2007年12月28日

◆改めてトウ(!))小平強靭

                   渡部亮次郎

名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば小瓶と
渾名されている。また、唐辛子風味のナポレオン(身長150センチと小柄
ながら頭の回転が速く眼光人を刺す如く鋭かった)とも。

トウ蝟子(ハリネズミのトウ)・トウ矮子(チビのトウ)と呼ばれたり
もした。毛沢東はトウ小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。

トウ小平氏を初めて見たのは1978年8月10日午後5時半(北京時間)北京
の人民大会堂でであった。日本政府が6年越しの「宿題」としてきた日中
平和友好条約の締結を「悲願」とする園田直外務大臣の秘書官として対
面したのである。

それは政治家園田直の政治生命にかかわる問題だった。世間は官房長官
から外務大臣に「出世」と考えたが事実は「追放」だった。岸信介氏の
策謀だった。だからせめて「宿題」の解決ぐらいしないことには「示し」
がつかなかったのだ。

我々は2日前の8日(火)夕方、日航特別機で北京空港に着いた。それまで
雨が降っていたらしく、出迎えてくれた黄華外相が「あなたは恵みの雨
を持って来てくれました」と歓迎の言葉を述べた。

対して園田外相は「中国では雨降って地流れるというかもしれないが日
本では雨降って地固まるといいます」と切返したことを覚えている。

簡単にいえば、生涯3度目の「復活」をトウ氏が遂げた前年夏から中国政
府は何が何でも日中平和友好条約を締結するよう、方針を転換していた。
この時点では日本の資本と技術に頼るしかなく、条約締結を急ぐ事が急
務になっていた。それを日本大使館が知らなかった。

それを後になって事務方は知っていたように言い、「園田大臣は北京に
は遊びに来たようなものだ(伴公使=当時)と10年後に喋っているが、そう
なら予め確認して大臣に報告するのが公務員の責務では無いか。

それが出来ないから代議士に何度立っても当選できなくて、あたら秀才、
尾羽打ち枯らした末に非業の死を遂げる事になるのだ。

ところで、その後トウ(!))氏は1978年10月、日中平和友好条約締結を
記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談
した。

昭和天皇とはできるだけ対等に対応しようと威張っているように見えた
が、会談を終えたら、すっかり敬服したような態度となり、天皇陛下の
後を歩くようになったことを覚えている。

その後、京都・奈良を歴訪した。日本経済発展の象徴たる新幹線を初体
験。「鞭で追い立てられているようだ」と感想を述べた。中国近代化の
必要性を実感したのではないか。

日産から贈与申し出のあった高級車プレジデント。断るかと思ったら二
つ返事で受け取った。帰国後、分解したかも知れない。コマツにトラク
ターの注文が舞い込んだ、しめたと思ったら4台限り。分解してコピーを
作るためだったという実例がある。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「3中全会」(中国共産党
第11期中央委員会第3回全体会議)において、文革路線から改革開放路
線への歴史的な政策転換を図る。これで毛沢東(既に死去)を超えた。

またこの会議で事実上、中国共産党の実権を掌握した。この会議の決議
内容が発表された時、全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残って
いる。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教
条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実
権を完全に握った。

(華国鋒を騙して3度目の復活をしたのだ)。だが、人民大会堂では華国
鋒の手下のように振舞っていた。大変なズルシャモンであったのだ。


その後は若手の胡耀邦らを前面に立て、国共内戦などから党に在籍し
「革命第1世代」と呼ばれる老幹部達を自らと共に中国共産党中央顧問
委員会へ移して政策決定の第1線から離すなどの措置を執った。

ただし、トウ小平は自らは決して序列1位ではなかったが、死去するま
で実質的には中華人民共和国の最高実力者であった。しかし党中央軍事
委員会主席となって軍部を掌握、1987年に党中央委員を退き表向きはヒ
ラの党員となっても2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽が明らかにしたところではこの際に中央委員会で「以後も重
要な問題にはトウ小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。天
安門事件後には一切の役職を退くが以後もカリスマ的な影響力を持った。

トウ小平はもともとフランス留学中の1922年に中国少年共産党に入党し、
機関誌の作成を担当。「ガリ版博士」とあだ名され好評を博す。1926年
モスクワに渡り、東方大学・中山大学で共産主義を学ぶ。

1927年帰国し、ゲリラ活動を開始。紅7軍を政治委員として指揮するが、
冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。

1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソ
ヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。しかしコミンテルンの指令に忠
実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視
する毛沢東路線に従うトウ小平を失脚させる(1回目)。

1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰、長征に参加し八路軍129師政
治委員となる。この後華北方面での抗日ゲリラ戦や、1946年以降に国民
党と戦った国共内戦で行われた淮海戦役・揚子江渡河作戦などで大きな
戦果を収める。中華人民共和国の独立後も西南部の解放戦を指導し、解
放地域の復興に努める。

1952年毛沢東により政務院常務副総理に任命され、そのほか運輸・財務
の大臣級のポストを兼任する。その後昇進を続け、1956年には中央委員
会総書記に選ばれて党内序列第6位になっている。

しかし!)小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼と
の対立を深めていく。

大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第1線を退いた後、共産
党総書記となっていた!)小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直
しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がと
られ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と
捉えた。

その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」
と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さら
に翌年江西省南昌に追放される(2回目)。

そこでは政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従
事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を
遂げるが、!)小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な
抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。

1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の
周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって再び失
脚(3回目)、広州の軍閥許世友に庇護され生き延びる。

同年毛沢東が死去すると後継者の華国鋒を支持した(ふりをして)職務復
帰を希望し、江青(毛沢東夫人)ら4人組の逮捕後1977年に3度目の復権
を果たす。

深センに建つ!)小平像政治面では社会主義と中国共産党の指導性を強調
し、経済面では生産力主義に基づく柔軟な経済政策がトウ小平の基本姿
勢である。

また、公職から退き、表面的には引退しつつ影響力を維持していた1992
年1月-2月(春節)には深センや上海などを視察し、南巡講話を発表した。
経済発展の重要性を主張した。

ソビエト連邦の解体などを例にして経済改革は和平演変による共産党支
配体制の崩壊につながると主張する党内保守派を厳しく批判したこの講
話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を
推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な
経済発展を進めることになった。

トウ小平の行った代表的な経済政策として、「改革・開放」政策の一環
である経済特区の設置がある。

外資の導入を一部地域に限り許可・促進することにより経済成長を目指
すこの政策は大きな成果を収めた。生産力の増大を第一に考える彼の政
策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という「白
猫黒猫論」に表れている。

また1984年12月には、イギリスのマーガレット・サッチャー首相との間
に「1国2制度」構想の下に、イギリスの植民地であった香港の返還に
関する合意文書に調印している。

トウ小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、
1989年には天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。

この事件については初め学生運動に理解を示していた趙紫陽総書記ら指
導部に対して、軍部を掌握していたトウ小平が一貫して強硬路線を指示
し最終的に武力弾圧を決断したといわれる。事件後、トウ小平は趙紫陽
の解任を決定した上で江沢民を総書記へ抜擢した。

フランス留学の経験もあり、ワインとチーズが大好物でヨーロッパ文化
への嫌悪感を持たなかった彼は、いくつかの趣味を持っていた。

特に有名なのはコントラクトブリッジであった。政府や共産党の公職か
ら退いた後も、中華人民共和国ブリッジ協会の名誉主席を務め、国際的
にも有名となった。

また、サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、
ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたと言われている。

彼の言葉として「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」
という「白猫黒猫論」が有名であるが、これは実は郷里四川省の古くか
らの諺である。

実際に彼が言ったのは「白い猫」ではなく「黄色い猫」だとする説もあ
る。 最もトウが好んだ言葉であり、毛沢東がトウを弾劾する際に弾劾理
由の1つとしている。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わな
くてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後
の三中全会決議に通じるものであった。

また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中
華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際
には「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。

実子である!)樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、投身
自殺を図り(紅衛兵に取り調べられている最中に窓から「転落」。紅衛
兵により突き落とされたとする説もある)。

事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷
害や殺人は夥しい数に上り、トウ小平自身も暴行を受けて脊髄を損傷し
身体障害者になった。トウ小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介
護をした。この経験からか、中国の障害者団体に関わっていたことがあ
る。

昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけてすまなかった」と謝罪
の言を聞いた時、電気ショックを受けたように立ちつくした。大使館に
帰って「今日はすごい経験をした。」と興奮気味に話した。

トウ小平は香港返還を見ることなく1997年2月19日に死去した。遺言は唯
物主義にのっとり、遺骸は角膜などを移植に寄付し、他の遺骸は解剖学
のために献体された。遺灰は親族と胡錦濤によって中華人民共和国の領
海に撒かれた。

中国中央電視台は彼の死をトップに報道し、江沢民は弔意を表し、天安
門には半旗が掲げられた。しかし、中華人民共和国各地の市民の生活は
平常どおり営まれていた。2007年には「没後10年」を迎えるが、特に記
念行事はされなかった。これは毛沢東が死んだとき盛大に国葬が営まれ
たのと対照をなす。参考資料:「ウィキペディア」  2007・10・24


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