以下は2008年1月15日の共同電だが、明らかな誤りがある。35年も前のこと。韓国政府の担当者がボケたか、共同通信デスクが若すぎるのか、珍しい事実誤認か誤植である。角栄氏と福田赳夫氏を取り違えている。
<金大中氏の保釈を韓国に打診 岸氏側近、世論沈静図る
【ソウル15日共同】韓国政府は15日、1973年の金大中氏拉致事件など に関する外交文書を公開した。日本と韓国が事件の捜査を棚上げした「政治決着」に批判が高まった77年、岸信介元首相(故人)の側近、矢次一夫氏(同)が、 世論を沈静化させるため拘束中の金氏の保釈を駐日韓国大使に打診、大使が拒否 していたことが分かった。
当時、韓国中央情報部(KCIA)の金炯旭元部長が「事件はKCIAの犯行」と米議会で証言。矢次氏は、証言が裏付けられる事態になれば、韓国政府機関が 無関係であることを前提とした政治決着が破たんし、「福田(赳夫)内閣の命取りになりかねない」と述べる一方、金氏の保釈で事態は落ち着くと強調。日本の 政局安定を目的に金氏の自由の回復を模索していた。
金元部長は77年6月に米議会で証言したのに続き、7月には共同通信などの取材に対し、岸、矢次両氏が日本商社の依頼を受け、ソウルの地下鉄車両納入を> めぐり朴正熙大統領に働き掛けていたと発言した。>
金大中事件の起きたのは田中角栄内閣であって福田赳夫・康夫内閣は全く無関係。韓国政府の発表が間違い、共同通信のデスクがチェックできなかった。
矢次一夫やつぎかずお 1899‐1983(明治32‐昭和58)
浪人政治家。佐賀県に生まれる。16歳で家を出て,人夫・沖仲仕など放浪生活を経験したのち20歳で上京,一時は北一輝の食客となる。
1921年(大正10)協調会に入り,25年労働事情調査所を創立して〈《労働週報》〉を発刊,野田捺油争議,共同印刷争議,日本楽器争議などの大争議の調停にあたる。しだいに無産運動家から軍人に至る幅広い人脈をつかみ,33年(昭和8)には,統制派の幕僚池田純久少佐と結んで国策の立案に着手。
官僚,学者,社会運動家,政治家などを集めて国策研究会をつくり,37年には改組して組織の拡大を図った。第2次大戦後公職追放されたが,講和後53年に国策研究会を再建,56年実業家・評論家などを組織して台湾を訪問,翌57年には日華協力委員会を設立して常任委員となり,58年には岸信介首相の個人特使として李承晩韓国大統領と会談。
日韓国交正常化後の69年には日韓協力委員会をも設立するなど,台湾・韓国との交流に尽力した。著書に〈《昭和人物秘録》〉(1954),〈《この人々》〉(1958),〈《昭和動乱私史》〉(全3巻,1971‐73),〈《わが浪人外交を語る》〉(1973)などがある。
<77年、岸信介元首相(故人)の側近、矢次一夫氏(同)が、 世論を沈静化させるため拘束中の金氏の保釈を駐日韓国大使に打診、大使が拒否 していたことが分かった>と共同電にはあるが、77年とは昭和52年。田中角栄内閣発足直後である。福田赳夫さんは逼塞していただけだ。
私はそのころは田中総理の側に居て、福田さんの動きを知らない。親分岸さんの側近というのだから矢次さんの事はよく知っていたのだろうが、少なくとも官房長官園田直氏の口から矢次という言葉が出た事はない。世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス
2008・01・15