2007年11月02日

◆銀シャリの時代

                   渡部亮次郎

<銀舎利(「しゃり」は俗に米粒の意)白米の飯。1940年代、わが国の食糧不足の時代の語。>(広辞苑)。そのコメ不足を象徴する食糧管理法がやっとなくなったのが11月1日。1995年のことだった。

食糧管理制度は、日本における主食である米や麦などの食糧の価格や供給等を国が管理する制度をいう。

食糧管理法は戦時中の1942(昭和17)年、東條内閣の時に制定された。内容は、食糧の生産・流通・消費に亘って政府が介入して管理するというものであり、目的は食糧の需給と価格の安定である。

この食糧管理法(いわゆる食管法)に基づき創設されたのが食糧管理制度。食糧管理法は53年後の1995年に廃止され、代わりにいわゆる食糧法が制定されたことを受け、食糧管理制度の呼称も食糧制度と改められた。

また、2004年にはその食糧法に大幅な改正がなされるなど、制度の内容は時代と共に大きく変化してきている。

食糧管理法では、米は生産者(農家)から国が買い上げてそれを売って行くことを基本としていた。米の流通に関しても実に厳しい決まりがあり、取扱いが出来るのは、国の指定や県の許可を受けた一部の人間に限られていた。

これに代わって平成7年からスタートした食糧法では、国が買い上げるのではなく、農家や流通業者の人たちがもっと自由に米を売って行くことができるようになった。

米の流通に関する決まりも緩められ、誰でも一定の条件を満たせば米を取り扱うことができるようになっている。コメは53年の長きに亘って国民を縛っていたのである。

食糧管理法が制定された1942年とは、米英との戦争を始めた翌年というよりも、41年の12月8日に開戦したのだから、法制定は開戦とほぼ同時と言ってよい。

私は小学校(国民学校)に入ったばかりの子供だったから、実情を全く記憶していない。いずれ学校へ弁当を持って行けない状態ではなかった(当時、学校給食は制度として無かった)。戦況の悪化と足並みを揃えて各地で食糧が不足し、農家の我が家でもメシに麦は勿論、脂肪を絞ったあとの豆滓を混ぜて炊くようになった。

こんなものを食べなければ戦争に勝てないのかなぁなどと考えているうち、1945年8月15日、遂に降参(ギブアップという英語は子供は誰も知らなかった。英語は「敵国後」として喋るも習うも禁止されていた)。

敗戦。田圃も敗戦していた。肥料欠乏のため地力ガタ落ち。頻発する水害。伴う病虫害に対して抑える農薬皆無。当然、全国どこでも凶作。食糧統制についての警察の目は一層厳しくなった。

農家も生産量のすべてを「供出」を命令され、縁の下とか藁山の中に隠匿した者は警察にしょっ引かれた。又、秋田市あたりからコメを買出しに来る人も多かった。しかし買った人を警察が追いかける。
背負っておもいから必ずとっ捕まる。可哀想だった。

<昭和22年10月11日東京地方裁判所の経済統制担当・山口良忠判事(当時34歳)が、ヤミ食糧を拒絶して餓死した。死後20日余り経った111月4日、朝日新聞が「食糧不足が生んだ英雄」とスクープ記事を掲載した。

内容は「今こそ、判検事は法の威信に徹しなければならぬと、ギリギリの薄給から一切のヤミ(食糧)を拒否して配給生活を守った」と書かれていた。

終戦から2年を経た昭和22年頃は、未だに食糧難で国民全体が餓えていた。このため、国からの配給では満足に食べられず、都会の人達は東京近郊や郊外の農家に食糧を買出しに押しかけていた。

これに対して政府は米、味噌、醤油、酒など殆どの食糧は「食糧統制法」の下、徹底的な管理をしていた。折角、農家から米(ヤミ米)を入手しても、列車や道路で警察官に発見されると没収される時代であった。

そのような時代背景にあって、山口判事は「自らヤミ食糧を取り締まる立場であり、自分がヤミ食糧を購入し食することは許されることではない」と一切のヤミ食糧を拒否したのだった。>(「事件史探求」)

あらゆる生活物資が闇屋、ブローカー、闇市で流通した昭和20年代。米どころ東北からは1人で何十キロもの白米を持ち夜行列車で都内に持ち込む担ぎ屋という商売もあった。上野の手前の赤羽で一斉検束に遭うという不運もしばしばだったらしい。

1954(昭和29年春、大学に入った。コメは未だ配給。農家の子供だから、自己消費分1年間白米60キロを役場の証明書付で持参。どういうわけか遠縁の伯母に騙し取られて1粒も口に入らず。半年で10キロも痩せた。

都会でコメの飯のことを「銀しゃり」と言って渇望したのは1960年ぐらいまで。やがて所得倍増、高度経済成長と共にコメへの飢餓感は薄れ、ハンバーガー、ピザのほうが若者には好かれるようになって行く。

1993年(平成5年)に起こった全国的な冷害の影響で同年後半から翌1994年にかけて日本国内の米が著しい供給不足(「コメ不足」)となり、価格の暴騰・外国産米の緊急輸入などが起きて食糧管理制度の脆弱性に対する非難が増加した。

このため、政府による管理を強化する一方、農家でも米を直接販売できるようにするなど、政府はそれまでの方針と異なる方向への運用改善を余儀なくされた。この政府の管理は食管法が廃止される直前の1995年10月まで続けられた。

1995年(平成7年)、米の市場開放で、アメリカから米を輸入するようになる(ミニマム・アクセス)。しかし、その米は日本の国内消費でなく他国への援助の用途にだけ振り分けられた。

この2つの出来事は、結果として食糧管理法の廃止・食糧法の制定という大制度改革の要因となった。

1994年(平成6年)12月14日、主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律(いわゆる食糧法)が公布、一部の条項を除き翌1995年11月1日に施行され、これに伴い食糧管理法は廃止となった。

また、制度の呼称としての「食糧管理制度」も内容の変更に沿って「食糧制度」に改められた。ただし、食糧管理特別会計・食糧管理勘定など、一部の用語には「管理」の文字が残った。

食糧法の施行により、農家が自由に米などの作物を販売出来るようになった。これはその後の米輸入解禁に備え、あらかじめ自由に米を流通させることで日本国内の農家の競争力・対応力の向上を目指したものである。一方で、政府による管理は緩和されることとなった。


1970年代に食生活の変化の影響で米が余るようになり、備蓄米が年間生産相当量まで達する事態も生じた。このため政府が主導して減反政策を推進してきたが、2004年に方針を転換し同政策をやめることとなった。

食糧法を大幅に改正する主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律等の一部を改正する法律が2004年(平成16年)4月1日に施行された。

これは従来からの農業従事者に限らず誰でも自由に米を販売したり流通させることが出来るようになるなど、1995年の食管法廃止・食糧法制定に匹敵するような制度改革が実施された。
出典:フリー百科「ウィキペディア」2007・11・
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