2021年01月27日

◆中国海外軍事基地が悲鳴

宮崎 正弘

 
令和三年(2021)1月24日(日曜日)弐 通巻第6776号   

 あまりの兵站態勢の未整備、中国海外軍事基地が悲鳴
  ジブチの軍需物資は20倍高く、パキスタンは治安最悪

 米軍の海外基地は山のようにあるが、とりわけ重視しているのはディエ
ゴ・ガルシア、ジブチ、シンガポール、そして嘉手納と横須賀である。
 周辺労働者の質が高く、必要なものは何でも容易に調達できる。そのう
え修理設備、優秀なエンジニアが揃い、船舶修理に欠かせないドッグもあ
る。物資搬入のアクセスも良く、そのうえ米軍への信頼度が高い。

 2017年、中国は初の海外軍事基地をジブチに設けて、一万人の人民
解放軍兵士が駐在、一説には中国軍の海兵隊が訓練しているともいう。ジ
ブチは、しかしながら受け入れ国として最低だった。

 労働者の質が悪いのは教育がないからだが、補給物資、兵站アクセス、
産業のインフラなど基地を支える態勢が欠落している。
そのうえジブチの政治指導者の拝金主義と腐敗。物資の多くが中国本土で
調達するより20倍も高く、こんな受け入れ態度では先が思いやられると
悲痛な叫びを上げているとか(ジェイムズタウン財団『チャイナブリー
プ』、2021年1月号)。

 一方、受け入れ国は軍事基地提供と引き換えに約束された援助などが行
われておらず、中国の約束反故に不満を高めている。

 中国はほかにパキスタンのグアダール、スリランカのハンバントタの軍
港化工事を急いでいるが、とりわけグアダールの治安悪化で、工事がス
トップしている。
 ほかにもモルディブ、パプアニューギニアなどを長期的視野で軍事基地
化を狙っている様子だが、インフラの劣悪さはジブチに似ていてる。
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム 
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【知道中国 2188回】           
  ──英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港70)

   ▽
 街を散策していると、「支那人の盛んな葬列に出会った」。「旗、花、
人形、供物、馬、船、等々、長さ四五丁に亘る行列で、暫く立って見てい
たが、上の坂から柩の現れるのを待ちきれないで船に帰った」。
もう少し我慢して待っていれば巨大な柩がやってきたものを、残念なこと
をしたものだ。

 野上はアメリカ人宣教師らの香港探訪記を引用しながら、香港を次のよ
うに紹介した。
 「イギリスはもちろん地勢の上から此の島を東洋進出の足場として必要
と認めたのであろうが、同時に、イギリス人一流の開拓方法として、まず
山に植林し、漁村を都市に造り上げ、今日見る如き『庭園都市』として完
成したのである」。

「見たところ、上海より小奇麗にまとまって、山の半腹以上まで町が這
い上がっているので殊に絵画的である。香港の商人も上海の商人の如くに
贅沢に暮らしているが、享楽の機関は上海に較べるとずっと少ない」。

 野上の香港滞在は僅かの2日間だけ。それゆえに「われわれのあわただ
しい香港見物は、舞台裏や幕間の見せ物はおろか、大向の舞台見物さえす
る暇はなかった。ただ香港の島を一周して、ホテルの支那料理を食っただ
けに過ぎなかった」わけだが、「それでもこれだけのことは感じた」と綴る。
香港と香港の住人について興味深い指摘が見られるので、やや長いが敢え
て引用しておきたい。

 「香港は、イギリスが支那から取り上げて造ったイギリス風の町ではあ
るが、抜け目のない支那の商人は(この際到る所にうじゃうじゃして居る
苦力のことは考慮
の外に置くとして)イギリス人に開拓させた町の中に巧みに食い込んで
(上海とてももちろんそうだが、)支配されながら支配しているのだ。イ
ギリスは百年前に戦争で支那に勝ち、その後の百年間に財的に次第に支那
に復讐されつつあるのだ。おそるべきはイギリスの勢力ではなく、神秘的
な支那民族の底力である。香港・上海が今後どうなるかは知らないが、其
処に潜入してる支那の財的勢力は政治軍事の表面の勢力よりも一層警戒す
べきものではなかろうか。それは単なる経済学の問題ではなく、民族学・
民族心理学・国際文化の問題である」。

 もう少し続ける。
 「香港から百五十キロほど北西へ入江を入って突き当った所に広東(カ
ントン)があって、これも根強い支那民族の活動の源泉地の一つとなって
いるが、その物騒な空気は西洋人をひどく警戒させて、Don’t go to
Cantonということが彼等の間で諺になっているそうだ。われわれは行って
見たいと思っても行くことがなかった。それに何だかその方角にはただな
らぬ雲行きが感じられた」。

 夏目漱石門下の英文(演劇)学者で、能楽の研究と海外への紹介に尽力
し、総長として敗戦後の法政大学再建に尽力した野上の経歴からして、香
港に対する深い歴史知識を持っていたとは思えないし、中国をめぐる当時
の極東・国際情勢に通暁していたとも考えられない。
だが、「支配されながら支配している」との香港の商人の振る舞いに対す
る見方も、ましてや「それに何だかその方角にはただならぬ雲行きが感じ
られた」との直感も鋭い。

 1941(昭和16)年12月8日の啓徳空港爆撃から始まった日本軍の香港攻
略は、早くも25日に完了する。
26日に軍政庁が、年が明けた1942年1月19日には磯谷廉介中将を総督とす
る総督府が置かれ、1945年8月15日までの3年8か月の日本統治時代が始
まった。
1941年には164万人ほどを数えた人口は45年には65万人にまで減少し、
46年には155万人に回復する。5年ほどの間、100万ほどの香港住民は大陸
に逃れ、再び香港に戻った。
 日本時代も香港の商人は「支配されながら支配している」のであっ
た・・・だろうか。
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 読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読
者之声
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(読者の声1)台湾駐米大使 なぜ世界に注目されるか?
アメリカの週刊誌『ブルームバーグ・ビジネスウィーク』は、1月22日
号で「2021年 8名の注目すべき重要な人物」のひとりに、台湾の駐
米大使にあたる蕭美琴駐米代表を選んでいます。
 蕭美琴駐米代表がなぜ、この8名の最も注目すべき重要な人物に選ばれ
たのか?
-- www.youtube.com/watch?v=nE-qPCZMWS8
   (台湾の声)


(宮崎正弘のコメント)小誌でも既報のとおり、彼女は注目株ですが、ビ
ジネスウィークは「本来なら蔡英文総統をえらぶべきところを何故彼女な
のか」という視点が際立ってユニークですね。



  ♪
(読者の声2)NHK大河ドラマ『麒麟が来る』の第41回の【月にのぼ
る者】が1月17日に放映された。
この回のテーマは、平蜘蛛の釜であった。
この釜は天下に二つとない名器で、口碑では、密閉された茶室で炭火にか
けると、立ちのぼった湯気が蜘蛛がのたうつ様に見えると言われた。これ
を見た陶工は同じ物を作ろうとしたが、二度と作れなかった。どこが違う
のか全く分からない。それほどの釜であった。
これが松永久秀の手に渡った。信長が差しだせと言っても、これだけは絶
対に献上しなかった。一国にも勝る逸物なのだ。それから、信長と久秀の
仲がおかしくなる。
久秀は、遂に信長に叛旗をひるがえした。信貴山城落城の時、信長は、釜
を差しだせば命は助けると久秀に言ったが、久秀は、釜を体に巻き付け、
爆死したと言う。
 『麒麟が来る』のドラマでは、久秀が死ぬ前、密かに明智光秀に渡し
た。光秀は、苦悩の末、釜を信長に差しだしたストーリになっている。
 『麒麟が来る』は、すでに撮影終了したという。最終回では、本能寺で
信長が死ぬ時、平蜘蛛の釜を体に巻き付け「憎き光秀に釜を渡してなるも
のか」と言って爆死させるのではなかろうか。
史実では、信長が本能寺で死ぬ時、本能寺から大きな爆発音が聞こえたと
言われているからである。私のつたない創作力が、当たっていることを願
うばかりです。
   (斎藤周吾)


(宮崎正弘のコメント)あのドラマは物語を盛り上げるために創作部分が
多く、史実とは無関係のことが夥しい。たとえば実在しない町医者が、こ
ともあろうに正親町天皇と囲碁を打つなどあり得る話ではありません。
拙著『明智光秀 五百年の孤独』(徳間書店)では、光秀の蹶起に至るプ
ロセスを入念に書き込み、檄文の代替が連句にあるとしております。
本能寺の変では「さいかち」の木を目標に、明地軍は信長を襲撃して放火
しました。おそらく二千度の熱、信長の遺骨が発見できなかったのは当然
で、高熱で遺灰になった筈です。



  ♪
(読者の声3)毀誉褒貶の激しいドナルド・トランプさんが任期を無事卒
業して、元副大統領で政治的経験豊富なジョー・バイデンさんが第46代米
国大統領に就任。
同国大統領就任時に「史上最高齢の78才」で健康面の問題があるが、是非
とも不安払拭して任期全うし、二期目も目指してもらいたい。
「トランプさん、ありがとう。さようなら」、そして、「バイデンさん、
こんにちは。よろしく」と言ったところか。注目したいのは、新大統領が
英米で何かと差別されたアイルランド系カトリック教徒であるという事。
1961年に「史上最若齢の43才」で同職就任した故ジョン・F・ケネディー
大統領以来の二人目で、1963年に同氏が暗殺されて以来の58年ぶりの快挙。
 ただしアイルランド系ならば、故ニクソン元大統領(の両親)もそう。
だが、宗派は新教で父親がメソジストで母親がクエーカー。人種の混り合
う米国では必ずしも「アイルランド=カトリック」ではないのだ。ニクソ
ン家では母親の影響が強く、父親もクエーカー教徒に改宗。母親は保守的
な福音主義で厳格な躾を行うが、少年期の家庭教育がニクソンの保守主義
の骨格を作ったのだろう。
 故ロナルド・レーガン元大統領(の両親)は、父親がアイルランド系カ
トリック教徒で母親はスコットランド系プロテスタントの熱心な信徒。こ
れも母親の影響を受け11歳で禁酒派のディサイプル教会で改宗しプロテス
タントとなる。
一方、兄はアルコール依存の父親と同じカトリック。幼少期レーガンは教
会に通い信徒を前に説教をして、グレート・コミュニケーターとしての演
説力の基礎を培う事になる。
 アイルランド系とは関係無いが、英国王室の血筋を引く名家ブッシュ家
は当然アングリカン(米国聖公会=英国国教会)で、故ジョージ・ブッ
シュ・シニア元大統領夫妻も同宗信徒。ところが、息子のジェブ・ブッ
シュは1994年(ヒスパニック系が多い)フロリダ州知事選挙に落選したす
ぐ後の1995年にカトリックに改宗。
甲斐あってか1998年の選挙では見事当選する。ジェブの兄のジョージ・
ブッシュ・ジュニア元大統領の場合は若い頃アルコール依存症だったが、
熱心な信徒の妻ローラの影響で「再生」して、1977年の結婚直後にメソジ
スト教会に入会する為に米国聖公会脱会。親子兄弟が別々の宗派に属する
例である。
 母親や妻など女性の影響は強いのか。
ロックフェラー財閥の創始者故ジョン・D・ロックフェラー一世(の両
親)は、特に父親が詐欺や重婚などをして家にほとんど帰って来ない人格
破綻者であった。それに耐え続けた母親は真面目なバプテスト派の信者で
ある。
若い頃のロックフェラーも地元教会の会衆として日曜学校で教え、同教会
評議員や事務を務め門番役も務めた。財閥創設期に鉄道会社を賄賂で買収
してライバルを蹴落とし強欲のイメージが強いロックフェラー一世である
が、生涯に渡り信仰を行動指針とし全収入の一割を寄付に当てた。
逆にそれが成功の源泉と信じ(カトリックの様に)蓄財を恥じなかった。
   (道楽Q)


(宮崎正弘のコメント)とくにクエーカー教徒は戦争の考え方は、ほかの
キリスト教諸派と異なり、穏健な平和主義です。
ニクソン政治の奧底にある政治の考え方だと思います。



  ♪
(読者の声4)西部遭氏は昭和14年(1939)の生まれですから、昭和21年
(1946)生まれの自分とは、7年の年齢差があります。
老年期に入ると、7年ぐらいは誤差とも言えますが、雑誌『群像』連載中
の『Nの廻廊』(保阪正康筆)を読んでいても、5年間隔ぐらいで激動を
繰り返してきたわが国の戦中戦後期では、かなり大きな年代差であること
を感じます。
 私は、西部氏とは、個人的な縁は全くありませんが、自分が50歳代の
頃、西部氏と駒場寮で同室であったS氏と、何回か話したことがありま
す。S氏は、その当時でも、その言動にやや左翼的残滓を感じましたが、
S氏とも、同氏の学生運動時代(?)のことについては、立ち入って話し
たことはありません。
 ところで、上記『Nの廻廊』を読んでいて、保坂氏が30年ぶりに西部氏
と邂逅する際も、当初は、西部氏が、昔の知人と話すことにかなりの警戒
感を持っていたというくだりが印象に残りました。保坂氏は、西部氏に対
して、学生運動時代については触れない、という不文律を自らに課してい
たようです。
 ある酒席で、ある編集者から、「学生運動の元指導者として、それに動
かされた人々に対する責任をどう感じているのか」と問われて、西部氏が
激昂したという話が紹介されています。
その後、保坂氏に対しては、この問いにたいする答えは用意していると述
懐されたということですが、こうした点について、西部氏には、多少は自
罰的な想いもあったのでしょうか?
 前にも書いたことがありますが、雑誌『Hanada』2020年11月号で、平川
祐弘氏は、ベルリンの壁崩壊の年に没した江口朴郎氏が、かつて誤ったこ
とを教えて「教え子や仲間を誘ってしまった責任に晩年苦悩した」(江口
氏令嬢の2017年6月の手紙による)ことを紹介しておられます。
 また菊地昌典氏は、「ソ連研究者として、また毛沢東や文化大革命の礼
賛者として、自分の学問的生涯は、初めから終わりまで蹉跌続きでまこと
に空しかった、と正直な自嘲を笑いにまぎらして、教授会の別れの挨拶と
した」と述べておられます。
 稲垣武著『「悪魔祓い」の戦後史』(文春文庫1997年)では、戦後にお
ける、いわゆる進歩的文化人と呼ばれた人々による、今から見れば愚劣と
しか言いようのないような言動が多数紹介されています。
 その中では、全共闘運動が盛んだったころ、羽仁五郎氏が、その言論の
責任を追及されたのに対して「言論の責任をとることになってくれば、言
論の自由なんてものは保証できないんですよ」と居直ったことなども紹介
されています(520頁)。
 ここで列記したような、純然たる(?)言論人、理論的指導者とは異な
り、「運動」実践家でもあった西部氏は、はたしてどのような想いを持っ
ておられたのか?
 その思いは、その自死(保坂氏は自罰的とも書いておられます)にもつ
ながるのでしょうか?
 そう言えば、三島由紀夫氏の晩年の行動・自死も、戦場に赴き夭折した
多くの同世代に対する忸怩たる想いが底流にあったことは明らかであるよ
うに私には思えます。
  (椿本祐弘)


(宮崎正弘のコメント)西部氏の学生運動への回顧、じつは小生との対談
『アクティブ・ニヒリズムヲ超えて』(文藝文庫)のなかで、比喩的にマ
ルロオーを援用しながら、ちゃんと開陳されています。
 また小生の西部さんへの評は、拙著『青空の下で読むニーチェ』(勉誠
出版)のなかにワンチャプターを割きました。
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