杉浦 正章
「新党」の来月発足が決まったが、石原慎太郎の突然の結成表明以来1週間で出てきたものは、「数合わせの野合路線」にすぎない。石原本人は「小異を捨てて大同につけ」と呼びかけ、キャスチングボートを狙った第3極を目指す姿勢を鮮明にさせているが、自民、公明両党連立で過半数の政権獲得の流れにストップをかけることは難しいだろう。食われるのは民主党という流れだ。
文科相・田中真紀子が「かっこわるい暴走老人という感じだ」と形容したとおりだ。暴走老人が政界で浮いた感じが濃厚になってきている。驚くべきことは、石原が根回しもろくろくしないまま「新党」に突っ走ったことだ。よほど自信がないと出来ないことだが、4期も都知事をやると自分が「裸の王様」化していることが分からない。自分のカリスマがよほど高いと思い込んでいるに違いない。自信過剰だから大言壮語して「この指に留まれ」といえば皆付いてくると思い込んでいるのだろう。
政界の大勢は田中が「石原氏は約25年間も国会議員をしていた大臣経験者なのになぜその時しなかったのか」と指摘した通りで、さめている。国家戦略相・前原誠司は「全く別々の考えの人が選挙対策で『大同』と言うのは、国民をバカにした野合だ。基本政策は一致しないと、選挙互助会を広げるだけだ」と切り捨てている。政界に見切りをつけて飛び出し、また戻ってきても遅れてきた国粋主義者でしかない。
石原は健康診断の結果政界復帰に耐えうると医師が判断したと言うが、政治の世界はそんなに生やさしいものではない。週にたった2回の都庁出勤で済ませて、後はサボっていた都知事時代とは違う。小党とはいえ党首になれば連日の激務が待っている。
それを予感したかのように本人は「『暴走老人』は途中で死ぬかもしれないが、それでもいいと決心した」と述べている。80歳の高齢だ。「大丈夫」のみたては政治家の実態を知らないやぶ医者の判断ということにやがてなるだろう。
おまけに新党の母体となるたちあがれ日本も、2005年に自民党を離党した平沼赳夫らが2010年に結成して以来、党勢は伸びず、鳴かず飛ばずの状態。これに石原が加わっても、冷えたソース焼きそばにからしを加えた程度のものでしかない。胃に悪いのだ。
問題は他の小政党への広がりを見せるかだが、これも難題だ。石原は「小異を捨てて大同につくべきだ」と陳腐な発言を繰り返すが、小政党とはいえども政党は政策を基にしてなり立っている。このまま石原の“扇動”に乗ることの利害得失を考える。
みんなの党幹事長の江田憲司が30日「小異を捨てることはやぶさかではないが、消費税や原子力発電所の問題は決して小異ではない」と述べている通りだろう。それなりに真面目なのだ。日本維新の会代表の橋下徹が「完全に一致していると言えないのはエネルギー政策と憲法だ」と危惧の念を漏らすのももっともだ。
そもそも石原は反米、反中の核武装論者であり、現行憲法を破棄して徴兵制を導入しようという時代錯誤の国粋主義者だ。この原点をあえて無視して石原の掲げた指にとまれる政党があるのかということだ。さらに総選挙の争点となるであろう個個の重要政策でも主張が異なる。
石原は原発維持であるのに対してみんなと維新は脱原発。みんなは消費税凍結、維新は消費税の地方税化なのに対して石原は消費増税是認。維新の橋下は竹島の共同管理なのに対して、石原は武力奪還も辞さぬ構え。憲法破棄論の小政党はない。
これらの重要ポイントを抜きにして、維新やみんなが石原の下に集合するならまさに「大異をなおざりにして野合につく」ことになる。
しかし石原の旗揚げは維新もみんなも“利用価値”があることは確かだ。旗揚げにつられて低落傾向をたどってきた維新の支持率も世論調査によっては持ち直している。小政党はたとえ一過性であっても節操を捨てて石原の“活用”に走るかどうかの分かれ道だろう。しかし亀井静香が「石原さんは可哀想なことになる」と不気味な予言をし、小沢一郎が「大きな広がりになるとは思えない」と述べている通りだろう。
「遅かりし由良之助」は「仮名手本忠臣蔵」だが、石原新党には「遅かりし慎太郎」の言葉を差し上げたい。いずれにしても石原はブームを起こすには力量不足だ。
<今朝のニュース解説から抜粋> (政治評論家)