2007年09月11日

◆多数者革命って何

                         渡部亮次郎

少数が多数を制するから革命であって、世の中の多数を選挙で制すれば、それは民主主義の結果であって革命とは関係がない。それなのに日本共産党は「革命」という2文字を棄てられないらしい。悲しい性(さが)やねん。

NHK政治部では日本共産党も含む野党を1年だけ担当したことがあるが、マルクス・レーニン主義の空しさを大学時代にたっぷり経験していたから、共産党について正面から書いた記事は1本も無い。

当時既に上田兄弟(弟は不破哲三=ペンネームを名乗る)が次世代指導者として浮上していたが、何せ宮本顕治が主導権にしがみついて離さず、彼らはやきもきしていた。

NHKを辞めて外務・厚生の大臣秘書官を務めたりしたが、1982年には永田町と完全訣別、共産党も視野から消えた。その後、宮本が殺したリンチ査問事件の犠牲者は郷里秋田県の出身者である事、その縁で北朝鮮人歌手が小畑実を名乗った事などを知った。

その宮本が2007年7月18日、98歳、老衰で死に、評論家立花隆が文藝春秋9月号に「日共のドン 宮本顕治の闇」を執筆した。彼は田中角栄研究で論壇にデビューしたが、傍ら日本共産党の研究では立派な著書で実績を挙げている。

立花の今回の論文によると、例のリンチ査問事件は宮本による傷害致死事件と断定した1976年1月号の文藝春秋「日本共産党の研究」を発表した時、共産党は反証をかき集めるために、特別チームを編成した。

しかし、出てきた証拠は宮本の犯行を裏付けるものばかり。京都大学の法医学関係者は「当時よりもっと簡単明瞭に傷害致死だと鑑定できる」と断言した。とうとう反証を断念した。


<宮本は権力への執着が人並みはずれて強かった。入退院を繰り返すようになっても、病に倒れて4年目の97年に正式に第1線を退くまでは、共産党の実質的権力を握って離そうとしなかった。>(立花)

つまり宮本は1961(昭和36)年に「新綱領」を作り君臨した。1982年に不破哲三を幹部会委員長に昇格させたが、実際の権力は宮本が持ち続けたのだ。

<宮本の権力確立過程で、党中央に逆らう者は次々に除名乃至軌道修正(思想変更)させられるという事態が続いたため、共産党は誰も中央に逆らわず、中央の決定通りのことをオウム返しに語るだけの組織になってしまった>(立花)。

だから中央委員会も常任幹部会も上の報告を黙って聞くだけで議論するところではなくなっているという。誰も資本論や共産党宣言も読まない。「民青」は1970年代は20万人もいたが、今や1万人以下とか。

日本共産党の憲法たる綱領は、不破が権力を握った2004年の23回党大会で43年ぶりに改正された。

<この04年不破綱領は、宮本綱領或いはそれ以前の共産党綱領とは全く中身が違うもので、ここまできたら、もう共産党を名乗るのを止めた方がいいのでは無いかという声が出るほど内容が変わっている。(立花)

(1) いわゆる革命を目指す立場を棄てた。選挙によって議会で多数を獲得し政権を握る事を目指す。これを「多数者革命」と命名。普通の市民社会の政党になぜ「革命」をつけるのか。わからない。

(2) マルクス・レーニンの党を止めた。特にレーニンは暴力革命必然論など誤った理論によって社会主義理論をゆがめた張本人である。

(3) 共産主義社会の実現は不可能だから止める。私有財産は保証される。

(4) 「階級闘争」「資本主義の全般的危機」といった共産党の常套語は使わない。

(5) これまで廃止するとしてきた「天皇制」と「自衛隊」の存在を認める事にした。

それにも拘わらず、すべては党中央の言いなりになる「民主集中制」は残した。だから、それこそ自らの過去を全面否定する新綱領は反対1票ですんなり通ったそうだ。

<ヨーロッパの共産党がすべて棄てた民主集中制を棄てない限り本当の意味で共産党が21世紀型の新しい政治党派に生まれ変わる事はできない。・・・共産党リンチ事件についても、真実が自由に語れる日が来る事。そうでないと共産党が消滅する日のほうが早く来てしまうだろう>(立花)

党内の自由な言論を封殺しなければ成り立たない政党は、いくら綱領を形式的に変更しても、政党として市民社会には受け入れられるものではない。

自己矛盾というものは大学を出ても判らないものらしい。自民党はまだまだ不真面目でもいいらしいという事になってしまう。文中敬称略               2007・09・04
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