2007年11月21日

◆玉砕とは将兵全滅のこと

                    渡部亮次郎

<「拉孟(ラモウ)に散った花 平井修一」(「頂門の一針」998 2007・11・16)をぜひ読んで頂きたい。平井氏はこの物語を聞いて涙腺が弛んだと
書いているが、私も同じ思いだ。

この話とは別だが、満州の新京でソ連軍の捕虜となった従軍看護婦の壮烈な最期を読んだことがある。ソ連軍は赤十字のマークがついた野戦病院にやってきて、ソ連軍の負傷兵の傷の手当てのために看護婦の応援を欲しいと言ってきた。

婦長が何人か選抜して応援隊を出したのだが、1ヶ月たっても帰らない。
そこでソ連側の野戦病院に行ったら、日本人看護婦はソ連の慰安婦にさ
れていた。

その人たちに会って帰るように説得したら「私たちは全員が性病をうつ
されている。ここにとどまって、1人でも多くのソ連兵に性病をうつす
のが最期のご奉公」と悲壮な覚悟を示したという。結局、全員が帰国せ
ず、中には自決した看護婦もいた。

説得に当たった婦長は泣く泣く最後の帰国船で舞鶴に上陸したが、死ぬ
まで殉国看護婦のことを講演で語って回り、慰霊碑を建てたという悲話
がある。

シベリアに抑留された関東軍にまつわる悲話は数多くある。だが新京の
野戦病院の悲話ほど心を打った話はない。

樺太(サハリン)でも電話交換手たちの悲壮な最期が伝えられている。
こういう話はGHQによる占領下では、好戦的軍国主義としてMPによ
る検閲で報道することが許されなかった。

沖縄戦では内地から防衛に赴いた日本軍が数多く玉砕している。この遺
族たちの悲しみは、沖縄県民の犠牲の蔭に隠れてほとんど伝えられてい
ない。むしろ攻撃した側の米軍は救世主の扱いを受けた時期がある。

沖縄占領の間に刷り込まれた反内地感情が為せる技といえよう。戦争を
憎む気持は同じだが、沖縄戦で戦死した内地人の気持ちも思いやる県民
の心が育つのは永遠にこない気がする。 古沢 襄>(「頂門の一針」
999号 2007.11.17)

玉砕(ぎょくさい)は、太平洋戦争(大東亜戦争、第2次世界大戦)に
おいて、外地で日本軍守備隊が全滅した場合、大本営発表でしばしば用
いられた語である。近代戦において、外国軍に玉砕は無い。

大東亜戦争の中で最初に使われたのは、1943(昭和18)5月29日、アリュー
シャン列島アッツ島の日本軍守備隊約2600名が全滅した時である。

「全滅」という言葉が国民に与える動揺を少しでも軽くし“玉の如くに
清く砕け散った”と印象付けようと、大本営によって生み出された、い
わゆる言い換えである。誤魔化しである。

「大本営発表。アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に
寡兵よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部
隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて
壮烈なる攻撃を敢行せり。

爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参
加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。」

主な玉砕戦 1943年5月29日アッツ島守備隊玉砕 日本軍 戦死者 2638
名、生還者27名。米軍 上陸11,00名中 戦死者 600名、戦傷者 1,200


1943年11月22日 ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊玉砕 1944年2
月5日 マーシャル諸島クェゼリン環礁守備隊玉砕 1944年2月23日 マー
シャル諸島ブラウン環礁守備隊玉砕 1944年7月3日 ビアク島守備隊玉砕


1944年7月7日 サイパン島守備隊玉砕 7月6日、第43師団長・斉藤義
次陸軍中将、中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一海軍中将、海軍第
五特別根拠地隊・辻村海軍少将ほかの司令部は「自決」。

翌7日、約3,000名の日本軍は、最後の「万歳突撃」を敢行して玉砕して
果てた。9日、北部のマッピ岬に避難してきた多数の民間人は、断崖か
ら身を躍らせ自決した。


1944年8月3日 テニアン島守備隊玉砕 1944年8月11日 グァム守備隊玉砕

1944年9月7 :拉孟(らもう)守備隊玉砕 1944年9月13日 騰越守備隊玉砕  

9月7日、軍旗奉焼、残兵50名が突撃玉砕守備隊には20名の慰安婦いたが、金光隊長は民間人を犠牲にしてはならないとして彼女らに投降を命じ、5名の朝鮮人慰安婦が投降し助かった。

しかし日本人慰安婦はみな残り、炊事・看護・弾薬運びを手伝い、一心
同体の働きをした後、全員が戦死した。このうちの1人は金光隊長の許
可を得て、一兵士と結婚したと伝えられている。

9月8日、拉孟を攻略した中国栄誉第1師団・李密師長の訓示「私は軍人
としてこのような勇敢な相手と戦うことができて幸福であった。この地
を守った日本軍将兵は精魂を尽くした。恐らく世界のどこにもこれだけ
雄々しく、美しく戦った軍隊はないだろう。

(中略)この将兵たちの祖父や父は、国父孫文先生を励まし、民国の革命
達成に力を貸してくれた。その恩人と戦い、血を流すことは、何と愚か
なことであろうか。

(中略)拉孟における日本軍将兵の最後の姿を私は蒋総統に伝える。我々
はこれから、日本軍戦死者を丁寧に葬らねばならない」

9月9日、蒋介石の騰越攻撃部隊への訓令「(前略)騰越は9月18日の国恥記念日までに奪回せよ。(中略)我が軍将校以下は、日本軍拉孟守備隊、あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘、最後の一兵に至るまで、命令を全うしあるを範とせよ。」

9月11日、騰越守備隊発電「守備隊本部前80メートルにおいて激戦中。
軍旗は0900涙とともに奉焼せり(後略)

9月12日、騰越守備隊午前6時発電「現状からすると1週間以内の持久は困難なので、状況によっては13日の連隊長の命日に最後の突撃を敢行して、怒河作戦以来の鬱憤を晴らし武人の最後を飾ろうとしています(後略)」

9月13日太田大尉以下70名、突撃を敢行 9月14日、騰越攻撃軍発電「本9月 14日、騰越における日本軍の抵抗は全て終了せり」 1944年9月19日 アンガウル島守備隊玉砕

1944年11月24日 ペリリュー島守備隊玉砕

1945年3月17日 硫黄島守備隊玉砕 地下壕に充満した飢えと乾き、玉砕
の美名に隠れた現実。21,000人のうち、生還したのはわずか1,000人だった。

1945年6月23日 沖縄守備隊玉砕(指揮官の自決により組織的戦闘終
了)

玉砕の出典は『北斉書』元景安伝の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(立派な男子は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」。

また明治維新の頃、藩閥政府が天皇を「玉(ぎょく)」と呼ぶようにな
ったが、それによって天皇のイメージに威厳や崇高さ、潔さなどが付け
加えられるという効果があった。

そのため明治以来、「『玉砕』とは、天皇のために潔く死ぬことです」
(山科三郎、「『特攻』と『玉砕』について考える」、「部落」54(3)、2002年3月、60頁)というイメージが発生する。

その態度表明を表す用例には例えば、西郷隆盛による次の詩がある。幾
歴辛酸志始堅 幾たびか辛酸をへて志はじめて堅し、丈夫玉砕恥甎全 丈
夫は玉砕するも瓦全を愧ず。

また、明治19年発表の軍歌「敵は幾万」(山田美妙斎作詞・小山作之助
作曲)にも敗れて逃ぐるは国の恥 進みて死ぬるは身のほまれ瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや畳の上にて死ぬ事は 武士のなすべき道ならずと歌われている。

同義に使われた語に散華(さんげ)がある。主として特攻の結果の戦死
に用いられた。 対義語は、瓦全(がぜん)である。 なお、玉砕が瓦全
より高いとする価値判断は普遍的なものではない。

沖縄における「命どぅ宝」(ぬちどぅたから 命こそが宝、諺「命あっての物種」「死んで花実が咲くものか」と同義)という言葉は瓦全的態度を意味すると考えられる。

玉砕は、本来国家間の利害衝突である戦争の一部にロマンチシズムを持
ち込んだ行為であり、軍事的行動の合理性からは説明できない。たとえ
ば戦争のプロである民間軍事会社の傭兵は決して玉砕などしない。

「玉砕するべきではない」という判断は現代の軍隊において普遍的な概
念といえる。

もちろん死をも恐れないという価値判断は軍隊である以上存在するが、
撤退不能となった部隊の兵員に降伏を認めないとするのは、現代の軍隊
では「無駄に命を散らすという不合理な価値判断」として受け入れられ
ないと予想され、無意味な自軍の戦力低下をもたらすだけだからである。

また民主主義国における自軍兵士の不合理な死は士気低下や厭戦ムード
につながり、政権の危機にもなるため、政治指導者もこのような行為を
あまり歓迎しない。

しかし、昭和期の旧日本軍には「名誉の戦死」に対する暗喩として「虜
囚の辱め」についての認識が広く浸透し、部隊行動としても、個人行動
としても降伏はいかなる場合でも許されないとする雰囲気が醸成されて
いた(のちに戦陣訓として明文化される)。

したがって、一部の兵を残して指揮官を失い部隊が全滅した場合でも、
残された兵に許されるのは後退して再起を図る(攻撃再興)か、絶望的
な抗戦を行うかであった。

このような認識を共有する軍隊において、兵の後送手段の無い島嶼や遠
隔地での戦いに敗れた場合、敗残兵に軍事的判断として降伏の選択肢は
無いため、補給の途絶した現地部隊と軍中央との暗黙の了解として敵陣
地への勝算無き突撃が常態化したのが大東亜戦争末期の日本軍の玉砕で
あった。

こうした最後の一兵まで戦う姿勢は当時の陣地浸透戦術に対しては粘り
強い抵抗力として軍事的貢献も認められ、装備が貧弱で士気の低い中国
軍に対しては数的優位を覆した。

米軍の陣地強襲に対しては昼間の戦闘で失った陣地を米軍が掃討できな
い場合に夜襲により奪回する際に残置された兵による支援につながった
りよい面もあると言える。

しかし装備に優れたアメリカ軍を相手にするフィリピンや島嶼部での絶
望的抗戦の果ての玉砕行動は単に敵の掃討戦の手助けになるばかりで軍
事的判断としての合理性があったかは疑わしいといえる(太平洋戦線で
の島嶼戦玉砕の戦訓から、1945年2月の硫黄島の戦いでは、ついに玉砕戦
の否定とゲリラ戦の指示がなされることになる)。

仮に戦闘において自軍が敗北した場合、玉砕によって全員が死ねば敵軍
は簡単な死体処理をすればそれでおしまいである。

しかし降伏して捕虜が大量に発生すれば、敵軍は捕虜の尋問、後送、収
容等に多大な人員及び物資を割かざるを得ず、厄介なことになり、捕虜
収容所においても脱走や騒ぎを起こせば、より一層敵軍を消耗させるこ
とにもなる。

冷酷な損得勘定から言っても、むざむざ死を選ぶよりも捕虜になるほう
が敵の負担になるから、戦略的に見て玉砕は非合理的な行動であるとも
言える(但し、日本軍によるバターン死の行進やソ連軍による日本兵の
シベリア抑留など、敵が捕虜を虐待するような場合もあり、単純に損得
は論じるのは困難ともいえる)。

日本軍における玉砕においては、テニアンの戦いなどに見られるように、刹那的な自殺的攻撃や自決を伴うこともあり、長期的な抵抗と結びつかなかったことも軍事的評価を下げている。

また玉砕と伝えられる戦闘でも、実際には相手側に虐殺された例もいく
つか指摘されている。

玉砕による戦死者が正確に算出されていない。

大戦後期、連合国軍が日本本土に迫ると、軍部は「本土決戦」の準備を
開始するとともに、“日本の全国民1億の全てが軍民一体となって玉砕する事で連合国軍は恐怖を感じて撤退するだろうし、たとえ全滅したとしても日本民族の美名は永遠に歴史に残るだろう”と主張し国民の士気を鼓舞し総力戦体制の維持を試みた。

しかし1945年8月に入ると原子爆弾の投下やソ連対日参戦など、軍部の思惑を裏切る事態が次々に発生し、遂に日本はポツダム宣言を受諾して降伏をしたため、本土決戦は行われることは無かった」

資料:「ウィキペディア」2007・11・17

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