もある>。

しかし病状が急変したのは事実だ。その急変ぶりに死を予期し、「夢は枯野をかけ廻る」という七五を組み入れた句を編み出したのではないかと、私は思う。死期を悟った上での「辞世の句」だったと考えるのが、その頃の体調不良と考え合わせれば辻褄が合う気がする。

<臨終の時は、大勢の弟子達に見守られ、遺体は亡くなった日に舟で、土佐堀川を上り、芭蕉が遺言した近江の義仲寺に運ばれた>。芭蕉は、木曾義仲の墓の隣に眠っている。

序でながら、江戸時代の俳人与謝蕪村の終焉の地は、画人蕪村の活躍の場とも絡んで、京都だと知っている人は多い。ところが肝腎の蕪村生誕地が大阪毛馬だと知る人は意外に少ない。つまり蕪村と芭蕉のその辺りの謂れは、逆の形になっているのだ。

このため、蕪村の生誕地が大阪毛馬だと全国、世界に発信し、「生誕地と蕪村俳句」を後世のために伝えて行くために、わたしたちはいま様々な活動を進めている。
(了 再掲)

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