2008年05月28日

◆国連ポストを敬遠?

                      渡部亮次郎

日本の初代国連大使は加瀬俊一(としかず)氏だと誤解している人が多い。加瀬氏は国連加盟後の初代大使。加盟に努力した初代大使がいた。沢田廉三氏である(1954年4月1日―1955年7月)。

妻の美喜(孤児院エリザベス・サンダースホーム創設者)は元三菱合資会社社長・岩崎久弥の娘で、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫娘にあたる。兄の節蔵も外交官。

第2次世界大戦を枢軸国の一員として戦った日本にとっての初代
国連大使であるが、在任中に日本の国際連合加盟を実現させる事は出来なかった。しかし、国連大使退任後には外務省顧問に就任し、1956年の日本の国際連合加盟実現に貢献した。

加瀬俊一氏1903年(明治36年)1月12日― 2004年(平成16年)5月21日)は第2次世界大戦前後に活躍した日本の外交官。国際連合加盟後初の国際連合代表部特命全権大使などを歴任した。
終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同字の別人である。外務省内では入省年度が早い(1920年入省)彼と区別するため「小加瀬」と俗称されていた。
4代目岡崎勝男氏(1961年6月ー1963年6月)は外務事務次官、内閣官房長官(当時は非閣僚)、外務大臣を務めた後、国連大使になった。珍しい経歴と経緯。

1945年10月幣原内閣が発足し、吉田茂が外相になると大幅な人事異動を行った。これを機に岡崎は辞表を提出するが、その身の処し方が吉田の印象に残ったとみえ、直接電話で呼び戻され、しばらく吉田のアシスタントのような仕事をしていた。

翌1946年第1次吉田内閣の発足とともに正式に外務省に復帰し、総務局長、事務次官を務める。この時に戦時中、ユダヤ人7000に勝手にビザを発給したあの杉原千畝に退職勧奨を行っている。

1949年第24回衆議院議員総選挙に、民主自由党から旧神奈川3区にて立候補し当選する。以後当選3回。

衆院外務委員長を経て、1950年第3次吉田内閣第1次改造内閣で内閣官房長官として入閣する。1952年には国務大臣として、米国ラスク国務次官補と交渉の上、駐留軍への施設提供・費用分担を取り決めた日米行政協定を締結した。

また。同年より外務大臣となり、1954年には日米相互防衛援助協定(MSA協定)を締結した。

このように、吉田対米協調路線の忠実な代弁者として、重要な協定の締結にあたってきたが、あまりに熱心過ぎたためか、1954年4月には日米協会でのスピーチで「米国のビキニ環礁での水爆実験に協力したい」と述べてしまった。

第五福竜丸被爆の悲劇の直後であったために国民の憤激を買った。吉田退陣後は1955年・1958年と続けて落選し、政界を引退する。

その後はアラビア石油相談役、国連大使(1961年―1963年)などを務めた。経歴からすると相当な「役不足」。さぞかし不満なNYの2年間だったことだろう。

その後を継いだのは松井明氏(1963年7月―967年7月)だったが、退任後に大きな話題を残した。

1980年頃に、昭和天皇とダグラス・マッカーサーの会見4回、マシュー・リッジウェイとの会見7回の通訳をした際の極秘メモを手記にまとめた。

侍従長入江相政に出版を止められ、1989年になってから著書にメモがある旨を書いた。1994年1月に産経新聞に手記がある旨を明かした。2002年8月5日に朝日新聞がそのメモの詳細について報道した。

私が外務大臣秘書官になったのは1977年11月だから、当時の国連大使は安部勲氏(1976年4月―1979年7月)。78年2月にNYで就任挨拶をさせていただいたが、伸びた鼻毛の先に鼻くそがついていて可笑しかった。それが退任後、宮内庁の式部官長になったのでまた可笑しかった。


波多野敬雄氏(1990年3月― 1994年4月)。当時は本省の官房総務課長。最後は国連大使で終わったが、波多野敬雄(はたの よしお、1932年1月3日―)は国連大使の後、第25代学習院長。前学習院長の田島義博の急逝に伴い選出された。

任期は前学習院長、田島義博の残任期間となる2006年6月1日から2008年9月30日までである。波多野敬直子爵の孫。

外務大臣(福田赳夫)秘書官事務取扱、1977年 福田赳夫内閣総理大臣秘書官になったのが小和田恆氏(1994年4月―1998年10月)
である。

小和田恆(おわだ ひさし、1932年9月18日―)チッソ元会長・江頭豊の娘婿であり、皇太子殿下徳仁親王の岳父にあたる。称号は、早稲田大学名誉博士(法学)。敬和学園大学名誉博士(哲学)。バーナラス・ヒンズー大学名誉法学博士(Doctor of Laws)。

新潟県新発田市に教育者小和田穀夫、静の次男として生まれた。本籍地は新潟県村上市。

旧制新潟県立柏崎中学校2年のとき、父の転勤により旧制新潟県立高田中学校に転校した。新潟県立高田高等学校を経て、1955年 東京大学教養学部卒業。同年、外務省に入省する。

以後、駐アメリカ公使、外務省条約局長、外務大臣官房長、OECD代表部大使、外務審議官、外務事務次官、国連大使などを歴任。2002年 広島大学学術顧問。

ハーバード大学客員教授、コロンビア大学法学部教授、ニューヨーク大学法学部客員教授などとして海外の大学の教壇に立った。2004年現在、国際司法裁判所判事、日本国際問題研究所理事長で、放送大学での講義も受け持っている 。

小和田氏は間違いなしに駐米大使と見られていたが、長女が宮中へお輿入れという異例な事態となったため国連に曲げられた。

その後の佐藤行雄、原口幸市両氏は故園田直外務大臣の秘書官だった。佐藤氏は鎌倉大仏の寺の息子さん。現在は国家公安委員である。

アメリカに赴任すれば、ワシントンにいる大使が一番偉い。しかし国連大使では、NYには大使に劣らぬ総領事もいるとあって何かと窮屈だろう。外交官はこのポストを避けたがるようだ。

日本の歴代国連代表部大使
(常駐代表のみ)

沢田廉三(1954年4月1日―1955年7月)
加瀬俊一(1955年7月―957年5月)
松平康東(1957年5月―1961年5月)

岡崎勝男(1961年6月ー1963年6月)
松井明(1963年7月―967年7月)
鶴岡千仭(1967年7月―1971年6月)

中川融(1971年6月―1973年8月)
斉藤鎮男(1973年8月―1976年4月)
安部勲(1976年4月―1979年7月)

西堀正弘(1979年7月―1989年2月)
黒田瑞夫(1983年2月―1986年5月)
菊地清明(1986年5月―1988年2月)

加賀美秀夫(1988年2月―1990年3月)
波多野敬雄(1990年3月― 1994年4月)
小和田恆(1994年4月―1998年10月)

佐藤行雄(1998年10月―2002年8月)
原口幸市(2002年8月―2004年12月)
大島賢三(2004年12月―2007年8月)
高須幸雄(2007年8月―)
出典:「ウィキペディア」 2008・05・26





この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック