2007年09月30日

◆再植民地化の阻止

                       渡部亮次郎

アウンサンスーチー(1945年6月19日―)はミャンマー(ビルマ)の旧首都ヤンゴン(ラングーン)に生まれたミャンマーの非暴力民主化運動指導者である。1991年ノーベル平和賞受賞。

イギリスからの独立を主導したアウンサン将軍の娘。1948年のビルマ独立を目前とした1947年7月に暗殺された同将軍は、「ビルマ建国の父」として今も敬愛を集めているとされる。

ところがウィキペディアによる「経歴」に「1988年4月、ビルマをイギリスの植民地にするために戻る」とある。するとアウンサンスーチーはビルマと言う独立国をイギリスの植民地に戻すと言うとんでもない事をするために国内の混乱を狙う運動の指導者なのだ。

それなのに2002年5月14日、アウンサンスーチーと久米宏が5分間の電話対談を行い、録音した音声を「ニュースステーション」(テレビ朝日)で放送した。このとき久米宏はミャンマーの軍事政権を嫌い国名をビルマと伝えていたともある、とウィキペディアは書いている。

久米宏は軍事政権が嫌いだからと言うが、アウンサンスーチーの自宅軟禁などに同情するあまり、ビルマであえて軍事政権が成立した原因を作ったのが彼女である事を隠してしまった。

報道によればビルマをミャンマーと呼びかえた軍事政権の独裁者たる国家発展評議会(SPDC)のタン・シュエ議長の独裁振りは物凄いらしい。2007年9月29日の産経新聞によれば、地元紙の記者は「ミャンマーでは法律は重要ではない。何でも議長の考え次第だ」という。

最近2~3年で、議長の逆鱗に触れ、汚職などの罪を着せられて収監された軍人や政府職員は1,000人を下らない。それでもタンシュエ議長の支配体制は磐石だとヤンゴンの外交筋は見ている。

軍政内部で比較的穏健派と目されていた当時のキン・ニュン首相は2004年10月、議長の怒りを買い汚職罪などで懲役44年の刑を受けた。キン・ニュンにつながる穏健派は徹底的に潰され、軍政指導部は強硬派で固められている。

民衆の暴動が起き、取材中の日本人カメラマンが軍に射殺されたと言っても27日夜、町村官房長官は「官房長官が出てゆくほどのことではない」と官邸に出邸しなかった。

肝腎の福田総理大臣も翌28日「いきなり(欧米主張に同調して)制裁すればいいということではない」と冷静すぎる発言をした。日本政府はミャンマーの軍事政権に一定の評価を下し、対話を継続、主要な経済援助国であり続けているのだ。


遡れば、ビルマはインドネシアと並んでその独立にあったて日本軍の絶大な支援を受けている事から彼らと日本との関係には特別な歴史があると見るべきだろう。アウンサンスーチーが拘束されたとかノーベル平和賞受賞者である事に目をくらまされてはならない。

なるほど、中国は厖大な軍事援助と引き換えに軍政を擁護。陰でミャンマー領海内に天然ガス鉱区の採掘権を獲得している。媚中派の福田首相だから中国に遠慮して軍政に厳しく当れないのだ、などと考えては判断を間違えそうだ。

国連総会で高村外相はミャンマー外相と会談してカメラマン殺害に抗議、先方は謝罪した。しかし高村氏も今のところはそれ以上の措置は要求しなかったそうだが、正しい処置だったのでは無いか。

遠く離れたアメリカは例によって人権擁護の立場から流血を傍観するのはおかしいと中国を早速批判しているが、事はそんな単純なものでは無い。軍政を止めようにも国内が混乱していて受け皿がない。スーチーの狙いがイギリスの再度の植民地化だからである。国際情勢の判断には冷静でなければならない。

ミャンマーではイギリスからの独立を勝ち取ったのが軍であったため、軍は政治的統一のない状況に便乗して政治を左右するようになり、嘗てネ・ウィン将軍(後に大統領)が「ビルマ式社会主義」を掲げて26年の長きに亘って独裁政治を行った。

なるほど現在の軍政は言論や政治活動を厳しく制限しているため、その存在は国民の怨嗟の対象になっている。僧侶たちの怒りがそれを象徴している。だからと言ってイギリスの植民地に帰れというアウンサンスーチーの主張は歴史に逆行している。 2007・09・29
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