2008年04月18日

◆命の恩人高木兼寛

渡部亮次郎

脚気(かっけ)という病気は今日ではあまり例証の見られない病気だが、
私は15歳のときに罹り、死の寸前まで行った。ビタミンB1の注射を打ち
続けて下さった伊藤徳治郎先生(故人)が恩人だが、治療法そのものの発
見者高木兼寛が最大の恩人というべきだろう。

脚気は白米(玄米から胚芽=ビタミンB1を除去したもの)しか食べない
事によって起こる病気。抹消神経を冒して下肢の倦怠、知覚麻痺、右心
肥大、浮腫を来し、甚だしい場合は心不全により死亡する(広辞苑)。
江戸(東京)病とも呼ばれた。

吉村昭(故人)の力作『白い航跡』(講談社文庫)によれば、1904-05年
の日露戦争による日本側の陸軍の戦死者47,000人。傷病者352,700人中脚
気患者が実に211,600余名。

傷病者のうち結局死亡した者37,200余名だったが、この中に占める脚気
死者は27,800余名だった。「古今東西ノ戦役中 殆ト類例ヲ見サル」戦
慄すべき数であった

私の父方の祖父は日露戦争に出征し、ラッパ手だったが、運よく帰還。
家督を継いでいた兄が八郎潟で漁業中遭難していたため代わって家督を
相続。結果今日の私もあるわけだが、恐ろしい日露戦争時の脚気が43年
後に私を襲ったのである。

中学の野球部で投手、4番、主将だった。暗くなるまで練習。疲労困憊す
るから、帰宅後、砂糖を大量に舐める。疲労は瞬時にして回復、勉強に
切り替えていた。

ところが体内で砂糖が消化するためにはビタミンB1が必要。舐め続ける
とビタミンB1 欠乏症=脚気になることを私も親も知らなかった。夏休み
の野球合宿で打順を待っているとき、突然意識を失った。脚気が悪化し
心臓が悪くなって、死の寸前だった。

明治時代、その脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる人
が日本の海軍軍人、医学者で東京慈恵会医科大学の創設者高木 兼寛(た
かき かねひろ、嘉永2年9月15日(1849年10月30日)―大正9年(1920年)
4月13日)なのである。名前は「けんかん」と呼称されることもある。

薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷(現・宮崎市、平成の大合併前の東
諸県郡高岡町)に生まれる。通称は藤四郎。18歳のときから薩摩藩蘭方
医の石神良策に師事、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍した。

明治2年(1869年)、開成所洋学局(後の東大医学部)に入学し英語と西
洋医学を学ぶ。薩摩藩によって明治3年(1870年)鹿児島医学校が創設さ
れると彼は学生として入学したが、校長の英人ウィリアム・ウィリスに
認められいきなり教授に任命された。

明治5年(1872年)、海軍医務行政の中央機関として創設された海軍軍医
寮(後の海軍省医務局)の幹部になった師、石神良策の推挙で1等軍医
副(中尉相当官)として海軍入り。海軍病院勤務の傍ら病院や軍医制度に
関する建議を多数行ない、この年に大軍医(大尉相当官)に昇進。


やがて軍医少監(少佐相当官)になっていた明治8年(1875年)、当時の海軍病院学舎(後の海軍軍医学校)教官の英国海軍軍医アンダーソンに認められ彼の母校、英国セント・トーマス病院医学校に留学。

高木は在学中優等の成績を収め最優秀学生の表彰を受けると共に、英国
外科医・内科医・産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得し
て明治13年(1880年)帰国。

帰国後は東京海軍病院長、明治15年(1882年)には海軍医務局副長兼学
舎長(軍医学校校長)と海軍医療の中枢を歩み、最終的に明治16年(1883年)海軍医務局長、明治18年(1885年)には海軍軍医総監(少将相当官。海軍軍医の最高階級)の役職を歴任した。

明治25年(1892年)予備役となり、その後も貴族院議員、大日本医師会
会長、東京市教育会会長などの要職に就いた。息子はやはり医学者の高
木喜寛。

当時軍隊内部で流行していた脚気について、高木は海軍医務局副長就任
(1882)以来本格的にこの解決に取り組み、原因がある種の栄養素の欠乏
のためと高木は考えた。

そこで明治17年(1884年)軍艦筑波に、この前年、別の軍艦が行なった
遠洋練習航海と食生活以外は全く同じ内容で遠洋練習航海を行なわせ、
これら2度の遠洋航海における乗組員の食事の内容と脚気の発生率の関係を検証した。

脚気は細菌が引き起こす感染症であると主張していた陸軍医総監森林太
郎(文豪森鴎外)たちと学説上の対立し、森はいたるところで高木を非難
した。

しかし高木が主張した「白米の中に大麦を混ぜた麦飯食」で脚気を鎮め
ることができ、結果海軍は脚気の撲滅に成功したため、やがて高木の予
防法が普及することとなった。これは下瀬雅允による下瀬火薬の開発と
並ぶ日露戦争の際の日本海海戦の間接的な勝因と考えることもできる。

余談ながら明治天皇、皇后も脚気を患っておられたが高木の論で快癒さ
れた。高木は前後4度、天皇に陪食を賜った。森は1度も招かれなかった。

高木はこれらの功績により明治21年(1888年)日本最初の博士号授与者
(文学・法学・工学・医学各4名)の列に加えられ、医学博士号を授与
された。

さらに明治38年(1905年)に華族に列せられ、男爵の爵位を授けられた。この際、人々は(おそらくは)親愛と揶揄の両方の意味をこめて彼のことを「麦飯男爵」と呼んだと伝えられている。また、死去した直後に従2位の位と勲1等旭日大綬章が追贈されている。

英国での医学実習時の経験から看護職の専門家の養成にも力を入れ、看
護婦の育成教育にも力を尽くした。

南極大陸の南緯65度33分・西経64度14分に"Takaki Promontory"すなわち「高木岬」という岬があるが、これは彼の名にちなんで付けられた地名である。日本人で南極大陸の岬の名前になった人物は高木兼!)だけである。

なお、のちに鈴木梅太郎によって米の糠の中から抗脚気因子が発見され
「オリザニン」(=ビタミンB1)と名づけられた。オリザニンは世界で
最初に発見された「ビタミン」である。

最初に抽出、発見されたビタミンは、1910年、鈴木梅太郎により抗脚気
因子、オリザニンと名付けられた。しかし非西欧人故に認められずに、
翌年、ポーランド人カシミール・フンク Casimir Funk によって、VitalAmine→Vitamine(生命活動に必須のアミン)と名付けられた。ビタミンB1(チアミン)である。

参考書籍

吉村昭『白い航跡』上、下(講談社文庫、1994年)
上 ISBN 4-06-185679-0、下 ISBN 4-06-185680-4

関 亮『軍医サンよもやま物語 軍医診療アラカルト』(光人社NF文庫、1998年) ISBN 4-7698-2184-0

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・4・14


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