2017年07月21日

◆鈴木善幸内閣誕生の経緯

渡部 亮次郎



2007年6月12日は総理在職中に急死した大平正芳さんの28回目の命日だっ
た。朝日新聞政治記者だった国正武重氏が最近著した「権力の病室 大平
総理最期の14日間」(文藝春秋)を読んで、その死を改めて回想すると共に
「後継総理 鈴木善幸」と叫んだ田中角栄氏の判断は瞬時だったなぁと思
い出した。

私は当時、既に大平内閣の外務大臣(園田直)の秘書官を退任(1979年11月8
日)、一代議士に戻った園田氏の私設秘書をしていた。1980年5月30日には
第12回の参院選挙が公示されたが、その初日に大平総理は倒れた。

入院先は国家公務員の指定病院としても名を知られた東京虎ノ門病院。発
表された病名は過労が引き金となったと考えられる「狭心症」だったが、
予ねて総理が自分と同じ糖尿病を持病としていることを知っている園田氏
は「いやぁ心筋梗塞の1回目の発作だよ」と主張して譲らなかった。

果たして死後、解剖の結果は当にその通りだったわけだが、心筋梗塞の発
作だとすると、近いうちに2回目の発作があるはずで、絶命するだろう、
と早くから言っていた。

園田氏は30歳代で2型糖尿病を発症している。糖尿病のDNAを遺伝により所
持しており、暴飲暴食、運動不足、肥満によって発症する。酒を嗜まな
かったが、豆大福や焼き芋が大好き。3番目の結婚となった天光光(てんこ
うこう)さんとの結婚直後から大肥満。多分、これが引き金となって発症
したはずだ。

糖尿病患者は最終的にはインスリンというホルモンを毎日、1回から3回、
注射で体内に補給する必要がある、口から入れても胃液(酸)で無効になる
からである。しかし、武道の大家も何が嫌いって注射ぐらい嫌いなものは
無いという人。

この後、生涯2度目の厚生大臣になり、患者が自分で注射できるよう、厚
生省令の改正を決断するが、その恩恵に浴する事は無かった。理由は後述。

問題の12日は、私は都合で都心のホテルに泊っていたが、午前2時ごろ、
園田さんから電話があり「ナベしゃん、総理が亡くなったらしいよ、調べ
てよ」という。なんでも信仰している新興宗教の教祖に霊感があったとい
うのだ。

古巣のNHK政治部に電話してみたが何も入っていない。結局は午前6時41分
になって「5時54分逝去」が発表されてわかったが、やはり大平さんは午
前2時25分に本当は絶命していた。後は蘇生が試みられたが空しかったと
いうことだったのだ。

5:54 総理死去。立ち会ったのは志げ子夫人、伊東官房長官、田中六助副
幹事長、森田一秘書官、次男裕氏夫人、三男明氏夫妻ら。

5:55 鈴木善幸党総務会長
6:15 田中角栄氏
6:35 西村副総裁。桜内幹事長。

園田氏も遺体に対面した。午前7時ごろだったろう。彼は私を伴って「こ
れから目白(田中角栄邸)へ行こう」と言った。予ての大福密約に従って、
首班指名では嘗ての親分福田赳夫氏に背いて大平さんに投票したために福
田派を除名されていた園田氏。政界「はぐれ鴉」なんて揶揄されていた。
目白に行くしかなかった。

しかも誰かに奨められて痩せるためと称して利尿剤を多用。急激に体重を
落としたため、人相が変わるほどやせて久しぶりTVの前に姿を現したた
め、マスコミは悪い噂を立てた。

田中氏とのサシの会談は1時間に及んだ。園田さんは明るい顔に変わって
出て来た。後継総理には大平派の番頭鈴木善幸氏を推進することで意見の
一致を見たと言うのである。

「政界闇将軍」と「政界はぐれ鴉」で一致した「鈴木善幸総理」案は政界
で誰一人予想しない奇想天外。もちろん鈴木さんご本人も岩手の漁師が総
理大臣になんて想像したこともなかった。衆議院議長は目指していたが。

しかし乃公出でずんば(だいこう いでずんば)=この俺様が出ないで、
他の者に何ができるもんか=と言ってきた福田氏も、今回は大平急死の下
手人呼ばわりされる中では、田中闇将軍の仕掛けに抗する術はなかった。
あれよあれよと言う中で鈴木内閣は平穏のうちに発足した。郵政、農林の
閣僚経験しかなく、長く自民党総務会長としての地味な活動しかして来な
かった政治家だけに、外国人記者は口をそろえて言った。Zenko Who?

園田氏は鈴木内閣には入閣しなかった。しかし3ヵ月後の9月に入って、女
性の子宮や卵巣の摘出手術を乱発していた埼玉県の富士見病院事件が起
き、ここから齋藤邦吉厚生大臣が千数百万円もの献金を受けていた事が発
覚して辞任。

むかし厚生大臣の経験があり、すぐにも国会答弁で野党に対処できるとの
鈴木派の栗原祐幸氏らの推薦で園田氏が後任に決まった。大平内閣の外務
大臣を退いてから10ヶ月ぶりだった。私はまた秘書官に引っ張り出された。

さらにその8ヵ月後、今度は伊東正義外務大臣が途中退任、後任に園田厚
生大臣が横滑りを命ぜられた。1981年5月18日、杉並区富士見が丘のNHKグ
ランドで記者クラブとソフトボールの親善試合をしている最中だった。

この頃から園田さんの身体に糖尿病の合併症が表れるようになった。
腎臓の機能が極端に弱り、浮腫みが酷くなりだした。終いには顔も浮腫む
ようになって閣議で驚かれたりした。

インスリンの患者自己注射を許可すれば、衛生材料メーカーは競って注射
器を携帯用に小さくしたり、針を細くして痛みが軽くなるように研究する。

実際、あれから30年、針の細さは0・2ミリと世界一。毛の細さだから殆ど
痛くない。だが許可が遅れたために大平さんも園田さんもその恩恵には浴
せ無いまま、共に70歳にして糖尿病のためこの世を去った。2007・06・17

2017年07月20日

◆のど自慢に出場したのだ

渡部 亮次郎

1946(昭和21)年のこの日、NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」が開始
され、それを記念してNHKが制定した。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関
だった。
今でも12倍を超える人気長寿番組とか。1946(昭和21)年のこの日、NHK
ラジオで東京)「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHK
が制定しました。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関で
した。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。

私も高校生のころ、秋田市での大会に出場、合格した。受験戦争ムードに
反発したもの。歌ったのは「チャペルの鐘」
   作詞:和田隆夫
   作曲:八州秀章
1)なつかしの アカシアの小径は
 白いチャペルに つづく径
 若き愁い 胸に秘めて
 アベ・マリア 夕陽に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る
2)嫁ぎゆく あのひとと眺めた
 白いチャペルの 丘の雲
 あわき想い 風に流れ
 アベ・マリア しずかに歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る
3)忘られぬ 思い出の小径よ
 白いチャペルに つづく径
 若きなやみ 星に告げて
 アベ・マリア 涙に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る
この歌を聞くと、なぜか札幌の時計台を思い出す。理由は分からない。で
もあれは時計台であってチャペルではない・・・。では「チャペル」とは
何ぞや? Wikipediaによると、
「チャペル (Chapel) は、本来クリスチャンが礼拝する場所であるが、日
本では私邸、ホテル、学校、兵舎、客船、空港、病院などに設けられる、
教会の所有ではない礼拝堂を指している。」
とある。どうも教会の礼拝堂はチャペルとは言わないらしい。結婚式場が
チャペルだ。
でもこの歌詞は、何とも淡い恋でいいな〜。(オジサンには縁が無い
が・・・)
白いチャペルか・・・
フト、2年前の今頃、オーストリアに行って教会を見た事を思い出した。
ヨーロッパはどこに行っても教会だ。2年前は2週間掛けてオーストリアを
一周したが、オーストリアでも、どこに行っても尖塔の教会があった。中
でも有名で「これどこかで見た事がある・・」と思った教会が二つあっ
た。ハイリゲンブルートの教会とハルシュタットの教会である。この歌と
はあまり関係ないが、“絵になる”教会の写真を見ながら、岡本敦郎の歌を
聞くもの一興か?
大学を出てNHKできしゃになった。
政治部所属に成ってある夜、新宿のスナックでうたっていたら、見知らぬ
男に声をかけられてびっくりした。「うちへ入りませんか」という。名刺
には「ダニー飯田とパラダイスキング」とあった。「政治記者から歌手へ
転身」というのがおもしろいというのだ。

記者の仕事が面白くてたまらない時期だったこともあって断った。
あれから50年。まったく歌う機会が無いままにすごしたから今では歌は聴
くものと心得ている。2013・10・29




2017年07月19日

◆鰻は冬が美味なのだ

渡部 亮次郎



土用の丑の日や夏バテ予防に食べられるが実際はウナギの旬は冬で、秋か
ら春に比べても夏のものは味が落ちる。「夏バテ防止の為に土用の丑の日
に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平
賀源内が考案した広告コピーが基との説がある。

しかし夏バテを防ぐためにウナギを食べる習慣は、日本では大変古く、万
葉集にまでその痕跡をさかのぼる。すると源内が言い出すまで、夏バテ
云々は廃れていたのかもしれない。

うなぎは高タンパクで消化もよく、日本料理の食材としても重要で、鰻屋
と呼ばれるウナギ料理の専門店も多い。

皮に生息地の水の臭いやエサの臭いが残っているため、天然、養殖を問わ
ずきれいな水に1日〜2日いれて、臭みを抜いたものを料理する(泥抜き・
臭み抜きと呼ばれる)。

1970年代、大阪勤務の頃は昼飯時、上ニ(上本町2丁目)にあった小さな
うなぎ屋に入り、割いて焼く筋を見ながら堪能した。東京のように蒸さな
いので脂が多く、美味しかった。

近畿地方ではウナギのことを「マムシ」と呼ぶが、これはヘビのマムシと
は関係なく、鰻飯(まんめし)が『まむし』と訛り、それが材料のウナギ
に転用されたものである。

他に、関西での調理法(正確には浜松以西)の特色である、蒸さずに蒲焼
にして、飯の上に乗せた上に更に飯を乗せて蒸らす「飯蒸し」(ままむ
し)から来たという説、飯の上にウナギやたれをまぶすものとして「まぶ
し」が転じたとの説もある。

また、ウナギという名前については鵜飼の時に、鵜が飲み込むのに難儀す
ることから鵜難儀(ウナギ)となったという江戸の小噺がある。

徳川家康の時代に江戸を開発した際、干拓によって多くの泥炭湿地が出
来、そこに鰻が棲み着くようになったため鰻は労働者の食べ物となった
が、当時は蒲焼の文字通り、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺し
て焼いただけ、という食べ方で、雑魚扱いだった。

鰻が現在のような形で一般に食べられるようになったのは江戸後期から
で、特に蒲焼は江戸発祥の料理であることから、江戸の代表的食物とされる。

蕎麦ほど徹底した美学はないものの、「鰻屋でせかすのは野暮」(注文が
あってから一つひとつ裂いて焼くために時間がかかる)、「蒲焼が出てく
るまでは新香で酒を飲む」(白焼きなどを取って間をつなぐのは邪道。し
たがって鰻屋は新香に気をつかうものとされた)など、江戸っ子にとって
は一家言ある食べものである。

うなぎは日本全国に分布するが、日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで
東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、
湖などだが、内湾にも生息している。

濡れていれば切り立った絶壁でも体をくねらせて這い登るため、「うなぎ
のぼり」という比喩の語源となっている。

細長い体を隠すことができる砂の中や岩の割れ目などを好み、日中はそこ
に潜んでじっとしている。夜行性で、夜になると餌を求めて活発に動き出
し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。

従来ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の
深海ということもあり長年にわたる謎であった。

火野葦平の小説に産卵場所を求めて主人公と恋人が南海に泳いで行く作品
があった。昭和20年代に、確か毎日新聞に連載された。その当時は産卵場
所は分からなかった。

しかし2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授が、ニホンウナギ
の産卵場所がグアム島沖のスルガ海山付近であることをほぼ突き止めた。

冬に産卵するという従来の説も誤りで、現在は6〜7月の新月の日に一斉に
産卵するという説が有力である。

うなぎの人工孵化は1973年に北海道大学において初めて成功し、2003年に
は三重県の水産総合研究センター養殖研究所が完全養殖に世界で初めて成
功したと発表した。

しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用がかかり成功率も
低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚に
なるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。

自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接つながっており、養殖
産業自身も打撃を受けつつある。

2007年EUがヨーロッパウナギの絶滅が危惧(きぐ)されシラスウナギの輸
出規制する方針を発表しワシントン条約締約国会議でEU案が可決、規制が
確定した。

これにより中国経由の輸出規制が始まる。また、台湾も日本への過大な輸
出に対して現地の養殖業者などが輸出規制を要望している。

日本側も国産シラスウナギで成り立っている業者と輸入物に頼る業者の対
立があり一致した意見表明ができない状況になっている。その為、全般的
にうなぎ価格の高騰は避けられないとされる。

2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に
発ガン物質が検出されたとして輸入方法を変更した。今までは検査なく輸
入可能であったが、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。

中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう交渉中である。検出さ
れた物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験で発ガン性
が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質であった。

マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたこと
がある。うなぎの日本国内消費量10万トンのうち6万トンは中国産であ
り、これをきっかけに日本国内でのうなぎの売れ行きは激減した。出典:
フリー百科「ウィキペディア」2007・11・16


2017年07月17日

◆日中正常化同行取材記

渡部 亮次郎
       


日中国交正常化40周年とか。確かにNHK政治記者時代、総理官邸取材
チームのサブキャップだったので、交渉のため北京を初訪問する首相・田
中角栄に同行した。

この正常化が果たして正しい選択だったか、その後の外務省のフォローが
正しかったかなど、評価は様々だろうがとにかく36歳のときのこと。忘れ
去る前に、思い出の記を残しておきたい。

中国の公衆便所には仕切り板もドアもなかった。万里の長城を訪れたとき
のこと。其処の公衆便所に入って驚いた。学校の体育館みたいな板敷きの
広いところに細長いアナが何十もあいていて仕切りもドアも無い。底に
しゃがんで用を足せというのだ。

前にしゃがんでいる男の尻をみながら用を足せ。自分の尻も後ろから見ら
れているのは当然である。

「記者」とかカメラマンは政権の敵である。反革命分子も潜り込んでいよ
う、殺し屋も潜んでいるかもしれない。何しろ国営通信社新華社の人間以
外は「敵」である。

偉い人に数m以上近付く記者は「近距離記者」。「遠距離記者」は20m以
上は近付いてはならない。日本人記者とて田中首相にやたら近づいてはな
らん。

カメラの望遠レンズは事前に中国側の点検を受けなければいけない。中に
銃が仕込まれていないとは限らないからだ、という。

やたらチップをやってはいけない。もらう人間はいないからだ。ところが
西日本新聞の記者が運転手に金張りダンヒルのライターをさしだしたとこ
ろ、人目のないことを見て取ってすばやくポケットにしまいこんだ。

1972年北京市内にはタクシーがまだ走っていなかった。万里の長城へ行く
バスに乗り遅れてしまった。共産党から特別に車を出してもらったがこち
らは中国語が喋れない、相手は日本語がわからない。それでも何とか車を
出してもらったのは、フランス語が通じたからだった。40年経ってフラン
ス語はすっかり忘れたが。

その車は時速40Km以上は出なかった。それでもバスに追いついた。バス
は40Km以下だったのだ。

5分も走ったら郊外に出た。肥えたごかつぎにであった。記者団のバスが
通過したからと許可が出たのだろう。

私に付いた通訳は石家荘から動員された小母さんだった。平かなが書け
た。なぜかと聞いても答えなかった。彼女ら通訳を通じて日本側記者の言
動は逐一、上部に報告されているものと承知していた。

「そろそろ粥がたべたいな」とつぶやいたら翌日の朝食が粥だった。

北京でも上海でも生水を絶対飲んではいけない。猛烈な下痢をおこす。だ
から同行記者団は一様に遠足よろしく、水を背負っていった。(それから
35年後、このことを忘れ、杭洲で水割りウィスキーを呑んで下痢。遂には
低血糖に陥り死にかけた)。

田中首相・大平外相・二階堂官房長官が毛沢東の「謁見」を許されたと知っ
たのは翌朝。中国側が用意したカラー写真を配られて初めて知った。真夜
中の3時ごろだったらしい。その数時間後に何十枚ものカラー写真を制作
する能力があったとは、今も驚きだ。「宣伝」には特別長けているのが中
国共産党。

一行は上海にも一泊。そのときはじめて「大衆」と出合った。彼らが戦後
初めて目にする「敵」日本人。明らかな敵意を感じた。2012・9・28

2017年07月16日

◆世の中を見る目

渡部 亮次郎



私に最も強い影響を与えた人は河野一郎、園田直、重宗雄三。いずれも政
治家である。私は大学に行ったが、友人は少なかった。NHKで20年近く暮
らしたが、まともな先輩は後に会長になる島 桂次と政治部長になる飯島
 博だけだった。

この中で政治家を見分ける手段を教えてくれたのは島である。島は海軍兵
学校から東北大学を経てNHKに入局。初任地仙台から盛岡
を経て東京政治部。

私は大学こそ違ったが仙台、盛岡を経て政治部という島と全く同じコース
を辿って島と会ったのだ。だが、島はそうしたことに無関心だった。つま
り「島派」の結成に無関心だった。

それで政治部長になれず、番組部門の部長に飛ばされてから、逆に参議院
クラブにいる私をしばしば訪ねてくるようになって、親しく話した。

政局はフィルターをかけて見なければいけない。ある推論で政治家を見直
すのだ。福田赳夫が佐藤栄作の後継者と目されているが、それは本当か、
佐藤が角栄に傾く事は無いか、カネで福田を見捨てることはないか。

今だったら小沢がまた党代表選挙に立つ事は本当にあり得ないか。
自民党の古手の連中と「大連立」の約束を取り付けて新自由党を立ち上げ
る事はあり得ないか、考えてみろ、と言うだろう。

菅は政権にしがみつくといっているが、果たして可能か。不可能だという
フィルターをかけて見てみろと言うに違いない。島にかかれば「角福戦
争」で角栄は福田を保護している佐藤首相にカネを積むんじゃないかとも
見ていた。

島は、単独会見しか信用しなかった。「不特定多数の記者の前で本音を語
れる、度胸のある政治家なんていない。特定の相手にしか話さないのが人
間の本性だ。だから記者会見を信用する奴はバカだ」

しかし、今の記者諸君は記者会見を頭から信用して紙面やテレビに流す。
単独会見を試みようともしないようだ。だから見通しをしばしば誤る。菅
や仙谷が例のビデオを隠してまで日中首脳会談の実現にはしる「愚」を止
める記事を書けない。

自慢話と受け取られたら不本意だが、昭和40年代に総選挙の投票日を的中
させて報道局長賞を受けたことがある。

NHK政治部の体勢は幹事長田中角栄の言う説を真実と放送したが、
その時佐藤首相と向かい合った角栄が緊張して椅子に極めて浅くかけてい
たといった国対委員長園田直の話から、角栄は投票日の決定を佐藤から一
任されていない証拠とみた。

そこで園田氏にどう見るか尋ねたところ「総理は縁起を担ぐから大安に拘
るよ」だった。この主張が後に真実となり「訂正記事」が報道局長賞と
なったのだった。(敬称略)2010・11・14

2017年07月13日

◆五輪担当大臣の貫禄 

渡部 亮次郎



メルマガ「頂門の一針」の常連投稿者に指摘されて、先にといっても1954年以
開かれた東京オリンピック当時、担当大臣故・河野一郎の担当記者だった
ことを久々に思い出した。

と言っても1964年7月の人事異動でNHKの盛岡放送局から東京の政治部
へ発令され、河野大臣を苦手だといって誰も担当したがらない。田舎者の
あいつに回そうというので河野担当になった。事情は後から知った。

記者会見に出かけて名刺を差し出したらろくに見もせず、もてあそび、そ
のうち紙飛行機に折って飛ばしてしまったのには、おどろいた。記者を怖
がっていた田舎の県会議員とは大分、違うなと覚悟した。

何か質問あるかい、というからした。「大臣の右目は義眼だと言ううわさ
がありますが、本当でしょうか」と聞いた。相手を見つめるときすが目に
なるからである。すると「君はどこの社の記者だ」と言うからNHKだと
答えて叱られるのを覚悟した。

ところが違った。「君は記者の誰も聞かなかったことを良くぞ質問してく
れた。ほれ、このとおり義眼ではないよ」目を剝いて見せた。なるほど毛
細血管も走っているから義眼ではない。

翌朝、恵比寿の私邸に行き、門の脇で待っていると出てきた河野さんが私
を手招きする。近くまで行ったら「乗んなさい」という。驚いた。政治家
の専用車に同乗することを政治記者連中は「箱乗り」と言い、政治家は余
程気に入った記者で無ければ乗せないことになっている。

河野一郎自身自分を「実力者」と言い、記者たちは勿論、自民党内からも
畏怖されていた。だからこそ過去に前例の無い無任所にして東京五輪の担
当大臣を池田勇人首相から任されたのである。

その恐ろしい実力者が、どこの馬の骨とも知れぬ記者をいきなり箱乗りさ
せるとは当に驚きだった。しかしこの待遇は終始続き、最期は夫婦2人き
りの夕飯の席に呼ばれるまでに成った。

小田原に生まれて早稲田大学では箱根駅伝の選手として活躍、卒業後は朝
日新聞の政治記者。間もなく神奈川から代議士に当選して政界入り。かの
吉田茂とは激しい党内対立を繰り返しながらついに鳩山政権を樹立。日ソ
正常化を達成。


フルシチョフ首相とも対等な交渉を成し遂げ、ついに実力者に成長した。
池田首相もそこを見込んで史上初の東京五輪の担当大臣を任せることが出
来た。

いま政界を見渡してもあれだけの實力者はいない。これは世界の変化に伴
うものであり、日本の平和が長続きするからであり、小選挙区制度が政治
家を小物のしたと思わざるを得ない。 

河野さんはアルコールを一滴も飲めない体質だった。それを知っていてフ
ルシチョフはウオッカを飲むよう強要した。河野さんは「国家のため、死
んだ心算で飲み干した。体が火照り眩暈が止まらない。「あの時は死ぬか
とおもった」と言っていた。

東京オりンピックの翌年夏7月8日、剝離性動脈瘤破裂のため自宅で死去。
まだ67歳だった。2015・8・3


2017年07月12日

◆デュポンの始めは爆弾屋

渡部 亮次郎



1990年代はビジネスその他で盛んにアメリカを訪れた。ワシントンと
ニューヨークが多かったが、或る時、ニューヨークからワシントンへ列車
で向かう途中、フィラデルフェアで下車した。アメリカ人の友人一家を訪
ねるためである。

NYから山中の一軒家に越してきた友人の仕事は経済評論家だが、コン
ピューターを駆使すればNYになんか居なくても平気だというので、当時は
仰天したが、今となってみれば至極真っ当な話だった。窓の外を狐がヒョ
コヒョコ駆け下りていった。

翌朝、デュポンの邸だったところを案内すると言う。デュポンってライ
ターの会社かと聞いたらいや爆弾屋だという。まぁ後学の為だ、行ってみ
よう。

ニューヨークとワシントンDCのちょうど中間あたりにあるデラウエア州の
Brandywine Valleyと呼ばれる地域だった。広大な庭園に囲まれた邸宅・
ウィンタートゥア(Winterthur)があった。園内は日本の皇居ぐらいの広さ
だ。案内のバスが定期的に走っている。

ここは、デュポン(Du Pont)社の創業一族が3世代にわたって住んだ邸宅
で、その名称は一族に関係するスイスの地名からとられたという。

現在では、美術館として公開(有料)されており、建物自体ももちろんだ
が、その中に展示されている米国家具や陶磁器・銀器などの装飾美術品で
知られている。

邸宅本体には、何と175もの部屋があり、ガイド付きツアーで見て回る仕
組みになっている。ダイニング・ルームのテーブルの上、食器棚の中、暖
炉の上、展示用のガラスケースなどに、多くの陶磁器が展示されているの
を見ることができる。しかしこっちは興味ないからあまり中は見なかった。

ギフト・ショップもあった。ビジターセンター内にある店は書籍中心だっ
た。柱時計が売っていた。1時間ごとに鳥が啼く仕掛けで、庭園内にすみ
ついている鳥とか。少なくとも12種類はいると言うことだ。

邸宅、ギャラリー、庭園、(さらには図書館も)と回っていると、1日が
かりになってしまう。何かのついでに、というわけにはいかない」。
http://www2.gol.com/users/emakigu/MuseumWinterthur.htm

私が訪問したのはGW中で、あの時は躑躅がいたるところで満開だった。

説明によれば、デュポン家の別荘には競馬場が2つあるとか。そんな金持
ちなのに、当主については不名誉な事件が起きていたらしいが確認できな
いから書かない。いずれカネの下敷きになったと言うところだ。

一体、デュポンとは何者なのか。デュポン(Du Pont、NYSE:DD)は、世界
第2の化学会社である(世界最大はダウケミカル)。

米国法人である E. I. du Pont de Nemours and Company (イー・アイ・
デュポン・ドゥ・ヌムール・アンド・カンパニー)はデラウェア州ウィル
ミントン市にある。創業は1802年。

資本金は7,935,000,000ドル。創業者はフランス出身のエルテール・イレ
ネー・デュポン。メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカの3大
財閥と称される。

フランス革命を避けて一家で移住したエルテールは、アントワーヌ・ラ
ヴォアジエに師事した後、黒色火薬工場としてデュポン社を設立。

徹底的な品質管理と安全対策、高品質によりアメリカ政府の信頼を勝ち取
り、やがて20世紀に入りダイナマイトや無煙火薬などを製造するように
なった。

南北戦争期や西部開拓時代に成長し、アメリカ最大の火薬メーカーとなる。

第1次世界大戦・第2次世界大戦では火薬や爆弾を供給したほか、マン
ハッタン計画(原爆開発)に参加し、テネシー州のオークリッジ国立研究所
でウラニウムやプルトニウムを製造するなどアメリカの戦争を支えた。

また草創期の自動車産業に着目し、1914年にはピエール・S・デュポンは
1908年に創業したゼネラルモーターズ(GM)に出資した。後に彼は社長に
就任し、彼の指揮とデュポン社の支援の下、ゼネラルモーターズは全米一
の自動車会社へと成長した。

また、GM支援とは別に、1919年から1931年にかけては、自社での自動車製
作も行った。エンジンは主にコンチネンタル社製を使用した。

しかしシャーマン・アンチトラスト法によって1912年には火薬市場の独占
が、1950年代にはGM株の保有が問題視され、火薬事業の分割やGM株放出な
どを強いられている。

1912(大正元)反トラスト判決によって3社に分割。1915(大正 4)デュポ
ン・ド・ヌムール社、設立。

1920年代以降は化学分野に力を注ぎ、1928年には重合体(ポリマー)の研
究のためにウォーレス・カロザースを雇い、彼のもとで合成ゴムやナイロ
ンなどを発明した。

1931(昭和 6)ネオプレン(合成ゴム)、1935(昭和10)ナイロン、1944(昭和
19)テフロン(フッ素樹脂)などを開発。

さらにテフロンRなどの合成繊維、合成樹脂や農薬、塗料なども研究・開
発し取り扱うようになった。2世紀にわたる歴史の中で、M&Aを繰りかえす
典型的なアメリカのコングロマリット企業といえる。

デュポン社は化学製品の開発を通じてアポロ計画の成功にも寄与し、その
研究開発の熱心さや新素材開発への貢献は高く評価されている。

しかし過去には火薬やナイロン製品などを大量に軍へ納入しているほか、
化学兵器や核兵器開発に関与するなど、戦争ビジネスで財を築いた死の商
人としての側面もある。

また環境問題でもデュポン社の製品が問題になったことがある。例えばテ
フロン製造に伴い使用されるペルフルオロオクタン酸(C-8)の健康への
危険性(発がん性など)を隠して作業員などに健康被害を起こしたことで
合衆国の環境保護庁(EPA)に訴訟を起こされた。

また、ゼネラルモーターズとともにフロン類(クロロフルオロカーボン、
CFC)の発明・製造を行い、長年にわたって市場シェアの多くを占めてきた。

オゾン層破壊と温室効果が問題になった1980年代末になってデュポンは
CFCの製造販売からの段階的退出を表明したが、1990年代半ばまで製造を
続けていた。

その後はハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)、ハイドロフルオロ
カーボン(HFC)などの代替フロン開発を進めCFCからの置き換えのリー
ダーシップをとっているが、HCFCやHFCにも高い温室効果があることが問
題視されている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)』2007.04.18


2017年07月11日

◆佃煮にするほどある

渡部 亮次郎



佃煮出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イカナゴの佃煮。佃煮(つくだに)とは、海産物を砂糖と醤油で甘辛く煮
付けた日本の食べ物。とりわけ小魚、アサリなどの貝類、昆布等の海藻
類、山地ではイナゴ等の昆虫類などを醤油・砂糖等で甘辛く煮染めたもの
をこう呼ぶ。シソやゴマなどを加えることもある。牛肉の佃煮も目にす
る。ご飯と一緒に食べると美味とされる。


歴史 [編集] 佃煮の由来

ご飯のおかずとして載せられたイカナゴ佃煮江戸時代、徳川家康は名主・
森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師を
江戸に呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて
住まわせた(東京都中央区佃島。

佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小
魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた。雑魚がたくさ
ん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、保存
性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が
江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まったとされる
[6][5][4]。

なお、以上の説に対しては異説もある。

1858年(安政5年)に青柳才助が創始したとする説
1862年(文久2年)に鮒屋佐吉が創始したとする説
日本橋の伊勢屋太兵衛が創始したとする説
大阪・住吉明神を江戸・佃島に住吉神社として分霊したが、その祭礼では
雑魚を煮詰めたものを供えていた(?油煮説と塩煮説がある)。このこと
から、住吉神社に雑魚を煮詰めたものを「佃煮」として供えたことに由来
するという説。

1877年(明治10年)の西南戦争の時には、政府軍から軍用食として多量の
佃煮製造が命じられた。1894年(明治27年)の日清戦争でも、多量の佃煮
製造が命じられ、多量生産が行われるようになった。戦後、帰宅した兵士
は戦場で食べた江戸前佃煮になじんでおり、これは一般家庭の副食となり
日常食となっていった。

現代では、佃煮の素材や味付けの種類が増えると共に、包装の工夫により
販売や保存が楽になったことから、消費は益々ふえていった[8]。

各地の産地

今では全国各地に佃煮の産地がある。小豆島は、醤油の産地でもあり佃煮
が多く作られている。特に昆布の佃煮が全国一となるなど佃煮産業が盛ん
である。広島市でも佃煮製造が行われており、1904年(明治37年)から
1905年(明治38年)の日露戦争で広島が陸軍の橋頭堡となった事から軍需
に支えられていたという背景があり、1898年(明治31年)に楠原政之助が
広島市中区にて漬物佃煮の缶詰を製造し販売された[9][10]。焼津市は鰹
の佃煮生産高が高く、地域によっては特徴のある製品が製造販売されてい
る。

製法

昆布の佃煮。現在一般に市販されている佃煮は、うす味、甘口で保存性は
以前ほど高くは無い。真空包装の物や、要冷蔵の佃煮が多い。増粘安定剤
などが加えられていることがある。

本来の江戸前佃煮とは、常温で夏でもおにぎりや弁当に入れても傷まない
辛口のものが安心で重宝された。現在も数件だが、職人の技により手造り
の旧来の味付けの佃煮も受け継がれている。

2017年07月10日

◆脳卒中予防のために

渡部 亮次郎



脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所
に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、
新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。
先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えな
いから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本人の死亡原因
の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的に
も昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、
その内訳をみると、この40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと
変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今
後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要に
なる。

脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における
「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血
脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身
のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また
活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血
脳は、くも膜という膜でおおわれているが、くも膜と脳の表面との間にあ
る小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧が上がった時などに破れて
出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。

頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通 常お
こらない 。

脳梗塞
動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来
た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。
長嶋茂雄氏など。私も軽い症状を体験した。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり
破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄氏など

突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、
多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、
半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血
脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こし
ます。少し横になっていれば治りますが、脳梗塞の前駆症状と考えられて
おり、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験、入院・加療した。

73歳の朝、起きて暫くしても、左手小指の先の痺れが治らない。心臓手術
がきっかけで医療に詳しくなったNHKの同僚 石岡荘十さんに電話で相
談。「脳梗塞かもしれないよ」という。

そこでかかりつけの病院に行って申し出たら「脳梗塞患者が歩いてこれる
わけが無い」と取り合ってくれなかったが、「念の為」と言って撮った
CTで右の頚動脈の詰まっているのが判って即入院。1週間加療した。

後に石岡さんの助言に従ってかかった東京女子医大神経内科の内山真一郎
教授によると、このときに念を入れて加療してもらったのが大変よかった
そうだ。

なぜならこれを脳梗塞の前兆と見ないで放っておくと、直後に本格的に脳
梗塞を起こしてしまうからとのことだった。爾来、内山教授の患者になっ
ている。

高血圧性脳症
高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭
痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもある。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれ
ば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、
今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにし
て詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。

2011年になって新薬「プラザキサ」が許可になった。2012年4月から処方
期間が延びたのでこれに替えた。納豆を食えるようになった。

それでも卒中になったらどうするか。私の場合はプラザキサを服用中のた
め使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助か
る薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時
間を過ぎていたからtPAを注射しても無駄だった。右手と言葉に後遺症
が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決
めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になってい
る。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。

私の場合はかかりつけの東京女子医大病院か近くの都立墨東病院に決めて
いる。2012・7・19執筆

2017年07月09日

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎



若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる
鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々
たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁
として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸
の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付い
て保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスに
のっていただけだったので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不
足」を晒して途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やす
くに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現し
た>。


鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙
中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれ
て評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指
名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルに
いた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、
調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッ
ソリしていたので、マスコミの目を引いたことを覚えている。

病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方が
いいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えて
いた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約
1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なと
ころでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前
だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設
置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田
が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開
き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略
に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦
は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談す
るという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だ
という外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東
正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田を
またピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面
がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんて
どうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の
足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なん
だから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省
が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当る
か、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジ
ネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の
間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再
建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国から
の批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のな
か、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴とし
ていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く
受け「角影内閣」との異名をとった。>
日本大百科全書(小学館) (文中敬称略) 2010・4・4

2017年07月08日

◆インスリン注射不要の夢

渡部 亮次郎



2006年8月、京大の山中伸也教授が、人の皮膚から採った細胞に4つの遺伝
子を入れて培養したら、万能細胞ができた。iPS細胞=人工多能性幹細胞
と言うそうだ。

万能細胞から、神経細胞、心臓細胞、臓器細胞、血液細胞、軟骨などが作
られ糖尿病や心臓病に使えるとされている。

自分の皮膚から採った細胞だから、自分の体に入れても拒否反応がない。
ノーベル賞だという声が上がって本当に受賞した。細胞や臓器の再生へ、
万能細胞の研究競争が激化するだろう。

山中教授は、何年かしたら、人工細胞ができると言う。激しい競争がある
からだ。

しかし、4つの遺伝子は、癌細胞から採っているので、人に応用すると思
わぬ事故になる可能性があると言う。

山中氏は、神戸大→大阪市立大→カリフォルニア大と研究を続けて、世界初
の万能細胞を作った。

人工細胞は、糖尿病、心筋梗塞(しんきんこうそく)、脊髄損傷(せきず
いそんしょう)などの治療に使える。
http://www2.ocn.ne.jp/~norikazu/Epageh3.htm

このうち糖尿病治療への展望について専門家に聞いて見ると、うまくすれ
ばインスリン注射が要らなくなる可能性があるという明るい見通しがある
らしい。

糖尿病は、食べたものを血肉にするホルモン「インスリン」が膵臓から十
分に出てこないため、溢れた栄養(ブドウ糖)が血管を内部から攻撃した
末に小便に混じって出る病気である。小便が甘くなるから糖尿病。

糖尿病それ自体ではなかなか死なないが、内部から血管を糖分で攻撃され
ると、脳梗塞、心筋梗塞、盲目、足の切断、癌多発といった
「合併症」を招いて、寿命より10年は早く死ぬ。

栃木県にある自治医科大学内分泌代謝科の石橋俊教授によると、駄目に
なった膵臓や膵頭を何らかの方法で丈夫なものを移植すれば問題は一挙に
解決し、インスリン注射も要らなくなる。

しかし日本ではドナーが不足し、膵頭を調整する試薬の供給がストップし
たりして、こうした治療を受ける患者は2桁どまりだ。

そこで注目されたのが、インスリン「製造工場」ともいえる膵ベーター細
胞の再生治療だったがヒトの受精卵の仕様に付随する倫理的制約や拒否反
応が壁になって進んでいなかった。

そこへ登場したのが山中教授の万能細胞。ヒトES細胞から膵ベーター細胞
を作る研究は壁に突き当たったが、山中教授のiPS細胞なら、自分の皮膚
から出来た物だから拒否反応も倫理的な問題も起きない。

問題は今回できた4つの遺伝子が、がん細胞からとっているので、人に応
用すると思わぬ事故になる可能性があることだ。石橋教授は「この問題が
解消されれば、実用化は意外に早いかも知れない」と言っている。

資料:(社)日本糖尿病協会関東甲信越地方連絡協議会機関紙「糖友
ニュース」91号(2008・7・1)  執筆 08・06・28



2017年07月06日

◆「お前の女房は元から俺のもの」

渡部 亮次郎



わが国の尖閣諸島に対して突如として中国が領有権を主張し始めたのは1969(昭和44)年のことだった。佐藤栄作内閣の頃だったが、わが国メディアは無視した。

後日、外相秘書官になった時、この間の事情を外務当局に質したところ「自分の女房をオレのもんだ、と連日叫ぶ事は恥ずかしいじゃない」と諭された。世界の常識ではそうだろう。

だが中国にかかると全く違う。「あんたの女房は美人で金持ち。だから昔から俺のものだったのだ」というのである。餓鬼の論理、ならず者の理屈だ。だから外交課題には適さない。

理不尽を力で通そうとするのは布告なき宣戦とでも呼ぶしかない。菅首相、仙谷官房長官、前原外相ら(いずれも当時)は、ここが判っていない。

しかも中国は昔は尖閣の海底に眠る石油とガスが欲しくて悪たれたが今や違う。尖閣の辺りを自由に航行できなければ、目指す太平洋支配が可能にならないので、一段と態度が強硬になってきているのである。

それなのに、日本のいう「冷静な話し合い」などに応じるわけが無い。応じていたら野望が挫かれかねない。

菅首相や仙谷官房長官らは、すべて「事は大きくしたくない」から「穏便」ばかりを口にし、すべて下手に出れば大きくならないと決めているようだ。

しかし、日中平和友好条約の締結交渉に従った少ない経験からするところ、日本人と根本的に違っていて、当方が1歩譲歩すれば2歩踏み込んでくる。

事はロシアをして北方領土問題にも関連するから、政府は命がけで踏ん張らなくてはいけない。

ところでジャーナリスト水間政憲氏が明らかにしたところに依れば、中国は7〜8年前から東京・神田の古書店で中国の古地図を買いあさって、今では出回らなくなった。(「週刊ポスト」2010年10月15日号」。

それは「工作」に当って「証拠」となる北京市地図出版社1960年発行の「世界地図集」第1版を地上から消す為であった。この地図では尖閣諸島は日本の領土として、確り日本名の「魚釣島」「尖閣群島」と表記されているからである。

「この地図はたった1冊、日本外務省中国課が所蔵している」と水間氏。「政府はただ東シナ海に領土問題は存在しない、と言うだけでなく、この地図を中国に証拠として突きつけるべきだ」とも。

それを受け入れる中国では無いだろうが、おまえの女房はいい女房だから昔からオレのもんだったというごろつきの一時的な口ふさぎには役立つかもしれない。

2017年07月05日

◆話 の 耳 袋

渡部 亮次郎


◎安倍首相が決断する大規模「内閣改造リスト」 進次郎氏入閣、橋下
氏ら民間人複数起用か−第3次安倍第3次改造内閣 予想される顔ぶれ

東京都議選で、自民党は過去最低23議席と大惨敗した。「森友・加計問
題」「豊田真由子衆院議員の暴言・暴行」「稲田朋美防衛相の失言」に加
え、「政権のおごり」への不満・批判が爆発したといえそうだ。

安倍晋三首相は、国民に「反省」の姿勢を示し、憲法改正に向けて「謙
虚」な政権運営を心がけるため、大規模な内閣改造に踏み切る覚悟を固め
た。新しい布陣で、一連の疑惑についても丁寧に説明するとみられる。入
閣候補には、小泉進次郎衆院議員を筆頭に、橋下徹前大阪市長ら、複数の
民間人が起用されそうだ。

「大変厳しい叱咤と深刻に受け止め、深く反省しなければならない」「政
権奪還したときの初心に立ち返り、全力を傾ける決意だ」

安倍首相は、都議選での歴史的惨敗から一夜明けた3日午前、官邸で記者
団にこう語った。この後、安倍首相は臨時役員会を党本部で開いた。惨敗
の原因を分析し、党勢の回復につなげる考え。

連立を組む公明党とは、都議選ではたもとを分かったため、政府与党連絡
会議で結束して政権運営に当たる方針を確認する見通し。

関係者によると、政権内では「経済政策や外交・安全保障政策などで決定
的失敗はない」という認識だが、「『森友・加計問題』での対応や、閣僚
や所属議員の失言・暴言が相次ぎ、都民に『政権のおごり』『安倍一強の
ゆがみ』と受け取られた」と痛感したという。

都議選惨敗を受けて、新聞やテレビが「永田町の潮目が変わる」「政局に
直結しかねない」と報じている。

安倍首相としては、強い「反省の姿勢」を国民に示し、「謙虚な政権運
営」を取り戻すため、大規模な内閣改造を断行する方針を固めた。

 現時点で、予想される「内閣改造リスト」は別表の通り。

まず、麻生氏と、岸田文雄外相、世耕弘成経産相、吉野正芳復興相は留任
となる見込みだ。麻生氏は「政権の支柱」である。岸田氏周辺には「幹事
長待望論」があるが、岸田、世耕両氏にはロシアとの北方領土交渉を引き
続き担当させる意向とされる。吉野氏は今年4月に就任したばかりだ。

麻生氏と意見がたびたび対立し、「森友・加計問題」の対応で批判を受け
た菅氏には退任論もあるが、官邸周辺が解説する。

「安倍首相は、麻生、菅両氏を評価している。菅氏の『加計問題』での対
応を批判する声もあるが、官邸としては『岩盤規制を国家戦略特区構想で
突破したことに、既得権益を死守したい勢力が抵抗してきた』と受け止め
ている。菅氏を交代させれば岩盤規制の守護者に屈服することになりかね
ない。現時点では、菅氏は留任方向だ」

一方、退任濃厚なのは、「自衛隊の政治利用」と受け取れる失言をした稲
田氏を筆頭に、「テロ等準備罪」を新設する改正組織犯罪処罰法の国会答
弁で不安のあった金田勝年法相、山本有二農水相、山本幸三地方創生担当
相、松野博一文科相ら。微妙なのは、就任から3年近い高市早苗総務相
と、2年近い石井啓一国交相、塩崎恭久厚労相、石原伸晃経済再生担当
相、丸川珠代五輪担当相らだ。

「経済政策を前進させ、2020年東京五輪・パラリンピックを成功させ、憲
法改正を実現させるためには、ここで局面を転換する必要がある。大規模
でインパクトのある内閣改造を行うために、退任閣僚は多くなるだろう。
豊田、稲田両氏は細田派出身。次の改造では、細田派からの起用を最低限
に抑えるはずだ」(同)

新しい布陣で、指摘された疑惑について、事実と証拠を示して、丁寧に対
応する方針という。

入閣候補としては、進次郎氏や、憲法改正で安倍首相と意見が近い橋下氏
らの名前が浮上する。「進次郎氏は、次世代のホープであり、十分に有資
格者だ。安倍首相は橋下氏について『国会議員になるべきだ』と考えてい
るが、まずは民間人閣僚として活躍してほしいと考えているようだ。民間
人閣僚は複数になる可能性がある。著名な官僚OBや学識者、企業人など
をリストアップしているのではないか」(同)

改造時期は、7月下旬に予定されていた日中韓首脳会談が先送りされたた
め、「7月下旬から8月上旬」にかけて行われるとみられる。最終的に時
期が決まるのは「身体検査」次第だという。

官邸周辺は「次期衆院選や憲法改正の国民投票を見据えて、次の内閣改造
は失敗できない。徹底的な身体検査が求められる。民間人起用も検討され
ているため、チェックに時間がかかるかもしれない」と語っている。

・ 安倍首相は「政権の緩みがあるとの厳しい批判があった」といい、反
省した=3日朝、官邸 安倍首相は「政権の緩みがあるとの厳しい批判が
あった」といい、反省した=3日朝、官邸 / 小泉進次郎氏 / 橋下徹氏
http://www.zakzak.co.jp/soc/news/170704/soc1707040014-n1.html?ownedref=photo_not%20set_newsPhoto
【ZakZak】 2017.7.4 〔情報収録 − 坂元 誠〕

 ◎閉会中審査検討へ=都議選大敗受け方針転換−政府・自民

 政府・自民党は3日、学校法人「加計学園」の獣医学部新設などをめぐ
り野党が求めている閉会中審査に応じる方向で検討に入った。これまでは
応じない姿勢を示していたが、方針を転換した。東京都議選で自民党が歴
史的大敗を喫したことを受け、国民の批判に真摯(しんし)に向き合う必
要があると判断した。

閉会中審査の実施時期や、安倍晋三首相出席の有無など具体的な形式は、
自民、公明両党間で詰める見通しだ。

自民党の竹下亘国対委員長は、3日の政府・与党連絡会議で「国民に説明
するため、どこかの局面で(閉会中審査を)検討していきたい」と語っ
た。公明党の井上義久幹事長は「国民の疑問にしっかり答えていくことが
大事だ。積極的に説明責任を果たしてもらいたい」と政府に求めた。 

加計問題をめぐり、首相は通常国会閉幕を受けた記者会見で、丁寧な説明
に努めると表明。だが、民進、共産、自由、社民の野党4党の憲法53条
に基づく臨時国会の早期召集や、閉会中審査実施の要求を政府・与党は拒
否してきた。こうした対応が自民党惨敗を招いたとみて、野党の要求に一
定程度応じる方向に傾いた。

これに対し、民進党の野田佳彦幹事長は3日の記者会見で、加計問題や稲
田朋美防衛相の失言を挙げ、「きちっと説明されていない。不誠実な態度
を自民党は反省しないといけない」と強調。野党4党は近く幹事長・書記
局長会談を開き、改めて臨時国会召集を政府に求めることを確認する。
【時事通信】 2017/07/03-16:19 〔情報収録 − 坂元 誠〕


 ◎「こんな人たち」発言にみる安倍自民の本当の敗因

「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないんです」

今回の都議選の最中に、閣僚や自民党幹部から出た様々な発言の中で、安
倍首相が発したこの言葉が、私にとっては最もインパクトがあった。

最終日、秋葉原で初めて街頭に立った安倍首相に対して、今回の政権を批
判する人たちから発せられた「安部やめろ」コールに怒り、「憎悪や誹謗
中傷からは、何も生まれない!」と語気を強め、声のするとおぼしき方向
を指さして、冒頭の言葉を言い放ったのだった。

それで思い出すのは、俳優のアーノルド・シュワルツェネッガー氏が、カ
リフォルニア州知事に立候補し、選挙運動中に、演説会場で反対派から生
卵をぶつけられた一件。彼は、そうした行為も「表現の自由」の一環だと
述べ、「ついでにベーコンもくれよ」と笑い飛ばした。

そんな風にユーモアで切り返すのは無理でも、「批判を謙虚に受け止め」
と大人の対応をするか、あえて知らん顔で主張を述べ続ける冷静さを見せ
て欲しかった、日本国の総理大臣なら。

安倍シンパたちは、「やめろ」コールをしていたのは一部の過激な集団と
決めつけているが、現場の状況を、客観的にレポートしていると思われる
記事を読むと、こんな記述があった。

〈中心となっていたのは一部の集団だったようだが、街宣が始まるととも
にコールは広がりを見せ、通行用のスペースを隔てた場所で演説を見てい
た人まで「安倍やめろ」と口ずさむ有様だった〉(東洋経済オンライン
「都議選の『安倍やめろ!』は尋常ではなかった

選挙戦最終日、安倍首相の目の前で大逆風」より)

言い始めたのは一部の集団でも、それに多くの人がそれに呼応した、とい
う現象に、本当は深刻さを感じなければならないところだったろう。とこ
ろが、安倍さんの対応は違った。

総理大臣という立場

内閣総理大臣は、安倍さんの考えに共鳴する人たちだけでなく、反対する
人々を含めた、すべての国民に責任を負う立場だろう。仲間や支持者だけ
ではなく、批判勢力を含めた、あらゆる国民の命や生活を預かっている。
なのに安倍さんは、自分を非難する人々を「こんな人たち」という言葉で
くくってしまい、それに「私たち」という言葉を対抗させたのである。
「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかない」と。

都議選の応援は、自民党総裁という立場で行ったものだろうが、安倍さん
を紹介する垂れ幕には、しっかり「内閣総理大臣」と書かれ、司会の石原
伸晃議員も「ただいま、安倍総理が到着しました」と紹介していた。

小泉内閣の総理秘書官だった小野次郎・元参議院議員は、ツイッターで次
のように書いている。


〈この方は、自分に反対の考えを持つ人々は国民ではないと思ってる。総
理になって何年も経つのに、この方は全国民のために選ばれた職にある自
覚は持ち合わせない、遺憾ながら。〉

同感である。

「みんなの大統領になる」

2008年の米大統領選で、共和党のマケイン候補と激しい選挙戦を戦った民
主党オバマ候補は、勝利が決まった後の演説で、マケイン氏を称え、こう
語った。

〈私がまだ支持を得られていない皆さんにも申し上げたい。今夜は皆さん
の票を得られなかったかもしれませんが、私には、皆さんの声も聞こえて
います。私は、皆さんの助けが必要なのです。私はみなさんの大統領に
も、なるつもりです〉(加藤祐子訳)

韓国の文大統領も、5月の就任宣誓で「私を支持しなかった国民一人ひと
りも国民」とし、その国民に奉仕することを約し、「皆の大統領になる」
と強調した。

国会で多数派の中から選ばれる議院内閣制の首相は、国民から直接選ばれ
る大統領とは選ばれ方や権限などに違いはあっても、政権を率いるリー
ダーであり、人々を代表する国の顔でもある。

「私たち」と「こんな人たち」を対決させる政治

常日頃から安倍さんは、「敵」、すなわち「こんな人たち」認定した者に
対しては、やたらと攻撃的だ。それは、首相でありながら、国会で民進党
の議員の質問にヤジを飛ばして、委員長から注意をされる場面からも見て
取れる。野党の議員の後ろにも、たくさんの国民がいるということを理解
していたら、こういう態度はとれないだろう。安倍さんにとっては、野党
議員に投票するような人たちは、自分が奉仕すべき国民というより、「こ
んな人たち」程度の存在なのではないか。

その一方で、彼は「私たち」の中に入る身内や仲間をとても大切にする。
第一次政権では、仲間を大事にしすぎて「お友だち内閣」との批判を浴び
た。稲田防衛相への対応などを見ていると、その教訓は未だ生かされてい
ないようだ。仲間を大事にするのは、1人の人として見れば美徳だが、特
区制度を利用した獣医学部新設をめぐっては「腹心の友」とまで呼ぶ親友
を特別扱いしたのではないかとの疑念を生む一因にもなっているように思
う。

敵を作り、それと「私たち」を対峙させることで、存在価値をアピールす
る。敵を批判し、嘲笑し、数の力で圧倒して、自らの強さと実行力を見せ
つける。そんな対決型の姿勢を、「決める政治」や「歯切れのよさ」「ス
ピード感」として評価する人たちがいる一方、無視され、軽んじられてき
たられた人々の不満はたまりにたまっていた。

そして、対決型を推し進めることで、政治はますます粗雑になり、できる
だけ広範な人たちの合意を得ていくという地道な努力をしなくなっていっ
た。これには、長年自民党を支えてきた保守層の中にも違和感を覚えた人
が少なくなかったろう。

そこに森友・加計問題が持ち上がり、財務省の木で鼻をくくったような対
応があり、文科省の前事務次官の証言があり、共謀罪審議での強引な採決
があり、豊田議員の暴言があり、稲田防衛相の失言があり、二階幹事長の
「落とすなら落としてみろ」発言が重なった。安倍首相の「こんな人た
ち」発言は、最後のだめ押しであると同時に、首相自身の個性に由来す
る、安倍政権の体質を、ものの見事に可視化してしまった。

安倍首相は、今回の敗因を、「政権の緩みに対する有権者の厳しい批判」
と述べた。長期政権ゆえの「緩み」は、確かにあるのだろう。だが、本当
の敗因はもっと根が深く、安倍さん自身のことさらな対決姿勢や粗雑な政
治もその1つではないだろうか。

また、菅官房長官は、記者会見でこの発言について問われ、「きわめて常
識的な発言」と述べたという。官房長官の立場で、これが「問題がある」
とは言えないだろうが、政権トップの発言として「常識的」だと言っての
けてしまうところに、「分かってないなあ」と思ってしまったのである。
7/3(月) 23:18 江川紹子 | ジャーナリスト