2008年04月08日

◆回想の細川内閣

                   渡部亮次郎

新生党代表幹事小澤一郎の工作により、非自民連立政権の首班となることを細川護熙が受諾して成立した細川政権。それが突然、退陣を表明したのだ4月8日。1994年の事だった。

あの時、辣腕を振るった小澤氏が今度は民主党代表として政局の主導権を握り、間もなく政権を握ると息巻いているが、果たして如何なる事態が展開するのかしないのか、興味津々ではある。

政治改革に行き詰まった宮沢内閣に対する不信任案の可決を受けた衆議院の解散による第40回衆院選で日本新党が躍進し、熊本県知事を勤めていた細川も熊本1区で全国第2位の票数を獲得して当選。

この選挙で野党第1党の社会党は大敗し、与党で第1党の自由民主党も過半数に達していなかった。その結果、昭和30年(1955年)の党結成後初めて与党の座から降りる事となった(55年体制の崩壊)。

先に自民党竹下派内の対立が原因で自民党を脱党していた小澤一郎の尽力で野党連合政権の樹立に合意した日本社会党・新生党・公明党・民社党・社会民主連合・民主改革連合(参院会派)の6党派は、自民党との連携を模索していた日本新党・新党さきがけを取り込むため、日本新党代表の細川護煕を首相候補とすることで合意。

日本新党・さきがけも受諾したため、非自民・非共産政権の発足が決定的となった。 細川は近衛文麿(34・38・39代首相)の外孫にあたる。祖父と孫が共に首相となったのは内閣制創設後初めての出来事であった。日本新党と新党さきがけがキャスティングボートを握る。

細川は政治改革関連法案が参議院での否決させた際、河野洋平自民党総裁との党首会談で修正に合意し、中選挙区制に代わる国政選挙制度とし
て、小選挙区比例代表並立制に基づく新たな選挙制度を実現した。また、1993年の冷夏によって起こった米不足で、日本のコメ市場の部分開放を受諾した。

しかし連立政権内での話し合いが円滑に行かなかったこと、細川自身の金銭スキャンダルが野党・自民党に追求されるにいたり、1994年4月8日に電撃的に辞意を表明、25日に総辞職したのだった。

28日には、細川内閣で副総理であった羽田孜を首班とする羽田内閣が発足。細川政権は1年に満たない短命政権であった。在職期間263日。


組閣後の閣僚記念撮影では恒例の官邸1階西階段の赤絨毯には見向きもせず、中庭の芝生の上で新閣僚がワイングラスを片手に懇談後、閣僚を生け垣の前に並ばせて記念撮影を行っている。

内閣総理大臣(79代)細川護熙(衆、 日本新党) 内閣総理大臣
特別補佐(〜1994年1月31日)田中秀征(衆、新党さきがけ)

法務大臣三ヶ月章(非議員)外務大臣副総理羽田孜(衆、 新生党)大蔵大臣 藤井裕久(衆、新生党)文部大臣赤松良子(非議員)厚生大臣大内啓伍(衆、民社党)農林水産大臣畑英次郎(衆、新生党) 通商産業大臣熊谷弘(衆、 新生党)

運輸大臣伊藤茂(衆、 日本社会党) 郵政大臣神崎武法(衆、公明党) 労働大臣坂口力(衆、 公明党)建設大臣五十嵐広三(衆、 日本社会党) 自治大臣佐藤観樹(衆、日本社会党) 国家公安委員会委員長佐藤観樹(衆、 日本社会党)

内閣官房長官武村正義(衆、新党さきがけ) 内閣官房副長官(政務)鳩山由紀夫(衆、新党さきがけ  内閣官房副長官(事務)石原信雄 内閣法制局長官大出峻郎 総務庁長官石田幸四郎(衆、公明党) 北海道開発庁長官上原康助(衆、 日本社会党)沖縄開発庁長官上原康助(衆、日本社会党)

国土庁長官上原康助(衆、日本社会党) 防衛庁長官中西啓介(衆、新生党)愛知和男(衆、新生党)【1993年12月2日‐】 経済企画庁長官久保田真苗(参、日本社会党) 科学技術庁長官江田五月(衆、社会民主連合) 環境庁長官広中和歌子(参、公明党) 国務大臣【政治改革担当】 山花貞夫 (衆、日本社会党)

細川自身は民主党の結党を見届けた後の1998年5月7日、還暦(60歳)を迎えたためとの理由で衆議院議員を辞職した。

その後、陶芸家として神奈川県足柄下郡湯河原町宮上に居(不東庵)を構えている。陶芸の師は辻村史朗。また、細川家の所蔵品を保管展示する財団法人永青文庫の理事長を務める。

現在、唯一政治に関わる活動として、「女性のための政治スクール顧問を務める(名誉校長は妻の細川佳代子)。出典:ウィキペディア
文中敬称略 2008・04・06
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