日本ルネッサンス 第981回
過日山口県を訪れた際、地元の志篤い人から『吉田松陰の思想と生涯』と
いう本を戴いた。松陰研究者で知られる、今は亡き玖村敏雄氏が山口銀行
で行った6回の講演を、同行が行員職員の学びの目的で上梓した。心に沁
み入る一冊だった。
周知のように、松陰が松下村塾で教えたのはわずか2年と3か月間だった。
この間に身分の差を超えて約60名が集った。松陰の下で学んだ士分出身の
主な人物には高杉晋作、久坂玄瑞、萩の乱で首を切られた前原一誠、司法
卿(大臣)になった山田顕義、中谷正亮などがいる。
足軽出身者としては池田屋事件で重傷を負い、長州藩邸の門まで帰りつい
て自刃した吉田栄太郎、禁門の変で戦死した入江杉蔵、初代総理大臣と
なった伊藤博文、日露戦争当時の参謀総長、山縣有朋、また品川弥二郎、
野村靖も維新の大業に尽した。
士分でも足軽でもない塾生に魚屋の子で画家の松浦松洞がいる。松陰が
座っている肖像があるが、これは松洞が描いたものだという。
ちなみに松下村塾の最初の塾生は医者の子の増野徳民だった。次の塾生は
杉家(松陰は養子として吉田家に入ったが、ずっと生家の杉家で暮らして
いた)の隣家の吉田栄太郎で、彼のことは前述した。三番目の入塾者がこ
れまた前述の松浦松洞だ。
玖村氏は、松下村塾の最初の塾生の3人が医者、足軽、魚屋の子で、士分
ではなく皆平民であったことの意味を説く。当時の日本、毛利藩の実情を
見れば特筆すべきことなのだ。江戸時代の日本には士農工商の身分制度が
あり、士の子弟は藩校で学び、平民の子は寺子屋で学んだ。毛利藩にも藩
校として萩に明倫館があった。
しかし、松陰は身分の上下など気にせず、全ての人を一人の人間として見
た。ここで想い出すのが明治新政府誕生と同時に発布された五箇条の御誓
文である。「広く会議を興し、万機公論に決すべし。上下心を一にして、
盛に経綸を行ふべし。」
まさに維新を貫いた思想がここにある。約190年前に生まれた松陰は明治
維新の10年前に処刑されたが、彼は時代を先取りして見事に実践していた
のだ。
なぜ学ぶのか
松下村塾で学んだ約60名の中から歴史に名を残した人々が二十数名もい
る。松陰の住んでいた村に特別に才能ある人々が集中して生まれていたと
いうことか。そうではないだろう。玖村氏は日本のどの村にも人材はい
て、よき師に巡り合うことによって人材はその持てる天分を磨き、一廉
(ひとかど)の人物になれるのだと言っている。つまり、松陰はよき師で
あったということだ。では、なぜ松陰は人を育てることができたのか。そ
れは一にも二にも松陰の育った家庭にあったと玖村氏は書いている。
松陰は幕府がアメリカと和親条約を結んだときペリーの艦でアメリカに密
航し学びたいと念じた。下田港近くで機を窺い、小舟で漕ぎ出しついにペ
リーの艦によじ上ったが願いは受け入れられなかった。松陰は密航を企て
国禁を犯したとして自ら名乗り出た。結果として国許に送られ父杉百合之
助に引き渡された。安政元(1854)年10月、松陰数え年で25歳の時のこと
である。ちなみに父百合之助は「百人中間頭兼盗賊改方」、つまり萩の警
察署長だった。
事情を端折(はしょ)って言えば松陰は野山獄に入れられる。そこには士
族11人がすでに入っていた。獄中で松陰は本を読んだ。「感激すると涙を
ふるって読む、腹が立つときにはまなじりをあげ激越な調子で読む、嬉し
いときは声をはずませ膝を打って読」んだ。警察署長の坊ちゃんが獄に
あって少しもめげず、読書に没頭し楽しんでいる。11人も感化され獄中座
談会が始まった。
皆が問うた。獄外に出ることも望めないのに、なぜ学ぶのか、と。松陰は
答えた。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」というではないか、
と。人間としての道がわかればそれでよいではないか、と。一日この世に
いるのなら、一日いた甲斐のあることをしたらよい。たとえここから一生
出られないとしても、人間の道に背いて死ぬか、人間の人間たる道を踏ん
で死ぬか、覚悟次第でどちらにもなれる、と。
その内に野山獄の司獄、つまり刑務所長も松陰の人柄に打たれて、夜は灯
をつけてはいけないとされていた規則を改め、夜も灯をともし、筆も墨も
紙も自由に使わせた。そして或る日、彼もまた松陰の弟子になりたいと申
し入れた。
獄中生活をこのように明るく積極的に変えることができたのには松陰の人
柄がある。どんな時にも自分本来の性格を貫き、周囲の詰まらない状況で
へこまされたりはしない自立性がある。立派である。しかし、松陰のその
ような在り方を支えた力を見逃してはならない。松陰を支えたのは家庭の
力、家風であると玖村氏は説いている。
うらやましいほどの家庭
松陰の父は前述したように警察署長だ。それがその息子は国禁を犯してア
メリカ密航を企てた。罰せられて帰り、野山獄に入れられた。普通なら
怒ったりするだろうが、父も母も兄も妹も叔父も、誰も怒ってなどいな
い。皆が皆、松陰のよき理解者として彼を支え続けている。
たとえば「野山獄読書記」を見ると、ひと月に松陰が読んだ量は大体40冊
前後、1年間で約500冊だ。読書記では、松陰が野山獄に入った安政元
(1854)年10月24日から年末までに106冊、安政2年に480冊、同3年505
冊、同4年9月までに346冊となっている。
これを兄梅太郎は近郷近在の蔵書家を訪ね歩いて手に入れるのである。或
いは江戸に注文して写本を作ってもらうのである。梅太郎は明治の終わり
頃まで存命だったそうで、松陰の望む本を入手し次々に供給するのがひと
苦労だったと語っている。
それだけではない。松陰が野山獄から杉家に戻されたとき、父、兄、叔父
の3人が松陰の弟子となった。松陰は獄で11人を前に時事、政治、人生、
教育などを講義していたが、その延長を自宅で始めたのだ。こうして名著
『講孟余話』が生れた。
孟子の講義のほかに、父も兄も日を決めて経済要録、新論、日本外史など
を一緒に読んだ。松陰は家から一歩も出られない身であり、退屈だろう。
何とか皆でいたわってやりたいという愛情である。母も妹も親族の女性達
も「婦人会」を創って松陰を中心に読書会をした。
松陰の家庭は本当にうらやましいほどの家庭だ。これは父の力だと、玖村
氏は書いている。人物を育てるのは家庭なのである。人間を身分や富で判
断するのではなく、その人の人間としての特性に素直に着目することので
きる松陰の人間性を育んだのが、愛情ある家庭だった。家庭、家風の大切
さを松陰の短い30年の人生から学んだ一冊だった。
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◆【変見自在】八月革命
高山 正之
日本支配を始めたGHQは米国が過去に占領したキューバやフィリピン
でやった統治方式に倣った。
それはまず、その国の憲法を作ることだ。それによって誰がその国の真
の支配者かを教え込むのだ。
マッカーサーは幣原喜重郎首相に自作の新憲法法案を手渡し、昭和21年
2月22日の閣議で受け入れを認めさせた
マーク・ゲインの「ニッポン日記」には「その日はジョージ・ワシント
ンの誕生日に当たる」とある。
ワシントンは子供のころ斧で桜の木を切り倒した。粗暴な子だった。
マッカーサーは桜の国、日本を切り倒す新憲法をその日に認めさせたこと
に嗜虐的な喜びを感じていたのだろう。
ただ草案は帝国議会で審議される。それをパスしないと新憲法発布とは
ならないが、日本はキューバとかとは大違いで、昨日まで五大国の一つ
だった。教育も高い。脅しやカネで屈するようには見えない。
彼は帝国議会議員を総取り換えすることにした。骨のありそうな者は戦
争協力者という曖昧な基準で任を解いていった。世に言う公職追放だ。
それで東久邇宮も緒方竹虎、石橋湛山もクビにした。財界では植村甲午
郎、東急の五島慶太、西部の堤康次郎を追放し、ついでにレーダーの父、
八木秀治や菊池寛など名のある者21万人を蟄居させた。
結果、衆院の8割が追放され、GHQはその穴を埋める作業に入った。
加藤シヅエはその一人で、「GHQの将軍がいらっしゃって」立候補を
頼まれたと自伝にある。
シヅエは「女性も性を楽しむ権利がある」と主張するマーガレット・サ
ンガーに傾倒して弟子入りし。帰国後は中絶と「悪い遺伝子を断つ断種」
を普及させる運動を続けていた。
女ヒットラーは当選後、GHQに協力して日本の人口を減らす家族計画
の旗振りをやった。
GHQは獄中にあった共産党の徳田球一らを見つけて出獄させた。延安
にいた野坂参三も呼び寄せて立候補させた
初の女性の立候補も多く立てたが、この中には柄沢とし子ら共産党員が
ちりばめられてた。
ただ宮本顕治は小畑達夫に濃硫酸を浴びせるなど拷問して殺した罪で服
役中だったので候補からは外された。
そんな連中を集めるとGHQはそんな連中でも当選できるよう最大14人
区を置くなど選挙区を弄(いじ)るゲリマンダー方式を取った。
かくて昭和21年4月、衆院選挙が行われ、GHQ推薦組は全員当選した。
民主選挙というよりは我が国の選挙史上、例のない不正選挙だった。
貴族院も同じ。公職追放で大方の人士を追い出したうえで、例えば後に
吉田茂に「曲学阿世の徒」と罵られた南原繁ら親米派が新たに勅撰された。
中に憲法学者の宮沢俊義がいた。彼は天皇発議を装ったマッカーサー草
案が出ると、その欺瞞を追及することもなくすぐ草案に賛意を表明した。
おまけに八月革命説を持ち出した。誰も気づかなかったけれど実は「ポ
ツダム宣言を受諾したときに主権は天皇から国民に移っていた」と言うのだ。
GHQは宮沢の転向を歓迎し、その褒章として貴族院議員にしてやった。
そういう議員連中が新憲法の審議をやって通過成立させた
マッカーサーは新憲法を明治節に公布した
新日本の礎を築かれた明治天皇の誕生日に、日本を滅ぼす米国製憲法を
公布する。彼らしい嗜虐趣味溢れる決定だった。
それから今年で76年。その間、米国製憲法を持たせられたキューバでは
カストロがそれを破棄し、もう3回も新憲法を作っている。
フィリピンはルーズベルトが押し付けた憲法を1973年に捨てた。
パナマも「運河用地を米国に与える」とした憲法を1972年に破棄した。
日本は不正に作られ、不正に選ばれた者が成立させた憲法をまだ「いい
憲法だ」と護り続けている。
〈新潮社編集部より〉
高山正之氏の本紙連載が、文庫になりました。
『変見自在 習近平は日本語で脅す』(定価605円)絶賛発売中。
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松本市 久保田 康文 採録
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◆中間選挙前にバイデン自滅か
斎藤満
無理なインフレ抑制で米国「不動産バブル」再び崩壊へ
バイデン政権は「インフレが民主党の支持率を下げている」として、FRB
に圧力をかけて金融引き締めを前倒しで進めようとしています。そうなれ
ば、米国の住宅バブル崩壊や新興国経済の悪化などを引き起こしかねませ
ん。世界経済は綱渡りの1年となりそうです。(『マンさんの経済あらか
ると』斎藤満)
【関連】なぜ日本人の賃金は上がらないのか?本当に低かった生産性、
「手取り13万」がトレンド入りする現実=原彰宏
プロフィール:斎藤満(さいとうみつる)
1951年、東京生まれ。グローバル・エコノミスト。一橋大学卒業後、三和
銀行に入行。資金為替部時代にニューヨークへ赴任、シニアエコノミスト
としてワシントンの動き、とくにFRBの金融政策を探る。その後、三和銀
行資金為替部チーフエコノミスト、三和証券調査部長、UFJつばさ証券投
資調査部長・チーフエコノミスト、東海東京証券チーフエコノミストを経
て2014年6月より独立して現職。為替や金利が動く裏で何が起こっている
かを分析している。
バイデンの最優先課題は「インフレ抑制」
2022年はいきなりダウが最高値を更新するなど、株式市場が好調にスター
トした米国。しかし5日にはFOMC議事要旨で当局がインフレ警戒を強め、
引き締め前倒しの姿勢が見られたことから、ハイテク株を中心に調整を迫
られました
米国では秋に中間選挙が行われますが、そこでは民主党の敗北が予想され
ています。
このため、バイデン政権は支持率圧迫要因となっているインフレの抑制を
最優先課題に挙げました。そして、何としても中間選挙前にその成果を挙
げたいと、FRB(連邦準備制度理事会)に強く圧力をかけています。
FRBがこれをうまくさばけるか。5日の米国市場は、当局のインフレ抑制策
如何で新年の米国経済、そして世界経済に大きなリスクとなる可能性を示
唆したことになります。
一時的ではなかった米国のインフレ
米国でのインフレの高進はFRBにとっても大きな誤算となりました。
FRBとしては大株主の国際金融資本の意向を考え、金融緩和の長期化を目
論んでいたはずです。そして政権の利害も一致すると考えていました。現
に民主党政権に近いブレイナード理事が中心になって緩和継続を主張して
いました。
このため、インフレ率の高進についても、当初は「一過性(transit)」
と評価していました。コロナ規制の緩和で需要が一時的に集中すること
が、中古車や航空運賃の高騰につながったと見ていました。
そしてこれらも21年春ごろがピークでその後は落ち着くと見ていたのが、
夏を過ぎても一巡せず、むしろ加速しました。さすがにパウエル議長も
「一過性」の文言は適切ではないと、長期化を認めました。
実際、規制緩和による需要の集中以外にも、原油など資源価格の高騰が長
引き、国際協調による「戦略備蓄放出」にも拘わらず、原油価格はまた上
昇しています。
しかも半導体などの供給不足も長期化し、いまだに解消の目途はたってい
ません。
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身 辺 雑 記
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10日の東京湾岸は快晴。
渡部亮次郎わたなべりょうじろう85歳。
元NHK政治部記者。当時「文芸春秋」に「赤坂太郎」で
政治評論を書いた。1字10円だった。
仙台、盛岡局勤務の後、東京の政治部へ。河野一郎を
担当。河野先生は酒 を一滴も飲めなかった。毎夜、赤坂の料亭に立ち
寄っていたが、お膳を前にお茶を飲んでいたとは。呑み助の私には想像も
できない。
外務大臣秘書官。その後、社団法人の理事長を18年間。
現在は年金生活者。メルマガ「頂門の一針」主宰者。
秋田県生まれ1936年1月13日。どこといって故障個所は無いから100位まで
は生きるだろう。このメルマガの届かなくなった日が私の死亡日です。
兄は81で、姉は91で死んだ。遺伝の話をすれば、 父親は60台に死んだが
母親は98まで生きた。
渡部 亮次郎