2008年01月26日

◆薩摩揚に思い出す

渡部亮次郎

先輩から恒例の薩摩揚げが薩摩から届けられた。令夫人のご郷里が薩摩・
鹿児島だからである。戦前、戦中に貧しい家庭に育った私に、少年時代、
薩摩揚げ、蒲鉾、はんぺんを食した記憶はない。

ごく幼い頃、鮭の缶詰とかバナナを食べた記憶はあり、大東亜戦争の敗
戦後、何年もしてから食べたが、魚肉のすり身を成型して作ると言う薩
摩揚げ、蒲鉾、はんぺんの類は敗戦後9年の春、上京して初めて食べた。

それよりも薩摩揚げが沖縄で異常に高値で、それは琉球王朝が隣の薩摩
藩の無法な支配を受けたことの遺恨からであると説明され、改めて驚い
たものだ。

このときの用事は琉球における主席(知事にかわる)をアメリカ政府の
認知により初めて住民の選挙(公選)によって行われので、それを取材、
報道するためだった。

アメリカ軍に占領された沖縄は当時まだアメリカの施政権下にあり、高
等弁務官が島のすべてを握っていた。折からベトナム戦争が激化し、嘉
手納空港はB52爆撃機の発着が慌しかった。

言葉も良く通じないまま島中を駈けずり周り「4万の差で屋良朝苗(やら
ちょうびょう)氏が当選するはず、と東京に連絡した。

翌日、軍政部の係官が「NHKがそのように放送していた」という。NHKが
選挙の予測を放送するわけがないから,私の電話を盗聴していたと告白し
たようなものだった。

何しろ朝から晩まで、いや、飲み屋でもバーでも尾行されていた。なん
で筑紫哲也(朝日新聞)でなく俺を尾行するのだ、と追及したら、朝日
新聞は配達前に空港で没収できるが、ミスターワラナベの電波は没収で
きないから、都合悪い取材を妨害しなければならないとの返答。震えが
来た。

尾行されながらの昼食。1ドル360円時代に「おでん茶飯」が4ドルぐら
いで法外に高かった。高い理由が福岡からの薩摩揚げの空輸。その理由
が嘗ての薩摩による琉球支配への反発だった。450年以上前の怨恨が脈々
と受け継がれているのである。

豊臣秀吉の時代、朝鮮に於ける戦いで秀吉が薩摩藩に命じて琉球王尚寧
に対し7000人分の食料10ヶ月分を翌年2月末迄に坊津港まで搬入するよ
う指示したところ、財政窮乏を理由に割り当ての半分を送って来なかっ
た。

しかも尚王その一方の宗主国たる明の朝鮮に対する思いを配慮したこと
などに、秀吉、琉球の間で命を受けた薩摩藩主島津義久の立場は深刻で
あった。

ややあって秀吉が亡くなり徳川家康の時代となった後も尚王の手落ちが
重なり、結局薩摩藩は樺山権左衛門久高を総大将として1609年(慶長14
年)3000名の兵を出して首里城を攻略してしまうこととなってしまった。
450年以上前の怨恨が脈々と受け継がれているのである。

琉球諸島は、廃藩置県により明治12年沖縄県となる。第2次世界大戦後
アメリカはその統治の間再び琉球を公称した。面積2388平方キロ、神奈
川県よりやや広い。1945年4月からの米軍の艦砲射撃で徹底的に破壊され
た後占領。自治権を失った。

爾来、米軍基地の島とされ、今日に至っているが、施政権は佐藤栄作首
相による対米交渉により1972年5月15日に返還された。

題は沖縄では無い、薩摩揚げだった。由来については諸説があるが、島
津藩(通称薩摩藩)による琉球侵攻のさいに、琉球料理のチキアギー
(チギアギ)を持ち帰ったものが転じて「薩摩揚げ」になったとされて
いる。鹿児島県でいう「つけ揚げ」は、「チキアギー」が訛ったもので
ある。

今度頂戴した薩摩揚げの原料は南ダラ、エソ、タイカジキのすり身とあ
る。こうした魚肉のすり身に塩・砂糖などで味付けし、形を整えて油で
揚げる。 厚さ1-2cmほどの丸形・小判形あるいは角形をしていることが
多い。ほかに、ゴボウ、イカ、ゆで卵などの素材を包み込んだものもあ
り、異なった形状をしている。

鹿児島県産が特に有名なことから、東日本では「薩摩揚げ」と呼ばれる
が、西日本では「天ぷら」と呼ぶ人もあり、鹿児島県では「つけ揚げ」
と呼ばれる。「揚げ半(ぺん)」など、その他の異称も多い。

そのまま、あるいは軽く焼いてしょうが醤油やからし醤油で食べる。お
でんだね、うどんの具、皿うどんの具、煮物の材料にも用いられる。(再
掲)

参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007.02.16


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