2020年08月10日

◆雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(48

“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red
Gables/158(2020/8/7/金】犬も歩けば棒に当たる。二か領用水を下ると「久地円筒分水」があった。WIKIから――


<くじえんとうぶんすい:川崎市高津区久地1丁目にあり、二ヶ領用水の水を下流の各地域へ正確に分けるために造られた分水樋である。国の有形文化財に登録されている


上河原と宿河原の堰で多摩川から取水した二ヶ領用水は久地(現在のJR南武線久地駅付近)で合流し、ここで(西から順に)根方堀、川崎堀、六ヶ村堀、久地・二子堀の
4方向へ分岐するが、その各用水路の灌漑面積に応じた一定の比率(7.415、38.471、2.702
、1.675)で水を正確に分け流すための施設が久地円筒分水である。

1941年(昭和16年)の建造当時としては画期的な技術が投入されて造られたことから、現在は国の登録有形文化財として、本流の二ヶ領用水とともに川崎市建設緑政局により管理・保存されている>


ここまでは「ふーん」「ほーっ」の初等科。中高等科になると――



<1821年(文政4年)は春から雨が少なく、日照り続きで田植え時にも雨は降らず、夏には旱魃になった。5月頃から溝口村と久地村の百姓は用水不足を踏まえ、川崎堀の分水口を閉め切り、自分たちに有利になるように分水を調整していた。


このため二ヶ領用水の下流、川崎領の33の村々では、農業用水はもちろん飲料水にも事欠いていた。そこで川崎領の名主たちは御普請役人に訴え、7月4日の夕方から7日の夕方にかけて、久地分水樋の用水口を止め、川崎領の村々に水が流れるように取り計らった。


しかし当日になっても一向に水が流れてこないので調べてみると、溝口村名主の鈴木七右衛門と久地村の農民らが、自村に水を確保するため、水番人を追い払い、雨乞いと称して分水樋の川崎堀を筵(むしろ)で堰き止めていた事実が発覚した。川崎領の農民たちは役人に訴え出たが解決されなかった。

7月5日、川崎領の百姓たちは終日対策を話し合い、鈴木七右衛門家に対する打ち壊しや犠牲者の救済策など、騒動の具体的な内容が決められた。


7月6日の朝四つ(午前10時)、川崎村で一斉に早鐘が撞かれ、川崎領の農民たちは竹槍、鳶口、槍、鉄砲、刀、「御用」印の高張提灯などを持ち、村名入りの茜や白木綿の幟旗を立てて、府中道口に集合。法螺貝や太鼓を鳴らしながら溝口村までの四里余りを北上し、道筋の村々の農民も加わって人数は一万四千人あまりになった。

これに対抗し、溝口村の名主の家では、石、竹槍、熱湯を用意し、川崎領の村民と衝突した。川崎領の村民は大挙して名主の鈴木七右衛門宅に乱入し、居室と土蔵、穀倉、馬小屋、表門、裏門、離れ家の便所2ヶ所をことごとく打ち壊し、さらに隣家2軒も破壊した。

このとき鈴木七右衛門は江戸に出張中であった。不在を知った数百名の農民たちは、その日の夕方に江戸馬喰町の御用屋敷にまで追いかけて行くという事態に発展した。

その後、江戸幕府は厳重な取調べを行い、川崎宿他19カ村の名主、年寄34名は御叱りを受け、農民ら1324名は村高に応じて過料銭207貫文を課せられた。

溝口村名主・鈴木七右衛門は所払いの厳罰を受け、久地村の名主は5貫文、年寄は3貫文、久地村76名、溝口村74名の農民らは村高に応じて21貫文の過料銭の処罰を受けた。またこの水騒動に対して十分監督取締まりができなかった幕府の下役人もそれぞれ処罰された>


「ほーっ、なるほど、いやはや大変なもんだ」、ドラマを見る思い。「水騒動」・・・水稲耕作は水がなければ壊滅する、ひどい時は大飢饉になる。水騒動は全国で起きただろう。


この水騒動を根本的に解決したのが「久地円筒分水」なのである。川崎市教育委員会曰く――


<昭和16年(1941)、かつての久地分量樋のやや下流に「久地円筒分水」が造られた。設計したのは、当時の神奈川県多摩川右岸農業水利改良事務所長であった平賀栄治(1892〜1982)である。


平賀は、円筒分水の設計・建設と同時に、多摩川の支流で、大雨になると二ヶ領用水に流れ込んで洪水を引き起こしていた平瀬川の改修にも取り組んだ。(南側の)平瀬川が多摩川へ流れるように流路を変更し、平瀬川と(北側の)二ヶ領用水がぶつかる地点で、二ヶ領用水の水を平瀬川の下に潜らせ、噴水のように噴き上げるのを利用したのが円筒分水である。


当時としては、最も理想的かつ正確な自然分水装置の一つであり、その技術は、戦後に円筒分水を視察に訪れたGHQの農業土木技師により、アメリカにも紹介されたといわれている。

久地円筒分水は、都市化の進んだ現在では農業用水としての役割をほぼ終えたが、その後各地で造られた円筒分水の初期の例として貴重である>

小生は「久地円筒分水」の存在は知っていたが、どこにあるのかまったく知らなかった。車1台が通るのがやっとのところで、駐車場のスペースもトイレもないから、地元としては「知る人ぞ知る史跡」にしておきたいのだろう。

小生はチャリ散歩の折、たまたま標識を発見して寄ってみたのだが、二ヶ領用水が落差4メートルほどの滝となって平瀬川に落ち込む様子は、鬱蒼とした森と相まって美しく、かつ豪快で感動した。

円筒分水装置そのものは10メートル四方の施設で、今もしっかり4方向に水を流している。シンプルでありながら複雑な計算と優れた技術で、理系脳ほとんどゼロの小生だが「まったくもって生きている産業遺産だなあ」とまたまた感動した。

平賀先生は、円筒分水のほか、二ヶ領用水の2ヶ所の取水口のある、多摩川の上河原、宿河原の2つの堰堤(これまた小生の遊び場)の設計・建設を行うなど「多摩川の治水に尽力した」のだった。


円筒分水は水争いを抑制するとともに、戦中、戦後の食糧難時代の増産、水田開拓でも大いに貢献したろう。


「衣食足りて礼節を知る」と言うが、考えてみると衣食住の質的量的拡大、生産性向上の現場は主に技術、技師が牽引してきた。

小生のような文系の口舌の徒は、社会の枠組みとか人間の生き方(含:礼節)とか哲学的、文学的、政治学的、形而上学的なことは考えるが、実社会を現場で現実に支え発展させてきたのは「理系科学脳」エンジニアではなかったか


鉄腕アトムは「心やさしい科学の子」だったが、文系と違って「叡智」を有史以来蓄積できる「理系科学脳」こそが地球を救うのではないか。文系政治家が方向性を示し、理系技術者が現実化するとか、文系と理系のコラボによる生産的な国家経営が大事だということだろう。

8月の日本は「核なき平和」「核廃絶」「終戦/敗戦」と施餓鬼法要で線香の匂いが絶えない。勝っていたら「我ら大和民族は先人の愛国武勇を引き継ぎ、世界の安定に引き続き努めていく。英霊に敬礼!」という「勝戦記念日」になっていたのだろう。


広島、長崎の慰霊イベントはもしかしたら無差別虐殺、生体実験をした米国への「面当て」「恨みはらさでおくものか」のメッセージなのかもしれない。

細谷雄一著「国際秩序」を読んでいると、どうしても「核兵器が第三次世界大戦を抑止した」と首肯せざるを得ない


戦後の平和(大戦がないこと)は国家間の愛や信頼、友好がもたらしたのではなく「核戦争=破滅の恐怖」こそがブレーキになったのだということを、実に多くの識者が(戦後リベラル≒アカモドキ≒アカの教祖的存在だった丸山真男さえも!)唱えているのだ。


そんなことを考えていた時に円筒分水を発見し、「理系科学脳」こそが地球を救うのではないか、と思い、日本が核兵器を(レンタルであれ自主開発であれ1000発ほど)持ちさえすれば印パ紛争、印中紛争のように、中共とのガチンコはそこそこの武力衝突で済むのではないかと考えるに至った次第。


そうしておけば中共は太平洋への突破口が開けず、南シナ海島嶼の不法占拠による基地がつぶされ、台湾海峡も制圧されたら、逼塞するしかない。そうしておけば包囲戦は我が方にとり有利になるだろう。暴走しそうなメルケル独も身動きできなくなる。



日本が勝利のためにとるべき第一歩は「核ミサイル1000発ハリネズミ作戦」だ。戦わずして(出血少なくして)勝つ、最上等の作戦だと思うが・・・

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