2008年01月05日

◆農場の集団化は失敗する

                 渡部亮次郎

コルホーズとソフホーズ Kolkhoz:Sovkhoz 旧ソ連の社会主義的農場
の2つの形態。コルホーズは「集団的経営」、ソフホーズは「ソビエト的
経営」のロシア語の略称。

ロシア革命(1917年)によって古くからの地主的土地所有制度は解体され、
土地の国有が宣言された。スターリン時代の1920年代末期(1928年1月4日)
に農業の全面的集団化が強制的に実行された。

屋敷付属地、耕作に必要な生産用具、若干の家畜の私的所有は認めるも
のの耕地、家畜、農具の主要部分を共同化した協同組合的集団農場がつ
くられ、これが一般にコルホーズと呼ばれた。

コルホーズに参加した農民への分配は、個々人の労働の量と質に応じた
作業日単位で行われていたが、ブレジネフ時代に入ると、職種ごとのノ
ルマと賃金表に基づく貨幣支給に変わって行った。

これに対して、ソフホーズは「国営農場」と訳されることからもわかる
ように、原則的に生産手段のすべてが国有化されており、ここで働くの
は賃金の支払いをうける農業労働者であった。

ソフホーズはコルホーズと比較すると、数は少ないが、社会主義的農業
の模範とされたこともあって、大農場が多く、国家の保護を受けて機械
設備なども整っていた。

フルシチョフ時代以降、経営力の弱いコルホーズを強化し、さらにソフ
ホーズに転じる政策がとられたが、ソフホーズ自体の生産の集約化は後
れ生産性の向上もなく、やがてソ連の解体により市場経済が導入される
と両者ともに解体の道をたどった。(マイクロソフト「エンカルタ」参
照)。

この急速な集団化は多くの犠牲者を出したが、反抗者の排除によるソビ
エト体制の安定化につながり、開拓地などに設立されたソフホーズ(国
営農場)とともにソビエト農業の基本構造となった。

第2次世界大戦でソ連軍に占領され、ソ連型社会主義体制へ移行した東
ヨーロッパ諸国でも、ポーランド以外はこのコルホーズと同形態の集団
農場による農業の集団化を実行した。

一方、ソ連国内では徐々にコルホーズ生産の非効率性が認識され、自留
地における農作物の自由生産と市場での販売が承認されていった。

それでも2億人を超えるソ連国民の食糧は自給できず、コルホーズの生産
性向上は歴代の政権にとって難問であり続けた。人々は働いてもサボっ
ても同じならみんながサボるようになる。

園田直外相時代(1978年―1981年)、アメリカが映したウクライナの衛星
写真を見せられてことがある。それは前日に播種した広大な麦畑の写真
だった。

種麦をコルホーズの人たちが撒いた夜、強い風が吹き、タネは殆ど飛ば
されてしまった。だが人々は「ノルマは果たした」といわんばかりに、
再度の播種には応じない実態を示していた。

やがて収穫の秋が来る。麦の収穫量が極端に少ない。責任はどこにある
か。ノルマの監視を怠った農相が解雇されてお終い。集団農場では働い
ても働かなくても収入は変わらないというのでは、やがて共産主義はつ
ぶれると思ったものだが、間もなく現実になった。

1991年にソビエト連邦が解体され、農業集団化が否定されると、コルホ
ーズの存在意義が問われるようになった。

ソ連型社会主義からの脱却を指向するウクライナなどの各国ではコルホ
ーズが解体され、自営農民の復活に向けた動きが進んだ。

似たようなものに人民中国の人民公社がある。しかし1982年、憲法改正
により廃止された。それでも毛沢東が死んで6年間は形式上存在した。ト
ウの好きな合理性に1番反するのが人民公社だったと思われるが。

1972年9月、時の総理田中角栄氏が国交正常化交渉を目的に初訪中した際、
中国側は北京郊外の人民公社を一行に見学させた。出てきたものは彼ら
が作ったコンクリート製の手漕ぎ船だった。

ソヴィエトに見捨てられて「自力更生」を自らに言い聞かせるしかない
毛沢東。畑で木屑を燃やして製鉄しようとしたり、こうして鉄の足りな
さをコンクリートで補おうとしたり。やがて行き詰まる事必定と見た。

だから毛に苛められたトウ小平が完全復活して経済の開放改革を打ち出
さなければ中国は大変な窮乏に陥っていた事は確かである。

余談だが、経済の改革開放にとって共産党は邪魔である。資本主義経済
は必然的に「統制」を嫌うからである。それでも共産党は資本に立ちは
だかるから資本は袖の下を贈ることで「統制」を逃れようとする。「汚
職」が必然化する。

国家経済を「統制」しなければ、政治的に共産主義政権は成立しない。
従ってトウ小平が経済だけの改革開放に踏み切った時、人民が天安門広
場で政治的な「自由」を求めたのは「必然」であった。

当然、トウは気付いたが後の祭り。如何ともしがたい矛盾を封じるため
には砲火でねじ伏せるしかなかった。当面は抑えたが自分の死後、共産
主義は崩壊する。さすれば自らの墓は暴かれるという屈辱が待ち受けて
いる。だから遺骨の撒布を命じ、墓は作らせなかった。

墓を作らせなかった点では周恩来もそうだが、2人とも中華人民共和国
がいずれ崩壊し、自分の墓を暴かれるという認識では一致していた。だ
から毛沢東は2人にいつも嫉妬心を持っていた。2008・01・01


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