2020年09月12日

◆人工呼吸器と医師



 エデンの園で暮していたアダムとイブは蛇にそそのかされて、神様との約束をやぶり禁断の木の実を食べてしまいました。そのため楽園を追放され、永遠に苦悩を背負い生きていくことになります。この禁断の木の実は「智恵(・・)の(・)木(・)」の実でこれを口にしたことで「恥」を知ることになり、アダムとイブは裸を恥らいその恥部をイチジクの葉でかくしたのです。智恵は恥じらいを生むということなのでしょうか。

 実はエデンの園にはもう一本の禁断の木がありました。それは「生命(・・)の(・)木(・)」といわれる木です。最近の人工呼吸器をはずした事件や臓器移植、人工授精、クローン誕生の話題になると、私は21世紀の人類はエデンの園のもう一本の禁断の木の実「生命の木」の実を食べてしまったと思えてなりません。生命の木の実を食べてしまったので、さらに楽園を追放され人類はあらたな苦悩を背負ったように思われてなりません。人工呼吸器があらたな苦悩をつくり出しました。そしてこの苦悩から逃れることはむずかしいと思います。

 実は私自身、3年前に「母の人工呼吸器をはずして下さい」と医師にお願いをした経験をもちます。
 母はくも膜下出血で倒れ、意識のもどらぬまま3週間目に脳浮腫が出現し、つよい点滴を使うことになりました。そのため「人工呼吸器を装着する」と医師から告げられました。私は人工呼吸器装着というコトバに過剰反応してしまいました。人工呼吸器は装着したらはずせないし、その状態で先の読めない精神的ストレスがいつまで続くかわからない苦悩を知っていたからです。病院からは退院を迫られるでしょうし、療養先もそう簡単には見つからない。さらに果てしない入院代の負担と家族へのしわ寄せは必至です。
 私が大急ぎで病院にかけつけた時には、人工呼吸器がすでに母にセットされており、意識のない母は人工呼吸器によって規則正しい呼吸をしていました。見舞う父は「やすらかに眠っている」と言い安心していました。母は自分で呼吸ができないから人工呼吸器をつけているのに、素人の父の眼にはほんとうにそのように見えたのでしょう。
 
しかし、人工呼吸器をつけて一週間が経った頃、医師から脳死状態にあると言われました。ベッドに横たわる母と私のあいだにこの脳死というコトバは何の意味ももたないコトバでした。私の母はここにいるという理解しか私にはできませんでした。そしてこの頃から母の顔が日に日に色あせてきました。母の顔が母ではないように見えてきました。私はそんな母の顔を父に見せたくないと思いました。父や私の思い出のなかにある母の顔のままで、母を残しておきたいと思いました。だから医師に「人工呼吸器をはずして欲しい」とおねがいしました。「それはできない」と先生からは即答がありました。瞳孔が開いている脳死状態でも人工呼吸器は外せないのです。
 
今思えば、確かに母自身「延命治療を希望しない」という意思表示はしていませんから、私の意向で決められるものではないでしょう。
残念ながらその翌朝、母の心臓は止まってしまいました。先生に「人工呼吸器をはずして欲しい」とたのんだ私に絶望して、きっと母は「もういいよ」と言って死んだのだと思います。
 私が到着するまで、人工呼吸器をつけておいて下さいましたが、人工呼吸器をはずした途端、母の肉体はスーッと冷たくなりました。看護師さんと一緒に身体をふいてやりましたが、そのあとガンで死んだ父のほうがもう少し身体があたたかかったように思います。母の身体の冷たさから、母はやはり人工呼吸器にのっかっていただけで、死んでいたのだと私はその時理解していました。
 
しかし葬儀のあと、ビックリする話を母の友人のSさんから聞きました。母が死んだその朝に、Sさんの夢に私の母があらわれて「Sさん先に行くからね」と告げて消えたというのです。「しまった」と思いました。母は死んではいなかった。脳死といっても母は生きていて、私が医師に「人工呼吸器をはずして欲しい」と頼むのをきっと聞いていたのだと思います。
 
あの時、母は生きていたのか死んでいたのか、いまだに私は悩んでいます。母が生きていたのに「人工呼吸器をはずして欲しい」と言ってしまったのではないか、いまだに母に対して犯した私の罪を背負っています。
「人工呼吸器をはずして欲しい」と医師にたのんだ私ですが、母の死後はどんな形であれ、意識がもどらなくても人工呼吸器がついていても、やっぱり母には生きていてほしかったとも思っています。これほど気持ちはゆれ動いています。

 母がムダな延命治療を希望しないと一筆しるしていたとしても、またそれに従い人工呼吸器をはずしたとしても、果たしてそれが母の尊厳死になったのでしょうか。「はずしてよかった」と思いたいと同時に、「はずしてよかったのだろうか」という罪障感も必ず生じます。こんなことにわずらわされないで「神様に召された」と表現される死に方がしたいとも思います。しかしエデンの園の禁断の「生命の木」の実を食べたがゆえに、楽園を追放された人類の、私達の苦悩は続くはずです。

 「延命治療の中止に関するガイドライン」づくりが厚生労働省ですすんでいるようですが、医師が罪に問われないようにするためだけのガイドラインでは片手落ちになると思います。
 
今回、外科医による人工呼吸器外しがニュースになったために、今まで以上に医師は人工呼吸器に臆病にならざるを得ないと思います。救命のために装着された人工呼吸器が、いつの時点からかムダな延命治療という行為に変質してしまいます。救命と延命はコインのウラとオモテの関係であり切り離せないものであり、また命に「ムダな」という形容詞をつけるべきではないと思います。
 
ガイドラインが策定されたからと言って、医師の肩の荷がおりるはずもなく、家族の罪障感が消えるものでもありません。この重圧から逃げようとせず、しっかりと見つめる姿勢と、目の前の語らぬ患者と、家族と、医療者が三様に対話を重ねることが、家族をそして医療者を成長させることにつながると思います。

ガイドラインは医療者が最低限守らなければならないものですが、でもそこに逃げ込まないで欲しい、ガイドラインを口実にしないでほしいと思います。私達がのぞんでいるのは、尊厳死(・)ではなくむしろ尊厳生(・)と呼ぶべきものかも知れません。「ご臨終です」といわれる最後の瞬間までの生命が、昨日までの生きざまと意思に合致したものになっていることに期待を寄せているのです。そして生きざま、死にざまに前例はなく、その都度ごとにそれぞれに悩まなければ意味がありません。絶対に「生か死か」、「人工呼吸器を装着するか、はずすか」という選択問題で片付けてしまわないようにしなければならないと思います。
 
このような重圧が日常的である医療者は逃げ出したくなります。安易な道に逃げこみたくなる医療者を支え、励ましあえる環境も作らなければなりません。
   (大阪厚生年金病院 ソーシャルワーカー) 

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