2008年03月13日

◆ゴーストップ事件(大阪・天六事件)

                  渡部亮次郎

ゴーストップとは交通信号機を指す。戦前、戦中はこう言ったようだ。昨
今、日本には言論不自由時代なぞ無かったと思い込んでいる人が毎日、増
えてゆく。

それだけ若い人に比べて老人が少なくなっているのだろう。それが自然だ
からどうでもいいが、アメリカとの戦争に負けるまでは日本は言論の自由
はなかった。だから敗戦が良かったというのでは絶対に無いが。

戦前、戦中は何かというと「そんなことを言うと憲兵に捕まるぞ」と目上
の人に注意された。憲兵って?という若い人のために「ウィキペディア」
で調べていたら、脱線。関連して「ゴーストップ事件」が出てきてしまっ
た。

ゴーストップ事件(天六事件ともいう)は、1933(昭和8)年に大阪市の天
六(てんろく)交叉点で起きた出来事、およびそれに端を発する日本陸軍と
日本警察の大規模な抗争のことである。

満州事変後の大陸での戦争中に起こったこの事件は、軍部が法律を超えて
動き、国家の統制がきかなくなるきっかけの一つとなった。

発端
1933年6月17日午前11時40分頃、大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点で、慰
労休暇中の陸軍第4師団第8連隊第6中隊の中村政一1等兵が信号無視をし
たとして、交通整理中であった曽根崎警察署の戸田忠夫(中西忠夫)巡査
が注意し、天六派出所まで連行した。

その際、中村1等兵が「軍人は警官の命令には従わない」と反論した為つ
かみ合いの喧嘩になり、互いに負傷、中村1等兵は鼓膜損傷全治3週間、
戸田巡査は全治1週間の怪我を負った。

この時騒ぎを見かねた見物人が大手前憲兵分隊へ通報し駆けつけた憲兵隊
の伍長が中村を連れ出してその場は収まるが、その2時間後、憲兵隊は
「公衆の面前で軍服姿の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せない」として
曽根崎署に対して抗議した。

当時、第8連隊の松田連隊長が不在であったため、上層部に直接報告が伝
わって事件が大きくなり、平和的に事態の収拾を図ろうと考えていた曽根
崎署の高柳博人署長の考えもむなしく、21日には事件の概要が憲兵司令官
や陸軍省にまで伝わっていた。

この後の当事者の事情聴取で、戸田巡査は「信号無視をし、先に手を出し
たのは中村1等兵である。」と、逆に中村1等兵は「信号無視はしていな
いし、自分から手を出した覚えはない。」と両者まったく違う主張を繰り
返した。

軍部と内務省の対立
6月22日、第4師団の井関大佐が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではな
く、皇軍に拘る重大な問題である」と声明した。

それに対して粟屋仙吉大阪府警察部長も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官
も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と言明した。6月24日の寺内
寿一第4師団長(寺内正毅の息子)と縣(あがた)忍大阪府知事の会見も
決裂した。

この結果、問題は寺内と粟屋という軍部と警察(すなわち内務省)との対
立の様相を示す。

この議論は平行線を辿り、また、新聞と雑誌もこれを「軍部と警察の正面
衝突」などと大きく報じたことによって過剰なほどの騒ぎとなった。

「天皇陛下の軍隊」に対して「天皇陛下の警察官」を自任する警保局を中
心とする内務官僚たちは新たな政治勢力として意識され、「新官僚」(後
の新々官僚とは別物)と呼ばれた。彼らは主に1910年代に東大を上位の成
績で卒業し、中堅の幹部に昇進していた者たちであった。

7月17日、中村1等兵は戸田巡査を相手取り、刑法第195条(特別公務員暴
行陵虐)、同第196条(特別公務員職権濫用等致死傷)、同第204条(傷害
罪)、同第206条(名誉毀損罪)で告訴した。

8月24日、事件目撃者の1人であった高田善兵衛が憲兵と警察からの度重
なる厳しい事情聴取に耐え切れず自殺、国鉄吹田操車場内で轢死体となっ
て発見された。

また、この事件の処理に追われていた曽根崎署長の高柳は疲労で倒れ入院
したが、7月18日その一報を知った寺内は井関に「事件で心痛のあまり病
状が悪化すると気の毒なので、適当にお見舞いするように」と伝えたとの
逸話がある。しかしその10日後、高柳は逝去した。

終結
最終的には、事態を憂慮した昭和天皇の特命により白根竹介兵庫県知事が
調停に乗り出し、11月19日に和解が成立した。

11月20日、当事者の戸田と中村が仲介した大阪地方検事局の和田検事正の
官舎で会い、互いに詫びたあと握手して幕を引いた。和解の内容は公表さ
れていないが、警察側が譲歩したものだというのが定説となっている。

事件の影響
結局この事件は軍と警察の面子の張り合いにすぎなかったが、解決を一番
喜んだのは師団長の寺内だという。この後、現役軍人に対する行政措置は
警察ではなく憲兵が行うこととされるようになり、軍部が法を超えて次第
に国家の主導権を持つきっかけのひとつとなった。出典: フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』            2008・03・10



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