2018年07月14日

◆君が世完成記念日

渡部 亮次郎


国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認さ
れる以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になって
イギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌
「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の
林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)
年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」
完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)
により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれ
て、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範
に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説
を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおと
なりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の
春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』
と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知ら
ず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治
21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻
と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきな
く常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりな
き御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという
考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった
『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が
代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀
歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた
(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の
歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それ
まで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させる
べく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なよ
うに、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日
本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか
天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替え
て、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような
状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時
の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉
唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自
由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張し
た。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺
し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板
挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関
する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はした
ものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉
唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄
(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚
げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、
強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われてい
る。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがな
いわけではない。08・10.25{再掲)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2018年06月16日

◆のど自慢に出場したのだ

渡部 亮次郎


1946(昭和21)年のこの日、NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」が開始
され、それを記念してNHKが制定した。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関
だった。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。1946(昭和21)年のこの日、NHK
ラジオで東京)「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHK
が制定した。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関で
した。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。

私も高校生のころ、秋田市での大会に出場、合格した。受験戦争ムードに
反発したもの。歌ったのは「チャペルの鐘」

   作詞:和田隆夫
   作曲:八州秀章

1)なつかしの アカシアの小径は
 白いチャペルに つづく径
 若き愁い 胸に秘めて
 アベ・マリア 夕陽に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

2)嫁ぎゆく あのひとと眺めた
 白いチャペルの 丘の雲
 あわき想い 風に流れ
 アベ・マリア しずかに歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

3)忘られぬ 思い出の小径よ
 白いチャペルに つづく径
 若きなやみ 星に告げて
 アベ・マリア 涙に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

この歌を聞くと、なぜか札幌の時計台を思い出す。理由は分からない。で
もあれは時計台であってチャペルではない・・・。では「チャペル」とは
何ぞや? Wikipediaによると、「チャペル (Chapel) は、本来クリス
チャンが礼拝する場所であるが、日本では私邸、ホテル、学校、兵舎、客
船、空港、病院などに設けられる、教会の所有ではない礼拝堂を指してい
る。」
とある。どうも教会の礼拝堂はチャペルとは言わないらしい。結婚式場が
チャペルだ。

でもこの歌詞は、何とも淡い恋でいいな〜。(オジイサンには縁が無い
が・・・)

白いチャペルか・・・

フト、2年前の今頃、オーストリアに行って教会を見た事を思い出した。
ヨーロッパはどこに行っても教会だ。2年前は2週間掛けてオーストリアを
一周したが、オーストリアでも、どこに行っても尖塔の教会があった。中
でも有名で「これどこかで見た事がある・・」と思った教会が二つあっ
た。ハイリゲンブルートの教会とハルシュタットの教会である。この歌と
はあまり関係ないが、“絵になる”教会の写真を見ながら、岡本敦郎の歌を
聞くもの一興か?

大学を出てNHKで記者になった。

政治部所属に成ってある夜、新宿のスナックでうたっていたら、見知らぬ
男に声をかけられてびっくりした。「うちへ入りませんか」という。名刺
には「ダニー飯田とパラダイスキング」とあった。「政治記者から歌手へ
転身」というのがおもしろいというのだ。

記者の仕事が面白くてたまらない時期だったこともあって断った。

あれから50年。まったく歌う機会が無いままにすごしたから今では歌は聴
くものと心得ている。所蔵CD1000枚。2013・10・29

2018年06月15日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎


1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人397名を乗せて、東京
湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわい
た。なんと169名が「脚気」にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。
屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏に
よるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、
このあと28年間をまたなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にあり
とにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあっ
て「軍医大監」という要職にいた。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病と
いわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献を
した研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大
造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で
初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組
員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極
めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦
「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始
まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高
木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事
は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、た
だ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、
野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間
に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばか
り。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。
以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜
を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させるこ
とに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気
はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわ
け。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒さ
れた。明治天皇は高木を信頼され、何度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い
「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有
効であることはわかったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体に
ついては、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たん
ぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、
飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが
足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。
その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミ
ン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかっ
た。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタート
した鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明
治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経って
いた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニ
ン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつ
けたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポー
ランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米
ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離し
た」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見し
た物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたよ
うな形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落と
した25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミン
B1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者とい
うべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)

私が思うには、日本人が宗教上などの理由から、4つ足動物を食べる習慣
の無かったことも原因にある。特に豚肉はビタミンB1が豊富だが、日本
人は明治天皇が牛肉を食べて見せるまでは絶対に4つ足を食さなかった

2002年3月、2Ch上で、脚気をめぐって、時ならぬ森鴎外論争がおこっ
たことがある。

<日露戦争は1905年。 ビタミンBが初めて発見されたのは1910年。欧米の
学会で細菌説が否定されたのはもっと後。 高木兼寛が、日露戦争以前に
玄米を食することにより脚気が防げると 発見したのはすばらしいことで
あるが、具体的理論に乏しかったのである。>

<でも、明治前期から「具体的事例」は山ほど出てたよ。 明治天皇も玄
米の効用には気付いていた。「別に毒でもないんだし、効用があるなら食
べさせておこうか。 理由は後で追及しよう」という姿勢をとらずプライ
ドのために自分達の頭の中での学説を優先させたし高木らを誹謗した。森
一派は有罪。>

<海軍がらみの病気と言えば、ビタミンC欠乏で起こる壊血病が有名です
が、ビタミン Cの発見はビタ ミンB1より後です。 これは、原因は不明な
がらも、野菜や果実ないしこれらの絞り汁で予防・治療が可能だとわかっ
て いたのと、壊血病を起こす動物が限られている事などの理由で、実験
ができなかったことが影響しているそうです。(治療法が確立していたた
め、「学術的興味」のための人体実験などはできなかった。)

「具体的理論」などにこだわって治療法の確立を遅らせるのは、本末転倒
でしょう。 海軍の軍医として、食餌の不良が壊血病のように致命的な疾
病の原因になりうるという認識を持って いた高木氏が、「栄養上の問
題」という仮説を立てたのは、ごく自然な事に思えます。

このときに「不足している」と仮定したもの(タンパク質だったか?)
は、結果的には誤りだった訳 ですが、何の仮説もなく闇雲に行動してい
た訳ではない。

そもそも「細菌説否定」もなにも、細菌が原因であるという事自体が、確
たる根拠を持たない一仮説 に過ぎないわけです。 当時、日本人医師達と
の対談で、コッホが「細菌が原因かどうかという検討の前に、診断法を確
立し て、『どういう状態なら脚気なのか』を確定するのが先ではない
か」というようなアドバイスをした と聞きます。

これも、確たる根拠のないまま、「とにかく細菌が原因」という思込
みで突っ走るの を危惧したためでしょう。>

渡部註:日本でしか罹患しない脚気だったが、江戸時代から「江戸わずら
い」と言われたように、脚気は東京の風土病と疑われた時期もあった。

<脚気に麦飯や玄米が有効だという知見そのものは、高木氏の 独創では
ないです。 高木氏の功績は、多数の患者を出した航海の記録などから、
「栄養不良ではないか」という仮説を立てるとともに、具体的な給食改革
案を提示し実証したところだと思います。

それはともかく、森林太郎という人が非難されているのは、彼が自力で脚
気の 治療法を確立できなかったからではない。>

<日露戦争時といえば、海軍から脚気が消えてから久しくたっており、陸
軍でも 地方では独自に麦飯給食などをしていたそうです。

経験的にとはいえ予防法が一応認められていた時期に、敢えてそれを否定
する がごとき方針を押し通し、多数の病者を出したというのは、とても
「ミス」な どというレベルではない、「未必の故意」による犯罪行為で
しょう。 >

<1905年当時は、ビタミンのような希少栄養素という概念が無かった。近
代的な医学というのは、まだ始まったばっかりで コッホとパスツール
が、細菌の発見→純粋培養による特定という 手法を編み出し、初めて病気
に対して、近代的なアプローチが、とられるようになったばかりだ。

だから、当時の医学では病気というのは病原菌が元で発生するもの以外に
対する ものに対しては全く無力。 当時は、癌でさえ、寄生虫か病原菌で
発生するものだとまじめに考えられていた時代であった。

いまでも、何の根拠も無い民間療法で完治してしまう人がいるように 統
計的に明らかな改善があったからといって そのやり方が正しいとは一概
に言えないのが医学。

統計結果を基に効果を推測するには、プラシーボ効果をかんがみた上で
その影響を除去して考えなければならない。 然るにプラシーボ効果に対
する実証的な研究がなされたのは1954年以降のこと。 それまで、医学で
は統計的なアプローチというのはあまり当てにならないものとされてい

2018年06月13日

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎


若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる
鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々
たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁
として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸
の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付い
て保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスに
のっていただけだったので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不
足」を晒して途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やす
くに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現し
た>。


鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙
中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれ
て評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指
名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルに
いた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、
調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッ
ソリしていたので、マスコミの目を引いたことを覚えている。
病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方が
いいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えて
いた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約
1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なと
ころでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前
だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設
置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田
が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開
き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略
に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦
は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談す
るという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だ
という外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東
正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田を
またピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面
がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんて
どうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の
足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なん
だから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省
が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当る
か、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジ
ネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の
間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再
建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国から
の批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のな
か、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴とし
ていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く
受け「角影内閣」との異名をとった。>
日本大百科全書(小学館) (文中敬称略)

2018年06月10日

◆AI兵器開発、ドローン攻撃機

宮崎 正弘


平成30年(2018年)6月8日(金曜日)通巻第5720号 

AI兵器開発、ドローン攻撃機、ステルス戦闘機の開発競争で衝撃
  「中国はアメリカに追いつき、追い越しつつある」(ペンタゴン報告)

将棋の名人達がつぎつぎとAIに負けている。パターン認識において、
AIは疲れを知らず、健忘症もない。だから人間を超えることが出来るのだ。

このAIとビッグデータ技術を重ね合わせ、次世代兵器開発に血道を上げ
るのは、いうまでのないが、中国人民解放軍である。

昨秋11月、広東の「国際見本市」で展示されたCH5偵察機、ならびに無
人攻撃機ドローンは、関係者の度肝を抜くに十分なハイテク兵器の新型
だった。しかも中国製なのである。

5月初頭、習近平は人民解放軍を統括する中央軍事委員会において、兵器
開発の責任者であるエンジニア畑の幹部らを招き、秘密の会合を開催した
(アジアタイムズ、5月30日。ビル・ガーツ記者=ちなみにガーツは安全
保障関係のすっぱ抜きで有名なジャーナリストで前ワシントンタイムズの
辣腕記者)。

習近平と握手を交わしたのはリー・ディイ(音訳不明)中将らで、とくに
リーはAI兵器開発部門の責任者とされる。この軍事委員会での会合は殆ど
注目されなかったが、観察を続けてきたペンタゴンは「異様なスピードで
中国のAI兵器開発は飛躍的進歩を遂げている」と総括した。

AI、ビッグデータ、クラウドの開発に一貫した戦略的な整合性をもたせ、
無人攻撃機や戦車の無人化、ロボット兵士などの開発を急げと習近平は二
年前に軍に発破をかけていた。

この軍事委員会では、劉国治・少将が「AI兵器が近い将来、戦争のかた
ちを大きく変革するだろう」として、軍の科学技術部門を統括する。

楊衛(成都軍事アカデミー)はステルス戦闘機(J20)開発の責任者だった。

楊衛は「AI搭載の戦闘機は空中戦での優位を確保することになるだろ
う」と昨秋の兵器展示会で演説したという。

また深海を遊弋する無人の潜水艦にも攻撃力をもたせる技術の開発に余念
がない。


 ▲アメリカの優位性は崩れ始めている

すでにサイバー戦争においてアメリカの軍ネットワークも中国のハッカー
部隊の攻撃を受けているように、「将来、中国の巡航ミサイルにAIを搭
載した新型は(巡航中も)リアルタイムで地図や速度などを判断し、目的
を瞬時に変更したり出来るスグレモノになる」(中国軍兵器デザイナーの
王長慶)

ペンタゴンの専門家は口を揃えて、「AI技術によるインテリジェンスの
優位が中国側に確保されれば、ほかの如何なる分野で(アメリカが)優位
性を保とうとも忽ちにして軍事的意味を失う」と中国軍の異様な開発加速
の現実を脅威視している。

敵のモラルを分裂させ、士気を喪失させるのは第一撃でインテリジェンス
の優位を破壊することであり、電子戦争の第五世代ではベテラン兵士より
AI兵器が優れた機能を持ち、敵のデータベース破壊、通信網の寸断など
で、敵の指揮系統をずたずたに出来れば、戦争はどちらの勝利となるか、
火を見るよりも明らかだろう。

マティス国防長官は「こうした中国の開発状況を精密に分析し、これから
の米軍は、優先的に、この方面の準備を急がなければ、優位性が脅かされ
る」と2月の演説で警告している。

なぜ、アメリカの優位がいとも簡単に喪失したのかと言えば、シリコンバ
レーの私企業が、開発費用を掛けすぎて、新興のベンチャーキャピタルに
依存し、そのベンチャーキャピタルが、面妖な株主、多くは香港の実業家
を詐って、じつは中国軍の関係者であることによる。

すでに対米外交投資委員会(USFIC)の調査によれば、2013年から
2015「年の外国からの投資物件387件のうちの、74件が中国からだっ
た。全体2割である。


 ▲「ハイテクを無造作に売り渡す行為を、中国はバカかと嘲笑している
に違いない」

典型例はデラウエア州裁判所に会社更生法で訴えたシリコンバレーの
「Atop テクノロジー社」のケースだった。裁判の過程で、同社の買
収に乗り込んできたのは「アバター・インタグレィテッド・システム」と
いうわけの分からないファンド系企業、株主を調べると香港に登録されて
いた。

私企業のベンチャーは、連邦政府との契約関係がないため、裁判所の段階
で明るみにでるケースが多い。連邦政府や軍との契約がないからだ。

 「バラ園に侵入してきたブルドーザーのようだ」と譬喩するのはクリ
ス・ニコルソン(シリコンバレーでAI開発企業を創業した一人)は言
う。(サウスチャイナモーニングポスト、5月22日)

 「ハイテクを無造作に売り渡す行為を、中国はバカかと嘲笑しているに
違いない」と、議会で最も対中強硬派のシューマー上院議員が言う。
 この言葉でレーニンの譬喩を思い出した。「やつらは自分を吊すロープ
を売り渡している」とレーニンは西側の対ソ武器援助を嗤いながら受け
取った。

 「中国ば米国のハイテク企業買収を『投資の武器化』を目指して行って
いる」との譬喩は上院共和党院内総務のジョン・コ−ミャン(テキサツ
州)である。

 アメリカの対中警戒は本物なのである。

2018年06月07日

◆1億総白痴化は成った 

渡部 亮次郎


<1億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一(故人)がテレビの急速な普及を背景に生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いが強い。

元々は、1957(昭和32)年2月2日号の「週刊東京」(その後廃刊)における、以下の詞が広まった物である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い。」

又、朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。ここでも、作家の松本清張が、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない。」と述べている。

このように、当時の識者たちは、テレビを低俗な物だと批判しているが、その背景には、書物を中心とした教養主義的な世界観が厳然としてあったと考えられる。

書物を読む行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、その為には文字が読めなければならないし、内容を理解する為に自分の頭の中で、様々な想像や思考を凝らさねばならない。

これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといった事を指摘しているようである。>『ウィキペディア』

都会でもいわゆる井戸端会議を聞くとも無く聞いていると、テレビが放った言葉や映像はすべて「真実」と受け取られて居る。だから納豆を朝夕食べれば痩せる、といわれれば、ちょっと考えたら嘘と分りそうなものなのに、納豆買占めに走ってしまう。

識者はしばしばマスメディアが司法、立法、行政に次ぐ「第4の権力」というが、実態は、マスメディア特にテレビを妄信する視聴者と称する国民の「妄信」こそが4番目の権力ではないのか。

手許に本がないので確認できないが、若い頃読んだものに「シオンの議定書」と言うのがあり、権力(政府)がヒモのついた四角い箱を各家庭に配置し、政府の都合の良い情報で国民を統一操作するという条項があった。

<シオン賢者の議定書
『シオン賢者の議定書』(しおんけんじゃのぎていしょ、The Protocolsof the Elders of Zion)とは、秘密権力の世界征服計画書という触れ込みで広まった会話形式の文書で、1902年に露語版が出て以降、『ユダヤ議定書』『シオンのプロトコール』『ユダヤの長老達のプロトコル』とも呼ばれるようになった。

ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、ナチスドイツに影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたとも言えることから『最悪の偽書』とも呼ばれている。

1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン24人の長老」による決議文であるという体裁で、1902年にロシアで出版された。

1920年にイギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死(実際は伝染性の病気による病死)した為、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えている。

ソビエト時代になると発禁本とされた。現在、大英博物館に最古のものとして露語版「シオン賢者の議定書」が残っている。>『ウィキペディア』

議定書は19世紀最大の偽書とはされたが、19世紀末に既にテレビジョンの装置を予測し、しかもテレビを通じた世論操作を描いていたのだから、偽書を作った人物なり組織は天才的というほかは無い。

実際、日本では昭和28年のテレビ本放送開始とともに、大衆は力道山の空手チョップを通じて、電波の魔力にしびれていたが、あれから数十年、いまでは「テレビこそ真実」という妄想を抱くに至った大衆と言う名の「妄想」が権力と化している。

たとえばテレビがそれほど普及していなかった時代、政治を志す人間にとって知名度と言うものが、最大のウィークポイントとされた。名前を有権者にどれだけ知れ渡っているかが、勝敗の分かれ目であった。

しかし、今ではそれはテレビに出演することで大半を解決できる。まして出演を繰り返すことが出来れば「露出度満点」でたちまち知名度は上がる。大衆がとっくに白痴化してしまって「テレビは真実」と妄想しているから万全だ。

かくて政治はテレビ制作者に合わせた政治を展開するようになった。国会の予算委員会がNHKテレビのタイムテーブルどおりに運営されていることを見るだけで明らかであろう。

その実態に気付きながら自身は気付いてないフリをして5年間も政権を維持したのは、誰あろう小泉純一郎氏である。

成果が上がらないまま、大衆の人気が落ちてくると、テレビは「総理の支持率が落ちた」と放送し、大衆は更にテレビを信じて支持率を下げる、という何とか循環に陥りながら気付かない。自分自身で考えることを何故しないの。

なんで支持しないか、テレビがそういっていたから。どこがいけないかなんて、私分らない、テレビに聞いて、が実態じゃないか。

このように、大宅壮一や松本清張の指摘したテレビによる「1億総白痴化」はとうの昔に完成しており、日本と言う国はテレビに振り回される低級国家に成り下がってしまっているのだ。

したがって政治は真実からはなれてテレビを妄信する大衆の白痴状態に合わせた流れを辿ってゆくはずである。また若いも中年も思い描くと言う「痩せればもてる」信仰がある限り、関西テレビがいくら止めても「痩せる偽情報」はどっかのテレビから永遠に流れるはずである。

2018年06月06日

◆大丈夫なのか鮪(まぐろ)

渡部 亮次郎


私が鮪(まぐろ)を寿司や刺身で食べられるようになったのは、実は60歳近くになってからである。それまでは中国人のように「淡水魚には肝臓ジストマがいて毒だ」といわれて食べないでいるうちに、すべての魚をナマでは食べられなくなっていたのである。淡水魚の秋田県八郎潟沿岸で生まれ育ったからである。

長じて政治家に新橋、赤坂などで日本料理をご馳走になっても、刺身は残して芸者に不思議がられて恥ずかしかった。

それが或る時、60近くになった時、友人に都内の飲み屋に引っ張られて入ったところ、料理は刺身は刺身しか無いといわれて鮪の赤身をたべてみたら抜群に美味かった。以後、刺身好きになり、誘われれば寿司屋にも喜んでゆくようになっている。

余談だが、毛沢東は生魚は食べなかったが、なぜか晩年は好んで生魚をたべたという。悪妻江青の策謀に乗せられたのではないか、肝臓ジストマにかかる前に死んだからばれなかったという説もあるが、江青も死んだ今となっては永遠の謎だ。

ところが今の中国人は日本人の長命の理由は生魚にあると見たのか、盛んに鮪を生でたべるようになって。われわれ日本人の胃袋を脅かすようになった。

以下「ウィキペディア」を引用する。

中国都市部で日本食ブームが起きている。それもマグロ需要が急増し、日本の漁獲減少の隙を突いて、中国漁船による活動が拡大し、競争が激化している。

また、乱獲防止と資源保護のため漁獲量が2割減が決まりさらに高騰するといわれる。そのために近年では世界中でマグロの代替品が増えている。

過去、米国およびオセアニアでは、脂身であるトロは商品的価値・需要が低かったので、日本の商社はトロを安価で購入することが出来た。ところが、近年の日本食・「sushi」ブームの影響で欧米でもトロに対する需要が起こり、かつてのような値段では購入出来ない状況にある。

また、1990年代後半には台湾で、2000年代に入ってからは中国で、日本食を中心とした海産物の人気が高まり、中国向けの漁獲が急増しているため、競争はますます熾烈になっている。

前述のように相対的な個体数が少ない上に需要増加・価格高騰が拍車をかける形で世界中でマグロが乱獲され、国際的な資源保護が叫ばれている。絶滅が危惧される生物を記載したIUCNレッドリストには、マグロ8種のうち5種が記載されている。

過激な保護運動を行う環境団体には、クジラ並みにマグロ漁禁止を求める強硬派もいる。こういった国際的な動きに対して、日本は2001年から02年にかけて、水産業界を中心に不利な規制が多数決で押し通される恐れがあると「中西部太平洋マグロ類条約」の準備会合をボイコットした。

だが、結局2004年に日本抜きで発効され、翌年に日本が加盟することになった。食糧農業機関(FAO)水産局長の林司宣(早大教授)は日本は世界中の海でマグロを取りまくっていながら、規制強化には後ろ向きだ、という悪いイメージを与えたとしている。

その後、2010年3月、ドーハでのワシントン条約締結国会議において21世紀初頭の個体数が1970年代と比較して90%減少したタイセイヨウクロマグロの附属書Iへの掲載の是非について審議が行われたが、18日の採決では大差で否決された。

マグロ価格高騰と天然物の漁獲量低下の追い風もあり、蓄養による養殖の出荷量は増加している。低コスト化・安全性向上の他、トロの割合を多くし価値を高める研究も行われている。

クロマグロの蓄養は、幼魚が黒潮に乗って回遊してくる西日本各地で行われている。蓄養マグロの出荷量は、1位の鹿児島県が2位の長崎県以下を大きく引き離している。完全養殖による生産は始まったばかりであり、現在流通している養殖のマグロはほぼ蓄養によるものである。

これに対し稚魚の乱獲になるという批判もある。

2002年に近畿大学水産研究所が30年余かけて、商業化に向けて研究を続け世界で初めてクロマグロの完全養殖に成功、2004年には市場へと出荷が開始された(近大マグロ)。

近畿大学は和歌山県串本町の大島実験場と奄美大島の奄美実験場を拠点に技術開発を進め、稚魚の生産が増えたことと稚魚の輸送技術が確立された事などから、2007年12月から自身の完全養殖稚魚(人工孵化の第三世代)を他の蓄養業者に出荷する事業を開始。

2009年には約4万匹の稚魚を育成、内約3万匹を養殖業者へ出荷している(4万は日本の海で漁獲されている幼魚の10分の1の量)。今後は、2010年現在3から5パーセントの稚魚の生存率を10から20パーセント程度に向上させるのが目標となっている。

また、マルハニチロは2015年に約1万匹出荷を目指して完全養殖に取り組んでいる。東京海洋大学では、移植によってサバにマグロの精子を作らせることより、マグロを量産する方法の研究を進めている。

日本人は古くからマグロを食用とし、縄文時代の貝塚からマグロの骨が出土している。古事記や万葉集にもシビの名で記述されているが、江戸の世相を記した随筆「慶長見聞集」ではこれを「シビと呼ぷ声の死日と聞えて不吉なり」とするなど、その扱いはいいものとはいえず、腐敗しやすいことも相まってむしろ下魚とするのが普通であった。「大魚(お
ふを)よし」は、「鮪」の枕詞。

江戸時代の豊漁の際、腐敗を遅らせるためにマグロの身を醤油づけにした「ヅケ」が握り寿司のネタとして使われ出したのが普及のはしりとい
う説がある。

近代以降も戦前までは大衆魚で、主として赤身の部分が生食されていた。北大路魯山人は「マグロそのものが下手物であって、一流の食通を満足させるものではない」と評していた。

脂身の部分である「トロ」は特に腐敗しやすいことから猫もまたいで通る「猫またぎ」とも揶揄されるほどの不人気で、もっぱら加工用だったが、冷凍保存技術の進歩と生活の洋風化に伴う味覚の濃厚化で、1960年代以降は生食用に珍重される部位となった。

なお、マグロの品質が低下しない冷凍温度帯は-30℃以下であり、実際の流通上では-50℃の超低温冷蔵庫に保管する。なお、一度解凍したマグロを再凍結すると組織が破壊され、非常に質が劣化する。

1995年の統計では、世界のマグロ漁獲量191万tに対し、日本の消費量は71万t。そのうち60万tを刺身・寿司等の生食で消費している。加工品では「ツナ」もしくは「シーチキン」(商標名)と呼ばれるサラダオイル漬けの缶詰が多い。

日本の各県庁所在地での家計調査によると、一世帯当たりのマグロの購入量は年々減少している。消費率はマグロ水揚げ日本一の静岡県および隣接する山梨県、関東地方が上位を占める。

一方で西日本の数値は軒並み低く、食文化の相違がみられる。 2012年1月6日、築地市場で青森県大間産のクロマグロ(269キロ)が5649千万円の史上最高値で落札された 。

近年の史上最高値更新は、2001年に青森県大間産2020万円(202キロ)、2011年に北海道戸井産に3249万円(342キロ)となっていた。

2018年06月05日

◆ある筈ない民主化中国

渡部 亮次郎


中国の「漁民」が尖閣諸島に攻めてきて以来「経済の改革があったのだから政治も改革、民主化になぜなら無いのか」と良く質問される。

それに対する私の答えは「カネが溜まっただけ人民に対する統制はきつくなり、比例して民主化は遠くなります」。

経済の開放(外資導入)と改革はトウ小平の若い時からの夢だった。しかし経済の改革開放をやれば政治の改革開放が不可避であり、それは共産党独裁の否定に繋がるから古い指導者たちはこぞってトウを避けようとした。

トウの3度に及ぶ失脚は、それぞれに理由は別だがそのそこで共通しているのは改革開放思想。「黒猫でも白猫でも鼠を良く捕る猫がいい猫」思想である。

3度目の失脚のときは既に老齢でもあったが、毛沢東がやがて死ねば自分が天下を取り、改革開放路線を実現する事は夢では無いことを信じて自らを鼓舞していた。幸い周恩来の変わらざる支援により命永らえ奇跡の復活を遂げた時、毛沢東は既にこの世になかった。

田中角栄内閣で締結を公約しながら、田中内閣は勿論、三木内閣でも実現しなかった日中平和友好条約の締結について中国の動きが俄然、積極的になってきたのは、この頃である。

福田内閣で官房長官から外務大臣に横滑りした園田直(すなお)はNHK記者だった私を秘書官に起用する一方、剣道の弟子で中国で育った民間人を「使者」として北京にしばしば派遣、旧知の廖承志周辺の動きを探った。

その結果、復活したトウ小平が党の主導権をとり経済の改革開放に舵を切り替えつつあることを確認できた。日中平和友好条約締結への積極姿勢も、ここに鍵のあることを確認できた。

以後、中国は日本の外資導入を梃子とし、経済の改革開放政策により、今や日本を抜いて世界第二位の経済大国になありつつある。だからアメリカを初めとする西側の政治、経済学者は今度は政治面での民主化を予想したいところだが、これは絶対望みは無い。

民主化すれば経済原則上、不要な共産党は否定される。彼らは排除され抹殺されること必定である。彼らが人民にしてきたことを今度はそのまま適用される。だから中国共産党は政治の民主化は絶対行なわない。

経済の改革開放にとって共産党は邪魔以外の何物でもないから政治に対して賄賂で打開する以外に無い。したがって共産党は損じする限り賄賂が自動的に転がり込む。構造的賄賂の舞い込む天国を捨てる共産党「皇帝」などいない。民主化は反革命の成就後だ。

2018年06月03日

◆生魚を食い尽くすか中国

渡部 亮次郎


中国人は肝臓ジストマ(肝吸虫)を恐れて生魚を絶対食べなかったが、最近は海の魚には、それがいないと知り、太平洋のマグロを日本と競り合っている。

肝臓ジストマ病は淡水魚に寄生している肝吸虫によって起こされる症状で、胆管炎、黄疸、下痢、肝腫大などを起こし、重症となれば生命にかかわるから、淡水魚を生で食べてはいけない。

それなのに晩年の毛沢東は好んで淡水魚を生で食べたそうだ。四人組に連なった悪妻江青が早死にを企んでそう仕向けたのかどうかまでは知らない。

九州で有名だった医者が肝臓ジストマにやられ、国会進出を断念した事件があった。川魚の生なんて食べたことが無いのに、というのだが、調べたら、熊の肉を生で食べたことがあった。熊が山の水溜りで沢ガ二を食った。沢ガニにジストマが寄生していたのである。

肝吸虫は人間に入ると、血管の中を泳ぎ回って成長し、やがて心臓を襲うのだ。だから中国人は揚子江(長江)や黄河で捕れる魚を生では食べなかった。

ところが、国交正常化後、日本にやってくる中国幹部。政府がもてなす料亭で、メイン・デッシュたる刺身を拒否するわけにはいかない。外相黄華氏が中トロ1切れを必死の形相で呑みこむのを見たことがある。1970年代、中国人はまだ刺身を恐れていたのだ。

中国残留孤児の親探し。1回目の一団が訪れたとき、”事件”が起きた。厚生省(当時)の担当者たちが気を利かしたつもりで、昼食に寿司をだしたところ、一行は顔を真っ赤に染めて中国へ直ちに帰ると騒ぎだした。

中国人は冷たい飯と生魚は絶対に食べないことを知らなかったのだ。日本人なのだから寿司は懐かしいだろうと軽く考えたのだ。知らないとは恐ろしいことなのだ。

余談。彼らは飯を電気で炊くことを知らなかった。それを知らない日本側が電気釜を銘々にプレゼントしたところ、宿舎で火事騒ぎをおこした。ガス台に電気釜を載せて点火してしまったのである。私は当時、大臣園田直の秘書官だったから、これがマスコミに漏れないように務めた。
2011・10・08

2018年06月02日

◆4人目の金日成

渡部 亮次郎


金日成が偽者だったこと、金正日の生地が実は白頭山なんかで無い事は、はたして定説化しているといえるか。いや、初耳だと言う人のほうが圧倒的に多いのではなかろうか。嘘は何時までも繰り返すと真実になってしまうのだから。

ある日本の外務大臣経験者が、生前、口癖のように言っていた。北朝鮮の今の金日成というのは別人じゃないのかね、本物はとっくの昔に死んでいるはずだよ、と。

この人は、日華事変から大東亜戦争に掛けて11年間もアジア各地で戦っていたという猛者で特に満洲(今の中国東北部)での戦歴が長かった。

彼によると、金日成は昭和10年代に既に50代であったはず。激しい抗日戦を仕掛けてきていたが、1945年8月15日までには死んだとされていた。

ところが1948年9月9日に成立した朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の初代首相として登場したのが死んだはずの金日成だったので偽者だとピンときたというのである。

日本外務省外交資料館などの編集による「日本外交史辞典」の金日成の項では「この人の経歴については、不明な部分がおおく、いわゆる4人目の金日成といわれるが・・・」と逃げを打ちながら「普通に言われる経歴に従って」として「まとめて」いる。

ところが、ここに大変なことを経験してきたライター萩原遼(ペンネーム)が登場する。昭和12年、高知県生まれの日本共産党員。長じて朝鮮語に通じ、日本共産党の機関紙「赤旗」の平壌特派員となるが、国外追放処分に遭った後、退職。

その後米国ワシントンに滞在、国立公文書館に秘蔵されている北朝鮮の文書160万ページを3年がかりで読破した。その結果を「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀」(文芸春秋)として刊行。

この中では朝鮮動乱はやはり北が仕掛けたものだったこと、マッカーサーはそれを事前に知っていたが、韓国には知らせなかったことを明らかにした。

更に改題した「朝鮮戦争と私 旅のノート」(文芸春秋文庫)で偽者金日成の経緯を明らかにしているのである。

ソ連(当時)軍幹部らによると、金日成の本名は金成柱。名乗っていた仮名が金一星(キムイルソン)と発音が金日成将軍と一緒なだけ。日本軍に追われてソ連のハバロフスクに逃げ、息子金正日もそこで生まれた。

多くの生き証人がいる。特に金正日に母乳を与えていた女性は北京に健在である(200年4月10日現在)という。

それなのに金星一を金日成将軍だと偽って北朝鮮建国の日に平壌に連れて行ったのはソ連である。

だが50歳以上のはずが壇上の首相は僅か33歳の若造だったので「偽者だ!」と人々は叫んで帰りかけたものだという。また息子をわざわざ生地をハバロフスクではなく白頭山としたのは、そこが聖地であり、将来の後継者として権威付けるためだったという。

2018年05月08日

◆角さんは糖尿病だった

渡部 亮次郎


肩書きを言うより「角さん」で通っていた田中角栄氏。脳梗塞により75歳
で逝去した。若いころからの汗っかきは「バセドウ病」のためと周囲に説
明していたが、実は糖尿病持ちだったことは隠していた。だから脳梗塞を
招いたのだ。

彼が自民党幹事長だったころ私も彼を担当したが、糖尿病で医者通いをし
た事実はなかった。ところが、彼が首相を辞めた後会ったところ「あん時
は血糖値が400にもなった」としゃべりだした。

「文春で立花隆に書かれたことには堪えなかったが児玉に書かれた佐藤昭
(あき)とのとを連日真紀子(娘)にわーわーいわれて参っちゃった。血
糖値も400まで上がるしな」と糖尿病を発症していたことをうっかり告白
してしまった。

おなじく糖尿病から「合併症」としての心筋梗塞で死亡した政治家に大平
正芳がいる。同じく首相を務めて死んだが年下の角栄を「兄貴」と呼んで
政治的にすがっていた。大平は甘党だったが、糖尿病と真剣にむきあって
はいなかった。

ちゃんとインスリン注射をしていれば総理在任中70の若さで死ぬことはな
かったはずだ。もっとも当時は今と違ってインスリン注射を患者自身がす
ることは厚生省(当時)の「省令」で禁止されていたから多忙な政治家が
連日医者通いをすることは無理だった。

この大平の無二の親友だった伊東正義も糖尿病だった。外務大臣当時は政
務秘書官も糖尿病だった。伊東はしかし医者通いをちゃんとしていたから
80まで生きたき。インスリン注射を怠ると寿命を10年は縮めるといわれて
いる。

糖尿病にともなう網膜症のため国会の代表演説の原稿を大きすぎる字で書
いてきて有名になった田中六助は心筋梗塞で死んだが、まだ62歳と若すぎ
た。医者通いをしていなかったのではないか。まず眼底出血して網膜をや
られ、最後に若くして死んだことがそういう推測を招く。

日本で糖尿病患者のインスリン自己注射を許可したのは昭和56年厚生大臣
園田直がはじめてである。それまでは日本医師会の反対を歴代厚生大臣が
おしきれなかったためである。

このときの園田氏はすでに1回目の厚生大臣の後、官房長官、外務大臣2期
の末という実力者に成長していたためか日本医師会も抵抗はしなかった。
禁止の「省令」は廃止された。

結果、「テルモ」など医療器具メーカーの競争が活発になり、たとえば注
射器が小型化してボールペン型になった。針も極細になり、
いまでは0・18mmと世界一の細さになった。また血糖値の事故測定器の
小型のものが発明されて便利になっている。

これらはすべて園田さんの決断の賜物だが、その園田さん自身は若いころ
からの患者であり、患者の苦しみを知るが故に自己注射許可の決断をした
のだった。わたしは秘書官として側にいたからよく見ている。

患者によっては医者に一日3回も注射のため医者に通わなければならない
人もいた。1日に医者に3回!!仕事ができない。自覚症状としては何もな
い病気とあれば医者通いをやめて早死にをずる不幸をまねく例もおおかった。

そうなのだ。大決断をした園田さん自身はその恩恵に浴することなく70の
若さで死んだ。そう武道の達人も注射の痛さを嫌いインスリンから逃げて
いたのだ。腎臓が機能しなくなり「腎不全」で死んだ。(2013・7・13)

2018年05月03日

◆お邪魔虫共産党

渡部 亮次郎


中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引き
もきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しい
ものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り
人権尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済
の改革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。
特にアメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし
た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、
とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆
で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ
た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋
介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和
24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中
国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主
主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公
社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施したが、農民は生産意欲の低
下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から
4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が
経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と
は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ
る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政
治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件
には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外
の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は
障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外
に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで
あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す
るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体
制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に
すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知
るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下
ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が
左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5

2018年04月25日

◆生魚を食い尽くすか中国

渡部 亮次郎

中国人は肝臓ジストマ(肝吸虫)を恐れて生魚を絶対食べなかったが、最近は海の魚には、それがいないと知り、太平洋のマグロを日本と競り合っている。

肝臓ジストマ病は淡水魚に寄生している肝吸虫によって起こされる症状で、胆管炎、黄疸、下痢、肝腫大などを起こし、重症となれば生命にかかわるから、淡水魚を生で食べてはいけない。

それなのに晩年の毛沢東は好んで淡水魚を生で食べたそうだ。四人組に連なった悪妻江青が早死にを企んでそう仕向けたのかどうかまでは知らない。

九州で有名だった医者が肝臓ジストマにやられ、国会進出を断念した事件があった。川魚の生なんて食べたことが無いのに、というのだが、調べたら、熊の肉を生で食べたことがあった。熊が山の水溜りで沢ガ二を食った。沢ガニにジストマが寄生していたのである。

肝吸虫は人間に入ると、血管の中を泳ぎ回って成長し、やがて心臓を襲うのだ。だから中国人は揚子江(長江)や黄河で捕れる魚を生では食べなかった。

ところが、国交正常化後、日本にやってくる中国幹部。政府がもてなす料亭で、メイン・デッシュたる刺身を拒否するわけにはいかない。外相黄華氏が中トロ1切れを必死の形相で呑みこむのを見たことがある。1970年代、中国人はまだ刺身を恐れていたのだ。

中国残留孤児の親探し。1回目の一団が訪れたとき、”事件”が起きた。厚生省(当時)の担当者たちが気を利かしたつもりで、昼食に寿司をだしたところ、一行は顔を真っ赤に染めて中国へ直ちに帰ると騒ぎだした。

中国人は冷たい飯と生魚は絶対に食べないことを知らなかったのだ。日本人なのだから寿司は懐かしいだろうと軽く考えたのだ。知らないとは恐ろしいことなのだ。

余談。彼らは飯を電気で炊くことを知らなかった。それを知らない日本側が電気釜を銘々にプレゼントしたところ、宿舎で火事騒ぎをおこした。ガス台に電気釜を載せて点火してしまったのである。私は当時、大臣園田直の秘書官だったから、これがマスコミに漏れないように務めた。