2007年11月26日

◆金大中講演は1000万円

渡部亮次郎

1954年国会議員に初挑戦するも落選。張勉に引き立てられ、民主党スポ
ークスマンを務める。以降も、当時の李承晩大統領の政策に反対する姿
勢で活動したが、1959年、1960年と立て続けに落選を経験した。

1961年に国会議員へ初当選しているが朴正煕による軍事クーデターによ
り無効となっている。これで朴正煕大統領への怨嗟の念を深くした。朴正煕による10月維新の後は日米両国に滞在しながら民主化運動に取り
組んだ。

1972年から73年にかけて、主として日本で反朴正煕政権反対の言論活動
を展開、朝日新聞が後押ししていた。

その頃私は在日韓国大使館の公使を名乗る金在権と接触する機会があっ
た。「金大中の反政府活動をこのまま放置するのですか」と聞いたのに
対して、彼は薄笑いを浮かべながら呟くように答えた。

「そのうち、なんとかなりますよ」1973年8月8日、東京に滞在中、ホテ
ルグランドパレスで謀殺を意図した韓国中央情報部によって拉致され、
ソウルで軟禁状態に置かれた(金大中事件)。

相手が誰であれ、日本から滞在者を外国勢力が拉致するというのは完全
な日本の主権侵害事件である。ところが当時、首相だった田中角栄氏に
は残念ながら主権侵害などという小難しい事はわからなかった。

日本担当大臣が目白の私邸に両手に下げてきた現金を受け取って事件を
「解決」してしまった。李秉嬉というのが日本担当大臣。

私は何度も会い酒を呑んだ事もある。晩年は癌を患いさびしく死んだ。

金は1976年3月には尹ふ善らと共に「民主救国宣言」を発表、逮捕され懲
役判決を受けるも、1978年3月に釈放される。1980年2月19日には公民権
を回復・政治活動を再開するが、5月18日に再び逮捕。

これが原因となって光州で起きた民主化要求のデモを軍部が鎮圧し、流
血の惨事となる(光州事件)。このため軍法会議で首謀者として死刑判
決を受ける。

このことに対して、当時の鈴木善幸首相は、11月21日に崔慶禄駐日大使
と会談し「日韓親善からみて,金大中の身柄に重大な関心と憂慮の意を
抱かざるを得ない」と発言し、その旨を全斗煥大統領に伝達するよう要
請した。

この事を受け、朝鮮日報は11月25日付の紙面で、鈴木発言を「内政干渉
である」と批判した。しかし、次第に死刑判決に対する国際的な批判が
強まり、1982年1月23日に閣議検定により無期懲役に減刑される事が決定
し、12月23日に米国への出国を条件に刑の執行を停止される。

1985年2月8日に亡命先の米国からの帰国を強行し軟禁状態に置かれたが、
1987年には再び公民権を回復、大統領選挙で盧泰愚に挑むものの、金泳
三と分立したことが文民勢力の分裂を招き敗北。

1992年にも再び金泳三、鄭周永らを相手に大統領選を戦うも敗北。これ
をもって金大中は政界引退を表明した。その後研究生活に入り、論文を
書く日々を送っていたが、次回大統領選挙に向け動向に注目が集まって
いた1995年、新政治国民会議を結成し総裁に就任。政界復帰した。

1997年の大統領選挙では与党ハンナラ党の李会昌、ハンナラ党内での予
備選に敗退した李仁済を相手に戦った。与党の強力な集票力に当選を危
ぶまれたが、保守派であり朴正煕の片腕だった金鍾泌と手を結び(いわ
ゆるDJP連合。

ちなみに両氏は共に金海金氏である)、また度重なる敗北を逆手に取り
「準備された大統領」をキャッチフレーズに戦い、アジア通貨危機への
対応能力をアピールした。

結果、自らの地盤である全羅道地域で圧倒的な支持を得、金鐘泌の地盤
である忠清道地域、浮動票の多い首都圏での支持を得ることに成功した。
また、李仁済の立候補により保守票が割れたことにも助けられ、当選し
た。

大統領に就任したのはアジア通貨危機の直後であり、経済的な危機はつ
づいていた。

金大中政権は引き続きIMFの介入を全面的に受け入れたうえで、経済改革
に着手した。IT産業奨励やビッグディール政策(財閥間の事業交換、統
廃合)をもって経済建て直しを図った。危機を脱した韓国は内外から
「IT先進国」と呼ばれるようになり、サムスン電子や現代自動車の世界
市場での地位を高めた。

しかし、急激な産業構造の転換は貧富の格差の増大などを招いた。その
ため、医療保険や年金など福祉政策の拡充にも重点を置いた。

北朝鮮に対しては太陽政策と称される宥和・関与政策を志向した。2000
年に、北朝鮮の平壌で金正日との南北首脳会談が実現。南北首脳会談な
どが評価されノーベル平和賞を受賞した。

しかし金大中は南北首脳会談の直前に現代グループが北朝鮮へ5億ドルを
違法に送金をするのを容認した。現代グループはこれにより北朝鮮にお
ける事業の権利を得た。

このため首脳会談は送金の見返りだったという見方があり、ノーベル賞
受賞に疑問をなげかけた。

<それでも81歳になった彼は2007年10月末、京都の立命館大学で在日韓
国人教授に招かれて講演し、謝礼1,000万円を受け取っていった(週刊新
潮2007・11・15号)。内容に目新しいものは何も無かったそうだ。>
「頂門の一針」2004号(2007・11・21)

金大中に対しては、野党時代の民主化の闘士としての活動に高い評価が
ある反面、政権時代のポピュリズム・地域偏重主義には批判もある。

大統領になるまでの自宅軟禁、投獄期間は約10年に及ぶ。金大中大統領
は死刑判決を受けた北朝鮮の元工作員の辛光洙(シングァンス)容疑者
を恩赦で釈放した。 日本の新聞は、朝日新聞を読んでいる。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007・11・21


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