2020年09月28日

◆雀庵の「中共崩壊へのシナリオ(82」

“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red
Gables/192(2020/9/26/土】人間に一番近い動物はチンパンジーだという。見た目は愛嬌があるが、意外に嗜虐的であり、ボスの座から落ちた者を寄ってたかってイジメ殺す、死後も凌辱する、そして熱狂が覚めて冷静になると、ボロボロになった死骸を見て「何でこんなに酷いことをしてしまったのだろう」と悲しげな素振りをするらしい。



反省するわけだ。事の一切を観察し続けていた動物学者はその様子を見てびっくりしたという。小生だってびっくりだ。反省するチンパンジーもいれば、ちっとも反省しないし、それどころかもっと残酷な殺し方を発明したいという、殺生を好む人間、チンパンジー未満もずいぶん多い。



「奴は敵だ、敵を殺せ、見せしめになぶり殺せ」というのは原始人の頃からあったろう。狩猟採集の縄張り争い。生存空間を守り、かつ拡大していかなければ群や部族が駆逐される。やがて合従連衡、通婚などで大部族、さらに国へと大きくなっていったのだろう。部族間で争うよりも交易(物々交換)、交際(遺伝子交配)した方がいいと分かってきたのだ。


統一国家らしきものが始まり、支那や半島の影響もあって600年頃には冠位十二階、十七条憲法を制定、国家の体制が固まってきた。その過程で神道という勇壮な「日本人の物語」が整い、一方で穏やかなマナーを良しとする仏教が伝来普及したこともあって、日本の場合は「残虐な処刑は恨みを買うから」と忌避されていったのかもしれない。


海に囲まれた小さな、コンパクトな、人口の少ない、単一民族だったから統治しやすい、それ故に過酷な刑で抑えつける必要が薄かったのだろう。あらゆるものに神性が宿っているという古代からの日本的シャーマニズムの影響が大きいかもしれない。


封建体制から国民国家へ大転換した戊辰戦争の戦死者数8420人(新政府側3550人、旧幕府側4690人)。当時の人口の0.03%以下・・・慶喜、西郷、勝らが必死になって衝突を抑え込んだからだ。「和を以て貴しとなす」の教えがあったからこそ、新時代へ向けて国力を温存できたのではないか。


藩別の戦死者は薩摩514人、長州427人、そして会津2557人(うち女性194人)。京の治安を命じられた会津は薩長の恨みを一身に浴びてひどい目に遭った。今、石光真人編著「ある明治人の記録 会津人・柴五郎の遺書」を読んでいるが、最果ての下北半島に追放された悲惨さは読むのが耐え難いほどだ。


「薩長許すまじ」、表には出さないけれど恨みつらみの無念の思い・・・会津人の気持ち、分かるなあ。


<会津藩は戊辰戦争の際には庄内藩とともに、プロイセン王国(後のドイツ帝国)に対して、駐日代理公使ブラントを通じて蝦夷地(北海道)に持つ所領の割譲を提案し、その見返りとして兵器・資金援助や軍事介入を得ようとしていた。


プロイセンは普仏戦争の直前で余裕がなかったことから宰相ビスマルクによって1度は拒否されたが、3週間後に一転して認可された。しかし既に会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており実現しなかった>(WIKI)


英は薩長支援、米は南北戦争中、仏は恭順の幕府支援、孤立した会津はすがる思いでプロイセンに支援を求めたのだ。当時、日欧の通信は片道2か月はかかったから戊辰戦争が長引けばドイツの援軍で「会津による政権」はあり得たかもしれない。


なるほど、そういう経緯があるからビスマルクは日本の政情に通じ1873年、伊藤博文、大久保利通ら遣欧使節団を前に「欧米列強の甘言に騙されるな、植民地にされるぞ、独立のためには列強に負けない軍事力、経済力を持つべし」とアドバイスしたのには上記の会津の支援要請が背景にある訳だ。


1871年統一という遅れてきた青年“ビスマルクのドイツ帝国”としては「アジアを英仏米の好き勝手にはさせない、日本を勢力均衡の駒として使える」という思惑があったろう。さすが鉄血宰相は「硬くて食えぬ奴」だ。


閑話休題。吉野直哉著「張家三代の興亡 張有財・張作霖・張学良」によると、毛沢東は「死刑の方法は120あるが、半分は俺が創った」と豪語していた。まあ、話半分のまゆつば物だろうと思っていたが、楊海英著「中国人の少数民族根絶計画」にあった実に多種多彩な殺し方を見て、毛沢東の言葉は真実ではないかと恐ろしくなった。


日本でも江戸時代には笞打、石抱責め、水責め、海老責めなどの拷問はあったが、真偽はともかく「白状させる」のが目的で、責め殺したり誤認逮捕は役人の失点になったという。それなりに慎重で、石抱責めは医師の監視が付いていたとか。


中共の処刑、拷問はほとんどが強者が弱者を苛む集団リンチ、「正義を装った嗜虐、民族浄化、派閥抗争、私闘」そのものだ。内モンゴル出身の楊海英氏の著作から引用、要約する。


・兄貴たる中国人=漢族が中心となって弟の諸民族を同化し融合していくべきだという「中華民族」論がある。習近平の「中華民族の偉大な復興」論の背景だ。チベット人、ウイグル人、内モンゴル人(列強のヤルタ密約で南北に分断された南側、南モンゴル)をジェノサイドによってでも同化させるという意味である。


・内モンゴル人は同地での文化大革命を「モンゴル人のみを対象とした殺戮行為」と認識している。満洲国では日本式の近代教育を受け、近代思想を身に着けたモンゴル人たちを、中国人は「日本刀をぶら下げた奴ら」「日の丸を担いでいた奴ら」などと呼び、「対日協力者」だと批判、断罪した。


・モンゴル人の民族自決を目指した歴史も「祖国を分裂させようとした行動」だと、中共建国から17年も経ってから批判し始めた。モンゴル人の近現代における行動はすべて罪として再清算され、周恩来の支持により大規模なジェノサイドが内モンゴルで始まった。


・1966年5月、モンゴル人の最高指導者ウラーンフーが失脚に追い込まれ、67年11月から「ウラーンフーの黒い路線を抉り出し、毒害を一掃する」「内モンゴル人民革命党員を粛正する」闘争が始まった。


ウラーンフーは中共建国より2年半も早く成立した内モンゴル自治政府(後に自治区)のリーダーで、中共が標榜する「民族自治のシンボル」だった。それが一転して「反党叛国集団」「民族分裂主義者」と非難されたのは、モンゴル人の伝統的な遊牧生活の維持を主張し、中華的な定住・農民化と、漢族の入植(乗っ取り)に否定的だったためだ


要は中共は民族自治を排除し、内モンゴルから民族主義的なモンゴル人を追放し、完全に漢族の入植地にしたかったということだ・・・


「中華民族の偉大な復興」とは「漢族以外は奴隷にする」ということだ。(この項は次号に続く。雨の中散歩して体調を崩し、パワーダウン)


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