2008年01月17日

◆金大中事件から35年

                  渡部亮次郎

以下は2008年1月15日の共同電だが、明らかな誤りがある。35年も前のこと。韓国政府の担当者がボケたか、共同通信デスクが若すぎるのか、珍しい事実誤認か誤植である。角栄氏と福田赳夫氏を取り違えている。

<金大中氏の保釈を韓国に打診 岸氏側近、世論沈静図る

【ソウル15日共同】韓国政府は15日、1973年の金大中氏拉致事件など に関する外交文書を公開した。日本と韓国が事件の捜査を棚上げした「政治決着」に批判が高まった77年、岸信介元首相(故人)の側近、矢次一夫氏(同)が、 世論を沈静化させるため拘束中の金氏の保釈を駐日韓国大使に打診、大使が拒否 していたことが分かった。

当時、韓国中央情報部(KCIA)の金炯旭元部長が「事件はKCIAの犯行」と米議会で証言。矢次氏は、証言が裏付けられる事態になれば、韓国政府機関が 無関係であることを前提とした政治決着が破たんし、「福田(赳夫)内閣の命取りになりかねない」と述べる一方、金氏の保釈で事態は落ち着くと強調。日本の 政局安定を目的に金氏の自由の回復を模索していた。

金元部長は77年6月に米議会で証言したのに続き、7月には共同通信などの取材に対し、岸、矢次両氏が日本商社の依頼を受け、ソウルの地下鉄車両納入を> めぐり朴正熙大統領に働き掛けていたと発言した。>

重大な事実誤認か誤植。当時の内閣は田中角栄内閣。矢次氏が当時田中内閣のために奔走していたとは驚きだが、岸氏が奔走していたのは頷ける。利権で繋がっていたからだ。

事件に先立ち私は金在権と称する在日韓国大使館公使と懇談し、日本に来て反朴運動を展開する金大中氏を放置するのかと質した。これに対して金公使は「ウフフ、そのうちなんとかなりますよ」と答えた。背筋が寒くなった。

直後、私は大阪に転勤。NHK政治部を離れた。それから間もなく事件は起きた。あれから35年。40をとうに過ぎたわが息子でも事件の経緯を知らない。事件を詳しく振り返ろう。以下「ウイキペディア」を引用。

<1973年8月8日午前11時頃、金大中は東京のホテル・グランドパレス2212号室に病気療養のため宿泊していた梁一東[ヤン・イルトン]韓国民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。

前年開業した同ホテル(東京都千代田区飯田橋1-1-1)は九段下の交差点を飯田橋方面に入ってすぐにあり、裏路地からは朝鮮総連に至近の場所に位置している。

午後1時19分ごろ、会談を終えた金は2212号室を出たところを6、7人に襲われ、空部屋だった2210号室に押し込まれ、クロロホルムを嗅がされて意識を朦朧となった。

後、4人により、エレベータで地下の車に乗せられた。ホテルから車で関西方面(神戸)の韓国総領事館宿舎に連れて行き、翌9日朝、偽装貨物船(コードネームは龍金【ヨングム】号)で大阪埠頭から出国したと見られる。

朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。金大中はさらに「船に乗るとき、足に重りをつけられた」、「海に投げ込まれそうになった」と後日語っている。

しかし事件を察知した(当時の厚生省高官の通報によるとされる)アメリカの通報を受けた自衛隊が拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、拉致犯は殺害を断念し釜山まで連行し、ソウルで解放したとされている。

金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、自衛隊機が照明弾を投下したと証言している。

拉致から5日後の13日、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。

直後に自宅で記者会見を行った際、日本人記者団に対して解放された直後の心境を、「暗闇の中でも尚明日の日の出を信じ 地獄の中でも尚神の存在を疑わない」と日本語でメモに記した。

9月5日、警視庁は事件にKCIAが関与していたと発表。捜査員はホテルの現場から金東雲・駐日韓国大使館一等書記官(金東雲[キム・ドンウォン]は変名、本名は金炳賛)の指紋を検出し、営利誘拐容疑で出頭を求めた。(渡部註:名刺の金公使が金東雲だったのだ)。

しかし金は外交特権を盾に拒否。金東雲はKCIAの東京での指揮官と見られていた人物で、警視庁は逃走に使われた車が横浜の韓国領事館の副領事のものであったことも調べ上げていた。

しかし金書記官はすでに8月19日に出国しており「警視庁は最初から本気で捜査する気がなかったのではないか」との声が多く上がった。


主権国家内で外国の情報機関が拉致監禁・不法移送を行ったにもかかわらず及び腰であったのは日本政府も同様であった。

日本政府は金東雲に対しペルソナ・ノン・グラータを発動。これは日本が初めてペルソナ・ノン・グラータを発動した例であり、同時に2006年4月までは唯一の発動例であった。

警視庁によると「少なくとも4つのグループ、総勢20人から26人が事件に関与した」という。

「ファーイースタン・エコノミック・レビュー」の記事によると「朴正煕大統領と関係の深かった町井久之(鄭建永[チョン・ゴンヨン]山口組系東声会会長)がホテルのフロアをほとんどすべて借り切りKCIAに協力した」と書かれている。

「ニューズウィーク」東京支局長バーナード・クリッシャーは本社に「町井久之はKCIAと緊密に行動を共にし事件の背後にいた。しかし日本のどの新聞もこのことを取り上げない。それは町井の組が自分達を誹謗する者を拷問し殺すことさえ厭わないからだ」との記事を送っている。

韓国政府が金大中を中傷する情報を日本の新聞社に流す役割をしていた柳川次郎(梁元錫[ヤン・ウォンソク]山口組系柳川組組長)も関与。日韓関連の著書が多いジャーナリスト五島隆夫によると「柳川は日本の暗黒街の他の人物と同様に児玉誉士夫(右翼の黒幕)を通じて韓国政府と接触をとった」という。

この事件の責任を取って李厚洛は中央情報部長職を解任され、日本国内での反朴運動が高まった。その運動の中から総連系に唆された文世光(ムン・セカン)が朴正煕殺害を試み、陸英修(ユク・ヨンス)大統領夫人が死亡した(文世光事件)。

この事件の責任をとって警護室長朴鍾圭(パク・チョンキュ)が解任された。その後、中央情報部長に就任した金載圭が、警護室長に就任した車智K(チャ・チチョル)に対する反感から、朴正煕大統領を暗殺し、朴政権の滅亡とその事件を率先して調査した全斗煥の台頭を生むきっかけとなった。

同事件について、日本政府は主権侵害に対する韓国政府の謝罪と、日本捜査当局による調査を要求していたが、同年11月の金鍾泌(キムチョンピル)首相(当時)の訪日と1975年7月の宮沢喜一外相(同)の訪韓で政治決着を図り、韓国側の捜査打ち切りを確認したが、韓国政府はKCIA職員かどうかも認めず不起訴処分とし、国家機関関与を全面否定していた。

(渡部註:当時の日本担当相が目白の田中邸に紙袋を2つ下げて現れ「1つは奥様に」といったところ角栄氏は「そうだね1つは大平=外相=にだな」と答え、色紙=領収書がわり=を書こうかと言ったところ李氏は要りませんと答えた。かつて「文藝春秋」に元田中後援会=越山会幹部がこのように暴露した)。

後年、大統領になった金大中はこの事件を一切不問にするとの立場を明らかにし、韓国政府に対する賠償請求などに発展するおそれのある真相究明を露骨に牽制した。

また、1973年11月2日に行われた田中角栄首相(当時)と金鍾泌首相(当時)との会談の内容を収めた機密文書が盧武鉉政権により公開(2006年2月5日)され、日韓両政府が両国関係に配慮した政治決着(日本は形式的な捜査をするだけ)で穏便に事を済ませようとしていたことが明らかになった。

2006年7月26日、韓国政府は韓国中央情報部KCIAの組織的犯行だったとする結論を出し、国家機関が関与したことを初めて政府として認めた。

2007年10月14日北海道新聞は、「当初金氏を日本の韓国系暴力団に依頼して暗殺することがKCIA内で検討されたが、成功が困難と判断して断念したことを元KCIA職員が証言した」との記事を掲載した。なお、元朴大統領の側近はこの証言を否定している。

拉致の目的は金氏の海外での反政府活動を抑制するためだったと別の元KCIA職員が証言し、殺害計画の事実を否定した。

同年10月24日、国家情報院(NIS)の過去事件真実究明委員会は、当時のKCIAによる組織的な犯行だったとする報告書を発表し、韓国政府として事件への関与を初めて公式に認めた。

なお、これに対し日本政府は、主権侵害に対する公式謝罪と日本の捜査当局による関係者の聴取を求め、10月30日には柳明桓駐日大使が高村正彦外務大臣に対してKCIAの関与を改めて認めるとともに事実上の謝罪を行なった。

なお,日本海に放り込まれる直前に日本側に救助された金大中本人は折しも京都に来日中で10月30日に「日本は主権侵害される一方で保護責任を放棄した。これは人権侵害だ」とコメントした。>
2008・01・15

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