2020年07月15日

◆近・現代史に貴重な写真

宮崎 正弘

 
令和2年(2020)7月14日(火曜日)通巻第6586号  <前日発行>

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書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評  

 近・現代史に貴重な写真の記録がムックになった
  我が国が戦った意義と足跡を歳月かけて足で歩いて突き止めた記録

  ♪
帰山則之『帝国陸海軍現存兵器一覧』(依代之譜)
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 全五巻、その内訳は下欄に一覧した。
 たいへんな労作、而も草鞋が削げ、血豆ができても足で歩き、丹念に探し回り、埋もれていた遺蹟を発掘するかのように地道な作業が続いた。 
忘れられた日本の戦争の兵器や忠霊碑、英雄像が全国各地に散らばり、一部は朽ちかけている。これらを一堂に集めて五冊のムック本に仕上げたのだから労作仲の労作である。
よほどの根気がなければ、この歴史的な作業は出来ない。本来なら国がやるべきことを民間の名もなき人々がやり遂げた。
 民族派の愛唱歌にいう。
 ♪「誰に言われた訳じゃない、俺もお前のこの国に生まれて育った仲だから。。。。」
 
 ともかく近代史研究家、学者、ジャーナリスト、この時代の事件や背景を調べているノンフィクションならび小説家ばかりか、近現代史に興味のある読書人に大いに参考になる。
 探し当てた写真が主だが、解説文にも、悲哀を基調にした、独特な味があって、熱血の日本男児の血がたぎる。しかし狂熱を抑えきって淡々と叙しているのだ。

 まず第1巻は「陸軍火砲」コレクションである。
 冒頭に高島秋帆が出てきたので、驚いた。ちゃんと高島を評価しているからだ。歴史家でも、高島を見落とし、江川太郎左右衛門に焦点があたるが、高島をぬきにしては江川の存在はなかった。
 評者(宮崎)、長崎で、坂道を迷いながらも旧高島秋帆邸を見つけて内部を見学したことがある。なかなかの広い屋敷で、ここで砲を集め、実験し、試射し、幕府の平和惚け官僚どもに先駈けて国際情勢に通暁し、防衛兵器の開発と配備を説いた先見力のある人間だった。
 「長崎奉行の許可を得て、オランダから自費で軍銃、大砲とその弾薬類を買いそろえて実地研究(中略)、大砲の鋳造も行い、それらのためにほとんどの私財をつぎ込んだ」のだ。
 諸藩の前途有為な若者らが陸続と秋帆の門を叩いた。その後、吉田松陰も平戸留学の折に高島邸を訪ねている。
 「天保十一年(1840)、秋帆は門弟約三百余名をもって、歩兵四小隊、砲兵一帯を編成し実値演習を行った」
 これが日本最初の洋式中陣、ペリー来航の十三年も前のこと、噂を聞いた伊豆の代官江川太郎左右衛門は「天、この人を生ずるは我が国の大幸である」と感嘆した。
 ところが守旧派は斬新な改革を嫌う。改革唱えるものを疎んじるばかりか、讒言で高島を失脚させてしまうのだ。秋帆が冤罪を晴らして復帰するのは嘉永六年(1853)、まだにペリー来航の時だった。
 貴重な時期を江戸幕府の守旧派が潰したのだ。
 謹慎十一年、東京に高島平団地があるが、この高島の由来こそは秋帆である。板橋区の松月院には秋帆先生の記念碑がある。
 本巻は明治新政府が諸外国から輸入した大砲などを軸に日清日露戦争で前線で活躍した兵器と、そのオブジェがある寺院、公園、記念館、墓地などを訪ね歩き写真に納めている。


 第二巻は「海軍」の装備、兵器システム部品、備品などだ。
この巻では、小栗上野介の業績が語られる。日本海軍といえば勝海舟、榎本武揚などの名前が出てくるが、旧幕府で、重要な役割を果たしたのは外国奉行、勘定奉行、海軍奉行、軍艦奉行を担った英傑。その一方で小栗は日本初の株式会社をつくったほど外国経験も豊富だった。若くして外務大臣、大蔵大臣、海軍長官だったことになり、薩長から恨みを買って慙に処された。
小栗を殺したのは明治新政府の失敗のひとつで歴史の汚点でもある。
 幕府海軍の朝陽丸に搭載されていたクルップ砲は函館の五稜郭公園に行くと飾られている。五稜郭へいくとすぐに分かる。
明治新政府は、その後明治二十二年にアームストロング砲を英国から輸入した。大東亜戦争では、このアームストロング砲に改良が加えられ、120ミリから203ミリとなって、日露戦争で「三笠」に積み込まれた砲は12インチ砲、305ミリとまさに巨砲化していた。
 これら海軍の兵器類は、グアムで、テニアンで、サイパンで。あるいは南太平洋からミャンマーへいたる「大東亜共栄圏」の戦場にそのまま野ざらしとなって、ラバウルに行ったときなど草原のあちこちにゼロ戦の残骸、まさしく「セロ戦闘機の墓場」となっていた。
 現在、呉の大和ミュージアムや江田島、周南市の「陸奧記念館」へいくと保存状態の良い装備品などを見学できる。


 第三巻は「艦船と艤装」の特集、「鎮遠」の碇まで飾られている。陳遠は日清戦争の威海衛で捕獲した敵の主力艦。当時、世界最新鋭で、清国が負けるはずがないと言われた。実態はといえば、練度不足、甲板に洗濯物を干し、船員は女郎買いにしけ込み、艦長は妾宅にいた。ましてや、砲弾をスクラップに売り払っていた。清国軍の腐敗は、体質的であり、シナ人のDNAだから、いまさらとやかく言っても仕方がないだろう。
さて帝国海軍の「陸奧」は原因不明の爆発事故で海に沈んだ。
近年引き揚げられ、その記念館が山口県周南市にある。評者が見学したときは、ほかに三人ほどしかいなかったが、隣接する公園には主力砲なども並んでいた。
特攻の魚雷艇を改造した爆装潜水艇「回天」は靖国神社境内に残る。


 第四巻は「魚雷、水雷缶」だが、ほうぼうの寺や神社の片隅でデンと飾られている場所が多い。
魚雷には種類が多く、靖国神社の展示室にもあったと記憶するが、呉市の大和ミュージアムには典型的なモノが多く展示されている。
 戦艦大和のミニチュアは、吹き抜けホールにあるが、上下左右から、そして三階からは全景が見学できる仕掛け、呉の沖合には江田島もあって、毎年かなりの見学者がある。


 第五巻で、感慨深き写真は「山田の凱旋門」だ(鹿児島県姶良)。
評者、ここにも行った。隼人駅で近現代史かの渡邊惣樹氏と落ち合って、加治木島津家ゆかりの精矛神社などを見たあと、一時間近いドライブ、山のなかにあった。
嘗て日露戦争に勝利したおりに、このような草深い村々から出兵した多くの青年らの凱旋と忠霊のためアーチ型の門があちこちに作られたのだが、いまはこの鹿児島の姶良と浜松市に残るだけとなった。だから貴重なのだ。このほか遼寧省瀋陽にある九一八記念館前の倒された石碑、宮崎市平和台公園の「八校一宇」の巨塔。
 いずれも評者、取材した場所なので、一層深い印象となった。
 
 
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