2020年07月08日

◆「腺ペスト」が中国内蒙古自治区で

宮崎 正弘

 
令和2年(2020)7月6日(月曜日)弐 通巻第6572号  

 こんどは「腺ペスト」が中国内蒙古自治区で発生
  患者ふたりと接触した150名を隔離中

 武漢コロナ、その二次感染に次いで、H1N1新型インフルエンザが中国で発生した。そして7月5日、内蒙古自治区の西部で、腺ペストが発生したと報道された。
ふたりの兄弟がマーモットの肉を食べて症状がでたため隔離され、この二人が接触した人々およそ150名も隔離中という(『ザ・タイムズ・オブ・インディア』、7月6日電子版)。

 一方、米国では、今頃になって、何故、マスクや医療用の器具、手術用器財、検査キッドなどが中国製ばかりで、米国製が皆無という状況に愕然となっている。

 マスクの生産を米国内でできないのかと調査すれば、製造機械が中国にしかなく、緊急に輸入したロスアンジェルズの企業も、材料がどこにあるのか、手配に手間取り、結局すべては中国で作った方が安上がりという事態を改めて確認することになった。
 医者用のゴーグル、手袋なども中国製が多い。

 中国は二月だけでも通常の12倍のマスクを生産したが足りず、3月から5月の三ヶ月だけでも706億枚のマスクを生産した(通常は2019年全体で200億枚だった)。
 とくに西側はN95医療用マスクが払底し、食糧同様に、これも安全保障に直結する物資であり、国産の必要性を認識するにいたる。オランダや伊太利亜では、中国から緊急輸入のマスクが不良品だったとして突き返す一幕もあった。

 医薬品、ジェネリック、とくに抗生物質は90%を中国に依存している。これは危機水域を越えて、製薬業界、医療品の業界の安易な中国依存体質に改めて気がついたことになる。
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「チベットの明るい未来のために助力することは日本国と日本人の責任」(桜井よしこ)
  「チベットが中国の一部」という歴史的根拠はない」と亡命政権

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チベット亡命政権・篇、亀田浩史・訳『チベットの主張』(集広舎)
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 同胞120万人が虐殺された上、伝統的な土地をすべて中国が盗んだ。
 そのうえ北東部を青海省に、東部の一部を四川省に、東南部の一部を雲南省にかってに省際線を引いて地図上の分割までした。
 嘗ての吐蕃(チベット)をずたずたに引き裂いたのだ。
 どれほどの地獄であったか、当時は正確な情報が伝わらなかった。人間とは思えない虐殺行為をなして、中国軍はチベット人を虐殺し、「あれは農奴解放の戦いだった」と平然と嘯いた。チベットに農奴はいなかった。
 同胞120万がどこで、時系列に、いかように虐殺されたかもグラフを掲げているだけで、この本には激越な文章が見あたらない。
 亡命政権は「中道」を標榜している。
いまも厳重な監視態勢で、チベット人を弾圧している中国共産党に対して、インドへのがれた亡命政権とダライラマ法王は、激しい怨念を抱いているはずなのに、この本はじつに静謐に淡々と、チベットの置かれた状況を客観的に述べ、激しい言葉の非難はみごとに回避されている。
そして「独立」を口にせず、ひたすら「高度の自治」を探り、北京政府に話し合いを求めている。中国共産党は会談に応ずる気配はなく、あまつさえ次期ダライラマは、共産党が選ぶと傲岸にも放言している。世界の自由陣営はあまりのことに、反論の言葉さえ失った。
 だからこそ本書は重要なのである。
 無言、無抵抗で非暴力のダライラマ法王は、世界に静かに訴える。その言葉は飾りも過剰もなく、静謐で、激するところがない。
 だからこそ人々のスピリットを震撼させるのだ。
 本書には1900年以後のチベットの歴史を簡潔に述べながらも英国、印度との関係も比較重視して、国際関係に軸足をおくことを忘れない。
そして数回の民衆蜂起、焼身自殺が連続した背景。辺疆や山奥にいるチベット同胞の近況と運命を語る。
 亡命政権は「チベットが中国の一部という歴史的根拠はない」と一言だけ、その立場を述べているが、それで十分である。中国が「侵略」し、チベットの領土を盗み、住民の多くが殺された事実は全世界が知っているのだから。 
 ダライラマ法王は次期十五世の後継問題について、「それは女性であるかも知れないし、外国人でかも知れないし、また自分が活きている内に選定し、育てることになるかも知れない」と選定基準を曖昧にしつつも、ひとつだけはっきりと言っている。
 「いずれにしても現在の中国(が占領しているチベット地区)から選ばれることはないでしょう」。
桜井よしこ女史が寄稿している。
「チベットの明るい未来のために助力することは日本国と日本人の責任である」と。
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集中連載 「早朝特急」(35) 
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第二部 「暴走老人 アジアへ」 第二節 南アジア七カ国(その2)

 第二章 ネパールにマオイストが猖獗

 ▼ネパールは誇り高い国である

 「国際平和の最前線に貢献するのはネパール」とカトマンズ国際空港の看板が誇らしげに宣している。ご自慢はネパールが誇るグルカ兵のことである。
国連軍に1000名が常時派遣されている(最盛時には五千人)ほか、英国軍には「グルカ旅団」があり、フォークランド戦争にも参加した。米軍ほかにも傭兵として活躍し、ブルネイ王宮を守っているのもグルカ兵だ。さらに香港、シンガポールの警察、警備会社もあってアジア各国の銀行ガードマン(軽機関銃で武装している)を担っている。
エベレスト登山に際して、多くの外国の探検隊は重い荷物をかつぐシェルバという山岳民族の集団を雇用する。あの体力、脚力、精神力をみれば、グルカ兵がなぜ耐久力にすぐれて戦闘に強いかを理解できるだろう。
しかも高山病もへっちゃらである。
50年ほど前に三浦雄一郎がエベレストをスキーで滑降しようという大冒険プロジェクトがあった。名誉隊長が石原慎太郎、総隊長が藤島泰輔だった。そのときの話を藤島さんから何回か聞かされていたので、ネパールには行く前に親しみを持っていた。
 ネパールはヒマラヤ山脈の南側、6000メートルから8000メートルの山々は世界の登山家を魅了した。
 コロナ禍で、現在(2020年6月)、登山は禁止されている。

 ▼政治は複雑怪奇、なぜこの国に毛沢東礼賛派がいるのか?

同時にチベットからの難民ルートであり貴重な水源地でもある。カトマンズにはチベット難民センターがあって、訪問すると刺繍の製作に余念がなかった。しかし、政治情勢もかわり、残るのは少数で、多くはインドへ出る。
 ネパールはお釈迦様が生まれた国でもあり、独自の文化の矜持を誇り、道徳を尊ぶ反面、山岳地域だから空気が薄い。山岳地区にすむ民族の特徴は、山ひとつ超えると方言がことなり、文化にも微妙なずれがでる。
これが部族対立の根源に横たわっている。

 ネパールの東西南北、それぞれが個性的な文化と伝統があり、南はインドに近い所為か、インド文化の影響が濃い。インド人ならびにインドからネパールに帰化した人たちがおよそ60万人。インドとの貿易で生活が成り立つ。 
 ところが盆地に位置する首都カトマンズは玉石混交、まして中国と深い紐帯があるマオイストが跋扈している。
 このくにの共産党政権は北京と馬があう。親中、反インドが基本である。つまり、基本はインドへの反感とみるとおおよその心理状態が把握できる。
 かくしてネパールは独特な国民性をつくりあげ、王制を転覆させたマオイストがかなり専制的な政権運営をしている。ネパール共産党が政権を担って以来、外交と経済政策は中国に急傾斜した。
 慌てたのはデリー政権だ。
 インドは従来、ネパールを保護国なみに扱い、また最貧国で寒冷地のため農業生産も思うようにならない。それゆえにインドの援助に期待してきた。ネパールの若者はインド、シンガポールに出稼ぎにでる。近年は相当数が日本にもやってくる。
 ところが、ところが。今や町を大股で風切って歩く、圧倒的な観光客は中国人となった。
 それも若者のグループが目立ち、傍若無人ではなく、いささかは礼儀を心得ているようだ。しかしネパール料理は口にあわないらしくカトマンズに夥しくある中華料理か日本食レストランに集まる。
 往時、日本人観光客に溢れた時代があり、東京の下町に居るような居酒屋や喫茶店が何軒かあった。それらも中国人ツアー客に溢れている。

 ▼インドと中国をはかりにかける強かさ

 たまたまカトマンズに滞在していたとき、華字紙が「中国外相、尼泊爾、孟加拉を訪問」と報じていた。前者はネパール。後者はバングラの意味だ。
 この中国語の新聞は街のスタンドにはなく、アンナプルナホテルのロビィで読んだ。
 2014年12月26日、王毅(中国外相)はカトマンズを電撃訪問し、「両国関係は互恵的であり、友誼関係に揺るぎはなく、また同時にインド、ネパール、中国の三国関係は南アジアの安定にきわめて重要」と述べた。
 同時に「早い時期に李克強首相がネパールを訪問する」としたうえで、王毅はネパールの発電所建設に16億ドルを貸与するとした。
この額はインドがネパールに対して行っている経済援助より多く、あまりに露骨な札束外交とその傲慢さにインドは不快感を示した。カトマンズ政府はにやり、である。
その後も中国はハイウェイ建設を本格化し、さらにはヒマラヤにトンネルを掘って、チベットからカトマンズまで「新幹線」を繋ぐと豪語している。

インドの警戒感は並大抵ではない。これまでのネパール援助が裏切られて、敵に寝返ったという感じなのだ。自分の庭先に敵国が土足で踏み込んだような印象であり、米国が中庭とおもっていたキューバにソ連がミサイルを搬入したような衝撃だった。
 しかし中国を梃子にインドと距離を取ろうとするのがネパールのしたたかな外交均衡感覚である。
 ネパールは外交的に誇りを重んじ、ときに頑固でさえある。ブータンのようにインド一辺倒の純朴、木訥、純真さはない。

筆者はネパールに二回行った。
 初回はじつに半世紀近く前で、インドのコルコタ(当時はカルカッタと呼んでいた)を経由した。エベレスト登山の拠点、ポカラにも行った。
カトマンズから搭乗した飛行機はうろ覚えだが、旧型DC9で、24名ほどしか乗せられず、ぎっしり客を乗せるから、ガイドは通路に座っていた。
ポカラ空港はみすぼらしく山小屋のようで、それでも西洋人が多く、ターミナルの出口にはおやつをもらおうと素足の少年らがたむろしていた。
そのうちの一人、10歳くらいの子がさわやかな笑顔を見せるので近づくと、かなりの英語を喋るのだ。ポカラの空港で、外国人から教わったのだというから二度びっくり、おやつを見せても、中国のようにひったくる様子はなかった。
いまのポカラはネパール第二の都市、世界の有名ホテルも進出し、一泊二千円のロッジから一泊七万円の豪華ホテルまで。
 ネパール人の多くは信心深く、主流はチベット仏教とヒンズー教徒だ。
しかも多くは向学心が高く、人々は親切で日本人を尊敬している。寺院はチベット仏教寺院、インド系仏教寺院、ヒンズー寺院。そしてストーパが建っている。
スキー冒険の三浦雄一郎は80歳でもエベレストの登頂に成功して話題となったが、これに刺戟されて多くの登山家たちはネパールに行く。近年の流行はヒマラヤ山麓のトレッキングである。それゆえか、カトマンズの目抜き通りは登山関連、トレッキング用品などを売るスポーツ用品店が目白押しだ。

▼目抜き通りは登山関連、トレッキング用品ばかり

 七年前に息子を同行した折、トレッキングをするという息子とは、カトマンズの飛行場で別れ、ポカラを起点に二日ほど歩いてカトマンズのホテルに合流したことがある。野外スポーツを楽しむ若者が世界中からネパールに集まっているのだ。そのホテルは2015年四月、マグネチュード7・8というネパール大地震で損壊し、最近、新築のように改修工事、営業を再開した。
 カトマンズ市内にはダルバール広場、スワヤンブナート、ダラハラ塔、マナカマナなど世界遺産の寺院などの一部で、建造物は修復不可能な損傷を受けた。
観光資源であるこれら寺院は木造建築で14世紀から16世紀に建立された古刹が多かった。
 そういえば、カトマンズ最大の寺院はチベット寺院である。周囲は数百店もあるかと思われる仏具店、土産屋、レコード店などが並び、壮観である。この寺はコンクリト作りだ。中央の塔に目玉のデザイン、てっぺんから小旗を数千、風になびかせている。チベット寺院独特の光景である。
 またネパールはチベットからの亡命者の本場だったが、マオイスト政権となってからはネパール側の監視を強化し、カトマンズにあるチベットセンターにも規制を加えるようになった。

 さてカトマンズを拠点に古都へ出かけた。
バスセンターの端っこからバスがでている。ミニバスで20人ものると一杯になり、意外に大学生が多い。途中にふたつほど大学があり、女子学生も華やかにお喋り。となりに座ったのは十八歳くらいの男子学生で、突如、この若者は日本語をしゃべり出した。
 「学校で日本語を習ってます。親戚の子が日本で仕事しているので、ぼくも学校が終わったら日本に行きたい」
 なるほどインセンティブが強いと語学の上達も早い。
 「日本で殺人事件を起こして疑われたネパールの人、無罪になってネパールに帰ったって話、知ってる?」
 「あの人は、補償金でカトマンズに家を買いましたよ」。
 そうこう世間話をしている内に古都のバグタブルについた。若者は、その先の学校へ行くと、足早にさった。

 ▼古都にて

 旧王宮のあるバクダブルはダルバール広場を中央に 旧王宮から東側には十五、六の、様式がそれぞれことなる寺院が並んでいる。町全体が世界遺産である。
 キアヌ・リーブス主演のハリウッド映画「リトルブッダ」(1993年公開)は、この町で撮影が行われた。
 路地は骨董屋とお面専門店、中世の都、仏教都市にタイムカプセルで運ばれたような感じで、階段の急な或る寺の伽藍に腰掛けていたら、こんどは三人組の中国人。一丸レフを持っているからすぐに分かる。当時、この日本製カメラは中国人のスティタスシンボルだった。
 「あんたたち中国の何処から」
「南京から、貴方は?」
「東京」
「あ、日本人。どうしてカメラもってないですか?」
 わたしは胸ポケット名刺大のデジカメを出したら、なんだか時代遅れのおっさんをみるような目をした。
 ちょうど真ん前の古ぼけた三階建ての寺院の最上階が珈琲テラスになっているのが視界に入った。
 「あそこへ行ってお茶でも飲みませんか?」
 というわけで、三人を誘ってエレベータのない喫茶店へあがると、テラスでも喫煙はできない。「建物が古いですから火気厳禁です」と店主が苦笑した。

 タンカの有名店があるというので、五分ほどあるいて裏手にまわると、イタリアからの観光団がぎっしりと店を占拠している。この店のタンカは世界的にも有名な画家を抱えているらしく、縦60センチ、横120センチほどの仏像や曼荼羅を描いた、色彩の濃いものが西洋人の好みらしい。
 イタリアの老人が手にとった大判のタンカを店員に見せて、「これ幾ら?」
 「120です」
 「えっ、そんなに安いのか」と言って財布からルピーを取り出すと、店員が
 「違います。米ドルです」
 120ルピーって、日本円で120円、米ドルだと13000円。価格感覚が麻痺している。結局、その老人、タンカを買うのを止め、ばつの悪そうに立ち去った。
 タンカは100ドルー300ドルのものが多いが、なかには1000ドル以上のものもあり、小さなサイズのものは20ドル台。なかにダライラマを描いたタンカがあった。
 くだんの中国人が言ったのだ。
 「この人、だれ?」

 さてカトマンズへ満員バスに揺られて(帰りは女子学生が多かった)、カトマンズへ戻り、最大のヒンズー寺院パシュパティナートへ行った。宏大な敷地の中には修業中のサドゥが何人かいる。写真をとっても金を取らない。モノも欲しがらない。意外に愛想が良い。といより達観した段階の瞑想なのだろうか。
猿がたくさんいる公園のまんなかあたりが、火葬場だ。
 インドのベナレス。聖なるガンジスで顔を洗い、歯を磨き、その隣では沐浴し、排泄し、火葬場の遺灰が、ここに一緒に流される。輪廻転生を信じるヒンズー教徒は、遺骨を残さず河に流すのだ。チベット仏教も風葬、鳥葬、火葬が多く、輪廻転生を信じ切っている。三島由紀夫の『豊饒の海』第三巻には、ベナレスの情景が、精密レンズでとらえて記憶したように克明に描かれている。
 パスパティナートの火葬場風景を見ておきたかった。
 河の砦のような出っ張った場所に遺族があつまって食事をとりながら口数少なく、じっと火葬の終わるのを待つ。遺灰をばさっと河に流し、かれらの葬儀は終わる。
 ベナレスでは撮影が禁止されているが、ここでは写真撮影はOKだという。わたしは数十枚かの写真をとった。
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樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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樋泉克夫のコラム 
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【知道中国 2098回】           
 ──「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘58)
「孫文の東洋文化觀及び日本觀」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房) 

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 橘の道教論議では「衒学臭」が気になって仕方がないものの、「普通に云ふ『理論的な道?』の外に『通俗的な道?』」を想定し、その「通俗的な道?」を通じて中国の一般社会を理解しようとした姿勢は評価できる。

 橘によれば、「中國の學者達が好んで研究するところの『哲學的道?』及び宗?家達がその本職として修業するところの所謂『道士の道?』と對立して、民間に行はるゝ通俗的な一切の道?的信仰や行爲や思想を總稱したもの」が「通俗道?」となる。
なぜ橘は「哲學的道?」「道士の道?」とは異なる「通俗的な道?」を思い立ったのか。おそらく現地で民間社会と接触を重ねるに従って、日本で学んだ道教──「哲學的道?」「道士の道?」──では理解し難い振る舞いに、日々接したからに違いない。

 ここで、はたして橘の道教に対する見方を儒教に敷衍できないだろうか、と考えた。日本における伝統的な儒教理解は哲学的に過ぎたがゆえに、中国民間社会に染み込んでいる(あるいは道教秩序に編み込まれている)通俗的な儒教を見落としてしまったのではないか。毛沢東の著作を思弁的・哲学的に考え過ぎたがゆえに、一般民衆の毛沢東思想に対する接し方を誤解してしまったのではなかろうか。
あるいは日本人は中国での出来事、中国人の考えを過大評価することで、日中関係の長い歴史を特殊視し、それに拘泥するあまり中国における現実を見誤ってきたのではないか。

 ここらで「通俗的な道?」という考えを宿題に留め、道教論を離れ、橘による孫文評価(「孫文の東洋文化觀及び日本觀」)に移りたい。

「大革命家の最後の努力」とサブタイトルの付けられた本論文は、「孫文氏は其の最後の努力が如何に報いられるかを見極める事を得ないかも知れぬ」と書き起こされ、「孫文氏は天津に向かふべく日本を離れると同時に、彼の長い且つ名譽ある獅子吼の生活から離れねばならぬ運命に逢着したのである。何となれば彼が天津に到着した時には其の老いたる肉體の中に不治の病を發見し、重大なる時局を眼前に控へつゝも再び民衆の前に其の含蓄多い雄辯を振ふ事が出來なくなつていたのである。(二月十日稿)」と結ばれている。

 孫文が「現在革命尚未成功(現在、革命は未だなお成功せず)」の一言を遺し北京で客死したのが、1925(大正14)年の3月12日だから、橘が本論文の筆を擱いたのは孫文の死の1カ月ほど前になる。本論文が掲載された『月刊支那研究』(第一巻第四號)の出版は「大正十四年三月」であった。

 こう時の流れを追って見ると、本論文執筆時の橘の耳に孫文の命数が尽きつつあることは届いていたはずであり、それゆえに熱情を込めて筆を運んだと十分に想像できる。あるいは橘は死の淵に立つ孫文に篤い思いを込めながら原稿用紙のマスを埋めた。
だとするなら、本論文は橘が唱う孫文への鎮魂歌とも思える。


橘の思いが象徴的に現れているのが「大革命家」の四文字だが、なぜ、そこまで尊敬するのか。
 橘に依れば「孫文氏を普通の革命家とせずして特に偉大な革命家として取り扱ふ」理由は、「第一に、孫文氏は中國の革命を單なる中國のみの政治革命、民族革命、或は社會革命と局限する事なしに、一層深く且つ廣い意味即ち全人類の文化に直接且豐富なる貢獻あらしむるところの革命でなくてはならぬと云ふ確信の上に立つて居た」からである。

 このように橘は、孫文が目指したものは「廣い意味即ち全人類の文化に直接且豐富なる貢獻あらしむるところの革命」であり、三民主義を「此の確信を具體的に表現した」ものであると位置づける。
だが、それは過大な評価というものだろう。


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