毎日新聞のコラムニスト岩見隆夫さんが2008年1月5日のコラm「近聞遠見」で書いている。
<・・・餅、すしはもとよりだが、食べ物は時間が勝負、早く食べるに越したことはない。政治も似たようなところがある。スピード感だ。拙速はまずいが、逡巡(しゅんじゅん)はもっとまずい。政界では、いまも、
「大国を治むるは、小鮮(しょうせん)を烹(に)るが若(ごと)し」
などという格言が使われるからややこしい。老子の言葉、大国を治めるのは、はらわたも骨もそのままの小魚(小鮮)をじっくり煮るようなもの、という意味だ。時間をかけ作為を弄(ろう)さずに、という賢人の教えである。
それも一面の道理だが、いまはテレビとインターネットの超高速伝達社会だ。じっくり、だけではすまない。
手っとり早く安直に、では困るが、餅にカビが生えないうちに、マグロの色があせないうちに、今年は鮮度のいいハンドルさばきをお願いしたい。>
これを読んで内閣改造を見送った総理大臣福田康夫氏のパリでの言動を35年ぶりに思い出した。
この年1978(昭和53)年は当時の総理大臣福田赳夫氏が大平正芳幹事長に「2」年と約束した「自民党総裁任期」の満了年である。11月が来たら退陣すると紙に書いて交わした「密約」を果たさなければならない。
それに先立って福田首相は西ドイツの首都(当時)ボンでのサミットに出席すべく東京を発ち、7月14日午前2時15分(現地時間)パリに途中立ち寄った。
なぜなら「7月14日」こそはフランスの革命記念日であり、首都パリではさまざまな華やかな行事が展開される。人気を盛り上げて密約の反故(ほご)を策する福田父子にとって「パリ祭」は記者サービスの大事な材料であるはずだ。現に首相は私に「亮ちゃん、パリじゃ美味いものをご馳走するぜ」と軽口を聞いてくれたぐらい。
現地時間の午後4時10分からコンコルド広場を囲む有名ホテル「クリヨン」で同行記者諸君と「記者懇談」だという。日本時間ではまだ午前9時過ぎ。みな、些か時差ボケ。折から広場ではファンファーレが鳴り、上空を航空機やヘリが舞ってお祭りは最高潮。それでも福田さんは懇談を止めない。
記者団は総裁再選問題ばかりに食いつくが、総理はサミットの意義ばかりを強調する。堪らず私は総理大臣首席秘書官たる康夫さんに囁いた。外は大賑わい、記者団も心ここにあらずじゃないですか。
「いや、連中はサミットの意味を全く分かっちゃいないんだから、ここはもっと教えなければ駄目です!」。終わった時、祭りは最高潮を過ぎていた。「餅」の食い時は過ぎていた。
ここへ来る2日前の7月12日午前6時30分、私は目白の田中角栄邸玄関前の車中に待機していた。角栄首相(当時)に大阪へ飛ばされたのがきっかけでNHKを途中退職した私。42歳にして園田直外務大臣の秘書官に就任した私。
あろうことか、付いた外相が領袖の福田氏ではなく角栄氏を頼りにすべく極秘に訪ねて来て私もそれに従ってきた。なんという歴史の皮肉であろうか。しかし政治が権力闘争そのものである以上、生き残りのためには『昨日の敵は今日の友』当然なのである。
「福田は2年で終わり、年末には大平政権」で一致してきた園田は意気軒昂。そのままオテル・デュ・クリヨンの部屋に「福田再選への梃入れ要請」に来た森喜朗官房副長官にも「君ら、オレの言う事を聞くなら再選ありうるが、そうでなきゃ無いぜ」と高飛車に言った。
園田氏はあのまま官房長官をしていられたら大平氏を説得して任期1年延長を取り付ける心算で、かなりの自信を持っていた。だが「とにかく官邸から園田を追放して後任にワシの女婿安倍晋太郎を」という親分の注文をもだいしがたく、園田を外相に追いやった。
後で聞けば、片方の大平氏は福田氏が再選に立候補するなどとは信じがたく「まさか」と思っていた。それが挑戦してきて敗れ、かつ「40日抗争」を仕掛けてくるなんて想像もしていなかった。2人の品格の差というしかない。康夫氏は「密約」を最後まで知らされずに父を見送った。2008・01・06