2008年05月23日

◆鈴木梅太郎の悲劇

                     渡部亮次郎

鈴木梅太郎(すずき うめたろう、1874年4月7日―1943年9月20日)は、
日本の農芸化学者。1910年、米の糠から抗脚気因子として世界初のビタ
ミンであるアベリ酸(のちにオリザニンと改名、ビタミンB1)を発見し
たにも拘わらず外国人に功績を先取りされた。

勲等は勲1等。東京帝国大学名誉教授、理化学研究所設立者。文化勲章
受章者ではあるが科学の世界では悲劇の人といわざるを得ない。医学者
ならざるが故にノーベル賞を逃した。

静岡県榛原郡堀野新田村]に、農業・鈴木庄蔵の次男として生まれる。農
科大学(現東京大学農学部)農芸化学科を卒業する。東京帝国大学教授
を務めるとともに理化学研究所の設立者として名を連ねる。東京帝国大
学を退官後は東京農業大学農芸化学科教授に就任している。

ビタミンの発見

1910年、米の糠から抗脚気(かっけ)因子として世界初のビタミンであ
るアベリ酸(のちにオリザニンと改名、ビタミンB1)を発見した。

しかし、このときの論文がドイツ語に翻訳される際、「これは新しい栄
養素である」という1行が訳出されなかったためオリザニンは世界的な
注目を受けることがなく、第一発見者としては日本国内で知られるのみ
となってしまった。

アベリ酸報告の当時は、東京帝国大学医学部を中心とする多くの医学者
の間で脚気感染症説が信じられていた。某医学者(青山胤通あるいは森
林太郎(森鴎外)のことともいわれる)は「農学者が何を言うか、糠が
効くのなら小便でも効くだろう」と非難したという。

しかし実際にこれによる脚気の治癒例が相次ぎ、脚気感染症説論者もオ
リザニンの効果を信じざるを得なくなった。ただし、森林太郎は死ぬま
で自説の誤りを認めなかったと伝えられている。

森は当時軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について細菌によ
る感染症との説を主張し、のちに海軍軍医総監になる高木兼寛(及びイ
ギリス医学)と対立した。

自説に固執し、当時陸軍で採用していた脚気対策の治療法として行われ
ていた麦飯を禁止する通達を出し、さらに日露戦争でも兵士に麦飯を支
給するのを拒んだ(自ら短編「妄想」で触れている)。

但し当時の医学水準上(ビタミンの未発見)麦飯食と脚気改善の相関関
係は科学的に立証されておらず、高木側は脚気の原因を蛋白質不足であ
るとしていた。

ともあれ結果的に陸軍は25万人の脚気患者を出し、3万名近い兵士を病死
させる事態となった(同時期、海軍では脚気患者はわずか87名。高木に
より食品と脚気の相関関係が予測され、兵員に麦飯が支給されたためで
ある)。

実に2個師団に相当する兵士が脚気で命を落とし、また戦闘力低下のため
に戦死した兵も少なくなく「(鴎外は)ロシアのどの将軍よりも多くの
日本兵を殺した」との批判も存在している。

日露戦争終戦直前、業を煮やした陸軍大臣寺内正毅が鴎外の頭越しに麦
飯の支給を決定、鴎外の面目は失われることとなった(寺内は日清戦争
当時、具申した脚気対策に麦を送れと言う要望を鴎外により握り潰され
た経緯がある)。「予は陸軍内で孤立しつつあり 」とは、この頃の鴎外
の述懐である。

後に鈴木梅太郎が脚気の特効薬であるオリザニン(=ビタミンB1)を発
見し、脚気との因果関係が証明されて治癒の報告が相次いだ。

はじめて詳しい化学実験をしたのは鈴木梅太郎であった。1910年,彼は
米ぬかから有効成分の単離に成功し,12年これにイネの学名 Oryza
sativa にちなんでオリザニンOrizanin と名づけた。しかし成果は世界
的に発表されなかった。

1年後の1911年,ポーランドのフンク Casimir Funk(1884‐1967)がロン
ドンのリスター研究所で米ぬかから鳥類白米病に有効な物質を発見した
と発表し,これに生命vita に必要なアミン amine という意味からビタ
ミン vitamine と名づけ、彼のほうが第一発見者と記録されてしまった。
日本の医学会が鈴木を妬んだからという説が有力である

しかしその後も鴎外はかたくなに鈴木および学会の見解を批判した。ま
た、赤痢菌を見つけた志賀潔らが脚気の栄養由来説を支持したこともあ
り、医学界でも脚気栄養起源説が受け入れられつつあった。


この頃より鴎外の医学界での孤立はますます深まった。結局、鴎外は死
ぬまで「脚気は細菌による感染症である」との自説を撤回しなかった。
脚気栄養起源説の国家としての見識が示されたのは鴎外の死の2年後であった。

鴎外を擁護する立場からは、下士官・兵達の「入隊したからには白米を
食べたい」という声があり、当時、麦飯は白米に比べ美味でないとされ
ていた(麦の精白技術が現代ほど発達していなかったため)こと(脚気
の歴史)を考慮すべきとの意見もある。

脚気細菌起源説は鴎外のドイツ留学実現に尽力した石黒忠悳の主張だっ
た。このため当時ドイツ留学が国費留学以外に不可能だったという事情
を考慮する向きもある。

なお、森鴎外も食事上の栄養価については考慮していて、日露戦争時は
新たに兵に十分な肉と野菜を与えるように指示していたが、脚気は細菌
に由来すると考えていたため、脚気を考慮していたものではなかった。

日露戦争では補給が滞り現地調達も困難であったため、米のみで熱量
(カロリー)を補給する事態となり、鴎外らによって麦飯の補給を止め
られた陸軍では、大量の脚気患者と死者を生み出す結果となったのであ
る。

『森鴎外全集』には医学に関する論文が多数収められている。また、な
ぜビールに利尿作用があるのか、といった研究も行っている。軍医であ
ったためか「情勢を報告する・させる」目的から「情報」という言葉を
考え出した人物とも言われる(異論もある)。

鈴木は1922年には合成清酒を発明している。これは1924年に「理研酒
『利久』」の名称で市販され、後の「3倍増醸清酒」開発の基礎ともな
った。

なお、『利久』は戦後、理研の合成清酒製造部門を継承した協和発酵を
経て、現在はアサヒビール(協和発酵がアサヒビールに酒類事業を譲渡)に引き継がれている。

出身地である静岡県では彼の業績を顕彰し、「鈴木梅太郎博士顕彰会」
が毎年県内の中学・高校生の優れた理科研究論文に対して「鈴木梅太郎
賞」を贈っている。静岡県立大学谷田キャンパスには鈴木の胸像や顕彰
碑が建立されている。出典:フリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)』        2008・4・17



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