2008年04月01日

◆「革命ごっこ」の記録

                   石岡 荘十

日米安保条約は、いまや日本の安全保障にとって皮膚のような存在とな
ったが、条約の改訂(’60)と延長(’70)をめぐって、国中が轟々と
揺れ動いた時代があった。

その時代、学生でありながら条約の延長に鋭く牙を剥いた若者たちの生
き様の記録ともいえる映画「実録・連合赤軍」(監督・若松孝二)を観
た。
あれから間もなく40年だから、「連合赤軍」とは何か、いささか説明が
必要だろう。

その母体は赤軍派である。当時京都大学生で共産主義者同盟(ブント)
のメンバーだった塩見孝也が、「こんな生ぬるい運動では70年安保は乗
り越えられない」という危機感から、関西地方の学生を糾合して結成し
た超過激派集団で、塩見本人が議長におさまった。

警視庁で公安・警備事件担当の記者だった当時のメモをひっくり返して
みると、赤軍派が公然と名乗って姿を現したのは1969年9月4日の東京
・葛飾公会堂での結成大会だった。

300人ほどが女物のナイロンストッキングを頭からかぶって、「われわれ
はーぁ---」と“新左翼用語”をわめきまくる変な集団だった。

その年、治安当局は日米安保条約の自動延長を翌年に控え、正月早々東
大安田講堂の”城攻め“を敢行、これで学生運動は急速に沈静化するだ
ろう、と肩の力を抜きつつあった。

そのころ、塩見赤軍派議長は、山梨県の大菩薩峠で“軍事訓練”をする
が早朝、山梨県警・警視庁の機動隊に寝込みを襲われ、53人が逮捕
(‘69.11.5)されて失敗。

併行して、航空機をハイジャックしてキューバか北朝鮮で本格的な軍事
訓練を受け、日本に帰って革命を実現しようと計画する。ところが、塩
見は計画実行直前に治安当局に察知され、東京・駒込のアジトを出たと
ころで逮捕される。その日は一人息子の満1歳の誕生日だった。

が、残る“同志”9人が2週間後(‘71.3.31)、日航機「よど号」をハイ
ジャック、北鮮に飛びこむ。逮捕された塩見元議長の手帳に「HJ」の
文字があったが、これがハイジャックを意味すると分かったのは、事件
後のことだった。それから37年、4人が北鮮で生存している。

塩見がシャバに出てきたのは20年後(‘89.12.27)だった。


その間、「革命は銃口から生まれる」という過激理論のもと、京浜工業
地帯の労働者や学生で結成した京浜安保共闘(革命左派)は、米大使館
や米軍基地を火炎瓶で攻撃したり、各地での銀行強盗や拳銃を狙って交
番を襲ったりするが拳銃強奪は失敗。

が、71年2月、栃木県真岡市の銃砲店を襲って、遂に、銃と銃弾を獲得す
る。この武装左派集団と赤軍派が地下でひそかに接触、ドッキングする。
これが「連合赤軍」だ。それで、その後、彼らはどうなったのか。

これまでにも、「光の雨」(’01)、「にっぽん零年」(‘02)、「突
入せよ!『浅間山荘事件』」(‘02)などで映画化されているほか、関
連の出版物も少なくないが、今回の「実録・連合赤軍事件」は、当時の
実写フィルムと、無名の役者を使ったどぎついドラマ仕立ての演出画像
を巧みに組み合わせて、彼らの行動・心理に入り込んで、ドキュメンタ
リータッチで描いている。

若松監督は私と同世代(72)のちょっと太りぎみの男で、若い時代、い
わば赤軍派を頂点(?)とする極左学生運動のシンパだった。

映画の公開に先立って2月、都内のライブハウスで、あるフォーラム開か
れた。塩見元議長や若松監督も交え、若き日の専門用語「路線」と「運
動」の「総括」について深夜にわたって“極左専門用語”で延々と議論
を交わした。

しかし、言語明瞭、意味不明。これでは今の若い人たちに理解されるわ
けもなく、老人の懐旧マスタベーション大会で終わった。

いわゆる羽田闘争(‘67)から、浅間山荘事件(‘72)まで、公安事件
のほとんどを現場で目撃し、取材し、中継リポートし、ニュース原稿を
書きまくった。その経験からいうと、どう理屈をつけようと、彼らの理
想・行動は所詮、屁理屈で、現実離れした「革命ごっこ」に過ぎなかっ
た、と私は総括している。

法治国家という建前でいえば、彼らは破壊活動・殺人・強盗・監禁---破
防法、刑法上の犯罪集団に過ぎなかった。その動機・思想・目的が”世
直し“だったからといって、正当化されると考えるのは甘ったれでしか
ない。

彼らが自分勝手な高邁な(?)理論を展開して群馬山中アジとで殺した
12の人柱は、世直しのなんの足しにもならなかった。彼らはいわば赤軍
派の”鬼っ子“だった。彼らが「銃を持って立ち向かった」と豪語する
警察機動隊は、権力の心臓部からは程遠い、じつは手足に過ぎなかった。

大菩薩峠事件に引き続き警察部隊を率い、浅間山荘で被弾、警視庁公安
部の内田尚孝警部(死後2階級特進で警視正)ら警察官2人が殉職してい
るが、その後、時代は何事もなかったように進行している。

しかし、映画は、あの時代に何が起きていたのか再確認する手がかりと
して、同時に、若さとは何か、今の若者との対比を考える上での記録と
して、一見に値する。

浅間山荘事件へ至る”連続殺人”の主犯である永田洋子(63)は、死刑
判決が確定し、脳腫瘍を患いながら獄中にある。山中のアジトを2人で抜
け出して、東京都内で永田と肉体関係を結んでいたと言われる元塩見の
部下・森恒夫は逮捕された(’72)翌年の元日、東京拘置所内で首吊り
自殺している。
 
懲役労働で、20年間、国家に扶養されて生き、出獄した後、いまだ革命
家を自称している塩身元議長(66)は、「獄中ボケが治っていない」と
一部の元同士から批判される中、雑誌、新聞の原稿料、講演料、本の印
税などで生活の糧を得ていたが、最近は時給1000円で西武線沿線の大型
スーパーで駐車場の管理の仕事をしている。(20080325)

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