2008年04月25日

◆歌手小畑実の命日

渡部亮次郎

4月24日は朝鮮半島出身の演歌歌手小畑実の命日。2年前の原稿再掲。

戦前から甘く囁くような歌い方で大人気だった歌手小畑実(1923-1979)。
死後もファンクラブは解散せず、命日(4月24日)には必ず鎌倉の霊園で
偲ぶ会が開かれ、全国からファンが集まる。私のところにもCD8枚163
曲の全集がある。

朝鮮半島の平壌出身だったが、当時は自ら朝鮮人の出自を明かす事は歌
手にとって致命的だったため、秋田出身と公表していた。在日社会など
では出自は広く知られていたが、多くの日本人には死ぬまで秋田出身と
され、訃報にも韓国籍であった事実は一切、伏せられている。

14歳で来日し、苦学して昭和16年に日本高等音楽学院を卒業、江口夜詩
の門下となる。下宿先の大家の姓である小畑を貰い、出身地は東海林太
郎と同じ秋田という事にして、同年にデビューした。

秋田県人として一言いうと、小畑というのは秋田県北部に多い姓で、そ
の昔、小畑勇二郎という知事がいた。しかし秋田県内で小畑実の幼い頃
を知る人はいなかったので、小畑を秋田県人と信じる人は少なかった。

小畑が東京で姓を貰った下宿先の大家を継母に持った男性が赤色リンチ
殺人被害者の小畑達夫その人である。事件は日本共産党の宮本顕治らが
起こした

昭和18年にビクターに移籍し、「婦系図の歌」(現在は「湯島の白梅」)
「勘太郎月夜唄」が戦時下ながらヒット。勘太郎はやくざで戦時下なら
御法度なのだが、明治維新の協力者でもあったいう触れ込みで、吹き込
みが許可された経緯がある。

ところがこの勘太郎、稲垣浩という「無法松の一生」などで知られる映
画監督の愛称「イナカン」から作詞家の佐伯孝夫らが創作したもので、
実在の人物ではない。それなのに信州で勘太郎の墓発見などというガセ
ネタが流れたことがある。

戦後はテイチクからキングに入り、「長崎のザボン売り」「星影の小径」
などヒットを連発。長崎にザボン売りがいたわけじゃなく、作詞の石本
美由起が想像して作詞。それを江口夜詩が作曲してピアノの上に置いた
ら、弟子の小畑が「これ下さい」となって歌ったところ大ヒット。

横道にそれるが江口夜詩。(えぐち よし、本名江口源吾、1903年
(明治36年)7月1日 -1978年(昭和53年)12月8日)は、昭和期の作曲家。
長男は同じく作曲家の江口浩司(「下町の太陽」などの作曲者)

岐阜県上石津町(現・大垣市)出身。16歳の時、海軍軍楽隊に応募し、
第1期軍楽補習生として横須賀海兵団に入団。海軍軍楽隊専属の作曲家
としての将来を嘱望された。

海軍省委託生として、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に6年間通学
してチェロ等の音楽を学び、1925年(大正14年)、処女作『千代田城を
仰ぎて』を完成させる。

(渡部註:海軍としては将来の軍楽隊指揮者と期待して東京音楽学校(現
在の東京芸術大学)に6年間通学させていたのに、江口は勝手に辞めてし
まった。妻を亡くしたことと無縁ではない。)

また、1928年(昭和3年)には昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲
『挙国の歓喜』を発表した。

1931年(昭和6年)に海軍を退役し(実際は裏切って)、翌年、亡妻(よ
し子)をしのんで作曲した『忘られぬ花』が大ヒット。これを期にそれ
までクラシック作曲家を嘱望されていた江口は流行歌の作曲家の道を歩
むことになる。

その後『十九の春』、『秋の銀座』、『月月火水木金金』、『長崎のザ
ボン売り』、『憧れのハワイ航路』、『赤いランプの終列車』、『瓢箪
ブギ』など数々のヒット曲を生み出した。

生涯にわたる作曲数は4000曲を超え、古賀政男とは終生ライバル関係に
あった。

1963年(昭和38年)、パーキンソン病に冒され、長い間の闘病生活を余
儀なくされながら、1978年(昭和53年)12月8日死去。享年75。


主な作品

忘れられぬ花(1932年)
十九の春(1933年)
秋の銀座(1933年)
?希望の首途(かどで)(1934年)
急げ幌馬車(1934年)
夕日は落ちて(1935年)
憧れのハワイ航路(1948年)
長崎のザボン売り(1948年)
赤いランプの終列車(1952年)

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

ところで小畑は故郷で起きた朝鮮戦争(昭和25年)を嘆き「涙のチャン
グ」を発表(丘 灯至夫作詞、古賀政男作曲)したが、出自はばれなかっ
た。逆に作曲の古賀が少年の頃、朝鮮半島で育ったことから、長いこと、
在日韓国、朝鮮人から「希望の星」とはやされた、とご本人が語ったこ
とがある。

小畑はその後はコロムビアを経て26年にビクターに復帰。27年より3年
間、雑誌「平凡」で人気1位となるなど岡晴夫に次ぐ人気の地位を不動
のものにした。

岡晴夫の「憧れのハワイ航路」(作曲が江口)は元々、小畑の吹き込み
予定曲だったという話もある。

時の韓国大統領の李承晩とは昵懇で、献金を欠かさなかったという話も
ある。昭和32(1957)年にNHK紅白で「高原の駅よ、さようなら」を歌い引
退表明。この曲のレコードのピアノ伴奏は、作曲者の佐々木俊一(福島
県出身)が酔いにまかせて鍵盤を叩いたもの。

その後、昭和35年に正式に引退する。事業家としてラスベガスでホテル
経営に乗り出し、在日社会の関連で紡績会社の重役などにも就任、東京
・六本木でレストラン経営などもするが、44年に復帰し、「勘太郎いつ
帰る」「星のない渚」などを歌った。

51年からは「歌の行商人」として妻と日本中の街頭で自曲を歌ってレコ
ードを売り歩くという活動をしていた。54年4/24午後4時40分、千葉
県野田市の紫カントリーすみれコースで、ゴルフの最中に倒れ、同市内
の荒川外科病院に運ばれたが午後5時10分、急性心不全で死去。

当日は午前10時に1人でコースを訪れ、初対面の男性3人とまわってい
た。1ラウンドハーフの16番ロングホールのセカンドショットで倒れ、
キャディが駆けつけた時には意識不明だった。

このゴルフ場には月に5、6回来ていたという。住まいは港区六本木5
丁目のマンションだった。大変な愛妻家でもあり、年を取っても人前で
も新婚当初と変わらぬ様子を見せたという。 令夫人は健在で、2006年の
命日の集まりにも元気な姿を見せた。
 
昭和17年   婦系図の歌(藤原亮子と)
昭和18年   勘太郎月夜唄(藤原亮子と)
昭和23年   長崎のザボン売り
        小判鮫の唄
昭和24年   アメリカ通いの白い船
昭和25年   涙のチャング(朝鮮半島の打楽器)
昭和25年   星影の小径
昭和26年   高原の駅よ、さようなら

(以上、「流行歌と歴史のサイト」
http://www.geocities.jp/showahistory/index.html

「誰か昭和を想わざる」を大幅に引用したが、執筆者の欄には猫の顔が
あるだけで、不明である)2006.06.02

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック