2008年05月02日

◆百花斉放百家争鳴

渡部亮次郎

1956年5月2日、毛沢東は最高国務会議で「共産党への批判を歓迎する」として、「百花斉放百家争鳴」を提唱した。百花斉放とは様々な文化を開花させるという意味であり、百家争鳴とはたくさんの意見を自由に論争するということである。

毛沢東がこのような運動を始めた理由は過去さまざま論じられてきたが、定説は無い。毛沢東が自らの権威が揺らいでいると考え、劉少奇、ケ小平らの力を削ごうとしたためとも言われている。

あるいは作家のユン・チアンは、百家争鳴運動は始めから毛沢東が反対派を炙り出すための巧みな罠だったと断定している。渡部亮次郎も同じ意見である。

百花運動は党中央宣伝部長の陸定一らが担当し、国内の知識人の参加を呼びかけたが、それまでの弾圧などの影響であまり盛り上がらなかった。人民の大半は「罠」を感じたのである。

そこで1957年2月27日、毛沢東は「民主的諸政党」の代表者や中国共産党の幹部による最高国務会議を招集し、改めて中国共産党に対する批判を呼びかけた。

さらに1957年3月6日から13日にかけて全国宣伝工作者会議でもさらに中国共産党に対する批判を呼びかけた。

これ以後、知識人の間で中国共産党に対する批判が徐々に出始めるようになり、時がたつにつれてその批判は強烈なものに変わっていって今度は毛沢東を慌てさせた。

知識人たちは共産党が中華人民共和国を支配することにこともあろうに異を唱え始め、毛沢東の指導力まで公に批判するようになった。

当初、批判の場は「大字報」と呼ばれた壁新聞と、「座談会」と呼ばれた小規模な集会に限られていた。これは、批判の声に呼応して民衆が蜂起を企てることがないようにとの配慮であった。

運動の中で、ある教授は憲法を紙くず同然だと批判した。別の経済学者は共産党主催の公開批闘会が投獄されるよりもひどいものだと主張した。

劇作家は「芸術に対する『指導』は必要ない。だれがベートーベンを指導できるのか?」と述べた。共産党幹部の1人は「朝鮮戦争を始めとする外国への援助のばらまきをやめよ」と述べた。

「工業生産高のような情報さえ国家機密にしている現状を改善せよ」と要求する者もいた。挙句の果てに、党の機関紙である人民日報も党を間接的に批判するようになった。

百家争鳴運動は地方でも行われた。内蒙古大学のある教授は「モンゴル民族は固有の文化を持っており、むやみに漢化すべきではない」と主張した。逆に言えば、これまで周辺の占領地では、この程度の発言も許されていなかった。

1957年5月15日、毛沢東は批判続出の事態に危機を感じ、新聞に対して党の批判とあわせて「右派」に対する批判も行うように奨励し、党中央宣伝部長の胡喬木に対して「右派」を批判する準備を行うように命じた。

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