2016年12月13日

◆鰻は冬が美味なのだ

渡部 亮次郎



土用の丑の日や夏バテ予防に食べられるが実際はウナギの旬は冬で、秋か
ら春に比べても夏のものは味が落ちる。「夏バテ防止の為に土用の丑の日
に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平
賀源内が考案した広告コピーが基との説がある。

しかし夏バテを防ぐためにウナギを食べる習慣は、日本では大変古く、万
葉集にまでその痕跡をさかのぼる。すると源内が言い出すまで、夏バテ
云々は廃れていたのかもしれない。

うなぎは高タンパクで消化もよく、日本料理の食材としても重要で、鰻屋
と呼ばれるウナギ料理の専門店も多い。

皮に生息地の水の臭いやエサの臭いが残っているため、天然、養殖を問わ
ずきれいな水に1日〜2日いれて、臭みを抜いたものを料理する(泥抜き・
臭み抜きと呼ばれる)。

1970年代、NHK大阪勤務の頃は昼飯時、上二(上本町2丁目)にあった小
さなうなぎ屋に入り、割いて焼く筋を見ながら堪能した。東京のように蒸
さないので脂が多く、美味しかった。

近畿地方ではウナギのことを「マムシ」と呼ぶが、これはヘビのマムシと
は関係なく、鰻飯(まんめし)が『まむし』と訛り、それが材料のウナギ
に転用されたものである。

他に、関西での調理法(正確には浜松以西)の特色である、蒸さずに蒲焼
にして、飯の上に乗せた上に更に飯を乗せて蒸らす「飯蒸し」(ままむ
し)から来たという説、飯の上にウナギやたれをまぶすものとして「まぶ
し」が転じたとの説もある。

また、ウナギという名前については鵜飼の時に、鵜が飲み込むのに難儀す
ることから鵜難儀(ウナギ)となったという江戸の小噺がある。

徳川家康の時代に江戸を開発した際、干拓によって多くの泥炭湿地が出
来、そこに鰻が棲み着くようになったため鰻は労働者の食べ物となった
が、当時は蒲焼の文字通り、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺し
て焼いただけ、という食べ方で、雑魚扱いだった。

鰻が現在のような形で一般に食べられるようになったのは江戸後期から
で、特に蒲焼は江戸発祥の料理であることから、江戸の代表的食物とされる。

蕎麦ほど徹底した美学はないものの、「鰻屋でせかすのは野暮」(注文が
あってから一つひとつ裂いて焼くために時間がかかる)、「蒲焼が出てく
るまでは新香で酒を飲む」(白焼きなどを取って間をつなぐのは邪道。し
たがって鰻屋は新香に気をつかうものとされた)など、江戸っ子にとって
は一家言ある食べものである。

うなぎは日本全国に分布するが、日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで
東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、
湖などだが、内湾にも生息している。

濡れていれば切り立った絶壁でも体をくねらせて這い登るため、「うなぎ
のぼり」という比喩の語源となっている。

細長い体を隠すことができる砂の中や岩の割れ目などを好み、日中はそこ
に潜んでじっとしている。夜行性で、夜になると餌を求めて活発に動き出
し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。

従来ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の
深海ということもあり長年にわたる謎であった。

火野葦平の小説に産卵場所を求めて主人公と恋人が南海に泳いで行く作品
があった。昭和20年代に、確か毎日新聞に連載された。その当時は産卵場
所は分からなかった。

しかし2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授が、ニホンウナギ
の産卵場所がグアム島沖のスルガ海山付近であることをほぼ突き止めた。

冬に産卵するという従来の説も誤りで、現在は6〜7月の新月の日に一斉に
産卵するという説が有力である。

うなぎの人工孵化は1973年に北海道大学において初めて成功し、2003年に
は三重県の水産総合研究センター養殖研究所が完全養殖に世界で初めて成
功したと発表した。

しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用がかかり成功率も
低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚に
なるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。

自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接つながっており、養殖
産業自身も打撃を受けつつある。

2007年EUがヨーロッパウナギの絶滅が危惧(きぐ)されシラスウナギの輸
出規制する方針を発表しワシントン条約締約国会議でEU案が可決、規制が
確定した。

これにより中国経由の輸出規制が始まる。また、台湾も日本への過大な輸
出に対して現地の養殖業者などが輸出規制を要望している。

日本側も国産シラスウナギで成り立っている業者と輸入物に頼る業者の対
立があり一致した意見表明ができない状況になっている。その為、全般的
にうなぎ価格の高騰は避けられないとされる。

2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に
発ガン物質が検出されたとして輸入方法を変更した。今までは検査なく輸
入可能であったが、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。

中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう交渉中である。検出さ
れた物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験で発ガン性
が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質であった。

マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたこと
がある。うなぎの日本国内消費量10万トンのうち6万トンは中国産であ
り、これをきっかけに日本国内でのうなぎの売れ行きは激減した。

2016年12月08日

◆大阪八軒家浜船着場から熊野街道へ

毛馬 一三



大阪「淀川」から毛馬閘門を通り、1級河川「大川」(旧淀川)を少し下って、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点だった。江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれたらしい。その「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋門前に立っている。

この「碑」の先の坂を上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を常時利用した。坂本竜馬も、西郷隆盛も、ここの船着き場から近郊にある「薩摩屋敷」に通っている。

この「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から「熊野詣」に赴く道筋として利用していた。今になって、ここ「八軒家浜船着場」が、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっているのだが、意外にもそれが知られていない。

さて、その「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が、相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」が建設された。

同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水都大阪の川辺に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船に乗って身を乗り出して、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立体的な水都の形が顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

大阪大手企業本社の東京一局集中や、大手企業工場の他府県や外国への移籍が目立つなど、大阪の経済基盤の沈下に歯止めが掛からない中で、この「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」への新観光ルートを創りだし、歴史の歩きの楽しみを味合わせる事業が始まれば、大阪への集客に繋がることは間違いない。

「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。しかも、「熊野街道」の起点となっている「八軒家浜船着場」の歴史的価値をなえがしにしてきた大阪市文化行政の手抜かりも情けない。

今からでも遅くない。「八軒家浜船着場」から世界遺産となった「熊野詣で」を複活させるイベントや実際の「歩き会」を実施すべきだ

そう思うだけでも「八軒家浜船着場」碑が、老舗「昆布屋)門前にポッンと立っているだけで、寂しく見えて仕方がない。(了)


2016年12月06日

◆変節漢小澤の証拠

渡部 亮次郎



私のメイルマガジン「頂門の一針」530号(2006年8月10日)で「小澤一郎の
狂乱」を掲載したところ、知り合いのジャーナリストから「こんな”証拠
“が残ってましたよ」と言う投書があった。変節漢小澤の動かぬ証拠だ。

530号では

<「祀られる人ではない 小澤氏、靖国合祀のA級戦犯」という記事が
2006年8月7日の産経新聞に出ている。この人は大学院まで学んだ人だ
が、政治家でありながら日本史を全く勉強していない人なのだと改めて認
識した。ダメダコリャ。>と冒頭に掲げて論じた。

これに共感し、更に送ってきてくださった投書は以下の通りである。

<「頂門の一針」530号、「小沢一郎の狂乱」に寄せて。

民主党の小沢一郎代表が中曽根内閣の自治大臣だった昭和61年の国会答弁
が、唸声(ハンドルネーム)氏主宰の「現代レポート」に掲載されていま
した。

◇唸声より
EDO様、ありがとうございます。国会会議録から抜粋いたします。

昭和61年04月02日−地方行政委員会より抜粋

○佐藤三吾君 それでは、公式参拝ということについてはいかがですか、
認識は。

○国務大臣(小沢一郎君) 公式参拝というのは、いわゆる国務大臣の任
にある者が参拝するというケースを言うのであろうと思います。ですか
ら、私の考えは国務大臣であろうがなかろうが、現在はなっております
が、今申し上げたような気持ちで今後も行いたいと思っております。

○佐藤三吾君 あそこにはA級戦犯も合祀されていますね。これについて
はあなたはどういう認識ですか。

○国務大臣(小沢一郎君) 基本的に、お国のために一生懸命、その是非
は別といたしまして戦ってそれで亡くなった方でありますから、そういう
戦没者に、参拝することによって誠の気持ちをあらわす、また自分なりに
それを考えるということであろうと思います。

したがいまして、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう
問題ではないだろうと思っております。たまたま敗戦ということによって
戦勝国よって戦犯という形でなされた人もいる。

あるいは責任の度合いによってABいろいろなランクをつけられたんであ
りましょうけれども、その責任論と私どもの素直な気持ちというのはこれ
は別個に分けて考えていいんではないだろうかというふうに思っております。

○佐藤三吾君 まあいいでしょう、あなたの率直な考えだからね。
 千鳥ヶ淵には参りますか。

○国務大臣(小沢一郎君) 千鳥ヶ淵に今まで行ったこともありますが、
靖国神社の方が今までも多かったと思います。何といいますか、自然な感
じで靖国神社の方により多く足が向いたのであろうと思っております。
 
小沢一郎君がABC級は戦争責任の軽重によるランク付けと認識していた
とは噴飯ものですが、かかる変節政治家が政権をとったらと想像すること
すら恐ろしい。(田川市)>

昭和21年4月29日の天皇誕生日に合わせて、28人の「A級戦犯」が選ばれ
た。ABCとは、ドイツを裁いたニュールンベルグ裁判をそのまま適用し
たもので、

「A」は平和に対する罪、
「B」は通常の戦争犯罪、
「C」は人道に対する罪だが、ACは事後法。

戦争を始めた国の、指導者個人の責任を問うものだった。

戦争は、国と国の間の問題で国家の行為だが、個人の責任を問うという法
律をアメリカが作ったのだ。実際、マッカーサーが「極東国際軍事裁判所
条例」という法律を作り、それによって戦犯が定められた。

ヒットラーは1933年から1945年まで独裁体制で、軍事行動を行っていた。
日本は1928年から1945年まで、A級戦犯とされた28人が一貫して満洲、中
国、東南アジア、太平洋、インド洋と侵略したことにされたが、1931年の
満州事変の時と、1937年のシナ事変、1941年の大東亜戦争の内閣は全部違
う。日本の内閣は18回も交代している。

アメリカは、大東亜戦争のずっと前まで遡って、1938年の張鼓峰事件や、
1939年のノモンハン事件まで日本の侵略戦争と位置づけ、A級と名付けて
殺すための日本人を28人も選んだのだ。

ソ連は、天皇誕生日に合わせて起訴するためのアメリカの起訴状ができた
後で駐ソ日本大使と関東軍司令官をA級戦犯に加えろとアメリカに要求し
てきた。それで急遽、2人が加えられた。

東京裁判は、国際法に則ることなく、マッカーサーの命令で進められた。
国際法は無視されている。マッカーサーの「極東国際軍事裁判所条例」に
基づいて裁判官が決められ、ポツダム宣言も無視された。

小澤氏は靖国神社のA級戦犯の合祀問題について問われ「俗に戦犯と言わ
れる方々は戦争を指導した人たち。それをきちんと問わなければいけな
い。靖国神社は戦争で死んだ人を祀るもの。指導者は戦死しておらず、そ
こに祀られるべき人でない」と応えている。人を騙すにも程がある。戦犯
のABCの意味も知らない代表を抱えた民主党のあばら骨が見えた。

戦犯とはわれわれ日本人がきめた者ではない。戦勝国とくにアメリカの
マッカーサーが恣意的に指定し、恣意的に判決と称するものを下し、皇太
子殿下(当時)誕生日にあわせて処刑したものであり、いわばリンチによ
る死であるから、立派な戦死ではないか。

「それをきちんと問わなければいけない」と小澤氏も言っているように、
我々日本人が戦犯を問うたことがない。「きちんと」問えば小澤氏がいか
に変節漢であるかが明白になってしまうわけだが、それでもいいかな。

マッカーサーが行った日本占領政策の実態をアメリカに長く滞在して研究
したのは麗澤大学教授の西 鋭夫氏である。氏はその実態を著書にした。
現在は中央公論文庫になっている。書名は『国破れてマッカーサー』。
【文中敬称略】2006・08・10

2016年12月04日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、ト
ウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来
た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は
刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓され
て水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺
(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険
だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら
淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本
食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁
師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず
食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。そ
れまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓に
ジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べるこ
とによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸
虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者
が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のよう
な生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物
であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても
心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で
食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっつ
いていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬
はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)
をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマ
の恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の
刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であ
り、そのメイン・デッシュだったからである。外交儀礼上食べないわけに
いかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だった
と知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマ
に対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春
だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿
司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、
と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と
怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を
乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は
寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はな
いそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれ
る。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉
い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠
牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側
が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さ
んより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ
側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を
遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無
かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る
糖尿病患者が相当な勢いで増えて━いる。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57
ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006
年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実
は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級
スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ
物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけ
でなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目
があったのか。2007.03.06


2016年12月03日

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎



若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる
鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々
たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁
として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸
の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付い
て保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスに
のっていたので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不足」を晒し
て途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やす
くに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現し
た>。

鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙
中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれ
て評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指
名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルに
いた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、
調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッ
ソリしていたので、マスコミの目を引いたことを覚えている。
病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方が
いいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えて
いた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約
1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なと
ころでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前
だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設
置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田
が推されたのは、多分に角栄の推しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開
き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略
に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦
は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談す
るという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だ
という外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東
正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田を
またピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面
がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんて
どうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の
足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なん
だから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省
が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当る
か、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジ
ネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の
間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再
建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国から
の批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のな
か、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴とし
ていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く
受け「角影内閣」との異名をとった。>
日本大百科全書(小学館) (文中敬称略) 2010・4・4

2016年12月02日

◆これほどの大物が居た

渡部 亮次郎



名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北
に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の
道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時
期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅
100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古
屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間
(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが
岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災
後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の
双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・
歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の
時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付
近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷
公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道
もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在
に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っている
といって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ
沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。南関東で震度
6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害
世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)「この項の
み広辞苑」

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝
都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と
公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予
算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなっ
た。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市
骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評
価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に
残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ
者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4
年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。
台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東
京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京
放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の
長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)
に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和
子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名さんは新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳
で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛
知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わ
る事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板
垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にで
きないのが残念だ」と口にしたという。

1882年(明治15)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局
に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することと
なった。

1890年(明治23)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する
一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、
留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892年(明治
25)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1893年(明治26)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監さ
れ、最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する
破目となった。

1883年(明治16年)に起こった相馬事件は 突発性躁暴狂(妄想型統合失
調症と考えられる)にかかり 自宅に監禁されさらに加藤癲狂院(てん
きょういん)や東京府癲狂院に 入院していた奥州旧中村藩主 相馬誠胤
(そうまともたね)のことについて

忠臣の錦織剛清(にしごおりたけきよ)が 「うちの殿様は精神病者では
ない。
悪者たちにはかられて病院に監禁された。」 と、告訴したことに始まった。
結局この騒ぎは1895年(明治28年)に 錦織が有罪となって終結すること
になった。


1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾
総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状
況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法
を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生
したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地
を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというもので
あった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっ
ており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急
に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許
制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功
し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒
者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千
人となった。

なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。
これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成
功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、
その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人とし
て、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活
躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く
起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフ
ラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄
内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908
年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の元で内務大臣(1916年10
月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22
代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)など
を歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては
内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でた
まらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を
取った「しんぺい」号が走っている。

1941年(昭和16)7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)
をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通
したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルを
つくる構想ははやくも1896年(明治29)ころからあり、当時夢物語のような
この話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつ
たえている。[出典]『中外商業新報』1941年(昭和16)7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう
途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正
力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後
藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界し
ていた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当
時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、
1941年に日本初の公民館が建設された。今は
記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日
本連盟の初代総長を勤めている。後藤はスカウト運動の普及のために自ら
10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。
制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好き
な総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニ
コ」と歌声が上がったという。

後藤はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作
懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を
贈った)。

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2016年12月01日

◆のど自慢に出場したのだ

渡部 亮次郎



1946(昭和21)年のこの日、NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」が開始
され、それを記念してNHKが制定した。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関
だった。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。1946(昭和21)年のこの日、NHK
ラジオで東京)「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHK
が制定しました。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関で
した。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。

私も高校生のころ、秋田市での大会に出場、合格した。受験戦争ムードに
反発したもの。歌ったのは「チャペルの鐘」
   作詩:和田隆夫
   作曲:八州秀章
1)なつかしの アカシアの小径は
 白いチャペルに つづく径
 若き愁い 胸に秘めて
 アベ・マリア 夕陽に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る
2)嫁ぎゆく あのひとと眺めた
 白いチャペルの 丘の雲
 あわき想い 風に流れ
 アベ・マリア しずかに歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る
3)忘られぬ 思い出の小径よ
 白いチャペルに つづく径
 若きなやみ 星に告げて
 アベ・マリア 涙に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

この歌を聞くと、なぜか札幌の時計台を思い出す。理由は分からない。で
もあれは時計台であってチャペルではない・・・。では「チャペル」とは
何ぞや? Wikipediaによると、
「チャペル (Chapel) は、本来クリスチャンが礼拝する場所であるが、日
本では私邸、ホテル、学校、兵舎、客船、空港、病院などに設けられる、
教会の所有ではない礼拝堂を指している。」
とある。どうも教会の礼拝堂はチャペルとは言わないらしい。結婚式場が
チャペルだ。
でもこの歌詞は、何とも淡い恋でいいな〜。(オジサンには縁が無い
が・・・)
白いチャペルか・・・

フト、2年前の今頃、オーストリアに行って教会を見た事を思い出した。
ヨーロッパはどこに行っても教会だ。2年前は2週間掛けてオーストリアを
一周したが、オーストリアでも、どこに行っても尖塔の教会があった。中
でも有名で「これどこかで見た事がある・・」と思った教会が2つあっ
た。ハイリゲンブルートの教会とハルシュタットの教会である。

この歌とはあまり関係ないが、“絵になる”教会の写真を見ながら、岡本敦
郎の歌を聞くもの一興か?

大学を出てNHKで記者になった。

政治部所属に成ってある夜、新宿のスナックでうたっていたら、見知らぬ
男に声をかけられてびっくりした。「うちへ入りませんか」という。名刺
には「ダニー飯田とパラダイスキング」とあった。「政治記者から歌手へ
転身」というのがおもしろいというのだ。

記者の仕事が面白くてたまらない時期だったこともあって断った。
あれから50年。まったく歌う機会が無いままにすごしたから今では歌は聴
くものと心得ている。2013・10・29


    

2016年11月30日

◆福田赳夫さんの命日

渡部 亮次郎



福田赳夫さんが「角福戦争」で田中角栄氏にあえなく敗れた時、福田派
担当の記者(NHK)だった。福田赳夫さんは1995(平成7)年7月5日に90
歳で亡くなった。死因の慢性肺気腫は、夫人にも隠れて吸った永年の煙草
のせい。

1976年12月、内閣総理大臣に就任したとき、私は田中角栄総理による
大阪左遷からNHK東京国際局へ帰還直後。その1年後の改造で、官房長官園
田直(そのだ すなお)さんから、朝、国立(くにたち)の自宅へ掛かっ
てきた電話で官房長官秘書官就任を承諾。

およそ1時間かけて電車で永田町の総理官邸に到着してみたら、あろう事
か、全閣僚が辞任した中で園田さんだけが居残って、しかも外務大臣に横
滑りしていた。私はいまさら引き返しもならず、外務省で秘書官なるもの
を始めた。

大臣秘書官は、大臣が任命するものではない、とは知らなかった。総理大
臣が任命して、俸給額だけが外務大臣によって決められる。したがって、
形式的には、私は福田さんから招かれて外務大臣秘書官になったことになる。

さりとて辞令は誰かが総理官邸から貰ってきてくれたし、とくに就任挨
拶にも出向かなかった。1977(昭和52)年11月29日のことだった。

翌年7月に入り、あさってからボン〔ドイツ〕でのサミットに出発すると
言う12日の朝6時半、園田さんは目白の田中角栄邸を訪れた。

夜は明けていったが記者はまだ誰一人居なかった。門前の警察官が告げ口
しない限り、福田さんの耳には入ってはならない行動である。サシの会談
は2時間に及んだ。

名目は大詰めに来ていた日中平和友好条約の締結をどうするかについて、
「先輩総理」に仁義を切るという園田さんの申し入れによるもので、連
絡役を務めたのが外務政務次官愛野興一郎氏。田中派だったのが幸いし
た。

2人がサシで会談したのは、角福戦争(1972年)以来約6年ぶりのこと。い
わゆる「大福密約」を取り仕切った2人ではあるが、ゆっくり話し合う
事はそれまで無かった。なんだかこの時点で福田総理再選の目が消えた
ように思う。

ついでだから、この会談で角さんが園田さんに述べた事を私は園田さん
から聞いてメモしてあった。紹介しておこう。

<@首相退陣(1974年12月〕を決意した直接のきっかけは、健康状態の悪化
にあった。モノが2重に見えるほどになっていた。

A退陣に際し後継に椎名悦三郎を「指名」しようと決意していた。

Bところが、佐藤栄作元総理が「指名はするな」と言ってきた。佐藤は
その頃は田中に買収されていたのではなく昭和電工(三木武夫のスポン
サー)に買収されていた。そこで椎名には後継者選びを委ねることにした。

C後継者について、感情的に福田には渡したく無かった。彼はオレの政
権が苦しくなった時に、蔵相を辞めて、首吊りの足を引っ張った。大平
のことが気になった(椎名に委ねれば、大平が指名されることは無くな
る)。

D福田のあとは大平だ。中曽根はモノになるまい。大平のあとは1万石
大名の背比べで混沌とするだろう。>

福田総理、園田外相らは7月13日午前9時、羽田空港から日航特別機で
出発。パリに2泊したあと、ボンのパレ・シャンブルグでのサミットに
臨んだが、園田外相は不機嫌だった。

この頃から福田さんは「世界が福田を招いている」と言って総裁再選出
馬をちらつかせるようになった。これを感じての園田さんの不機嫌は、
密約破りとなり、立会人としては大平さんに対して誠に苦しい立場になる
からである。

園田さんから密約の経緯を知らされている私は事情は良く分かるが、福
田さんから密約のことは一切聞かされていない福田側近は、福田再選態
勢作りに積極的でない園田氏を次第に非難し始める。総理秘書官になっ
ていた長男の康夫さんから何度も赤坂の料亭に呼び出されて「説得」さ
れたが、私としては如何ともし難かった。

以下、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による経
歴。

群馬県群馬郡金古町足門(現在の高崎市足門町)に父・福田善治(第20代金
古町長)の次男として生まれた。福田家は江戸時代には庄屋をつとめた地
元の名門であった。

小学校のころから神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業し、第一
高等学校から東京帝国大学法学部へすすみ大蔵省に1番の成績で入省し
た。

だが、1948年に昭電疑獄が起こると、当時大蔵省主計局長だった福
田は収賄罪容疑で逮捕された。結局、無罪にはなったものの、これを機
に大蔵省を退官した。

大蔵省では官房長、銀行局長(このとき三島由紀夫の上司だった)を経
て戦後、主計局長。

1948年9月13日、昭電疑獄との関連を疑われて逮捕される。その後、大蔵
省を退官。

1952年10月、無所属で立候補し衆議院議員に初当選。

1958年6月、党政調会長に就任。

1959年1月、党幹事長に就任。

1959年6月、農林水産大臣に就任。

1960年12月、再び党政調会長に就任。

1965年6月、大蔵大臣に就任。

1967年2月、党幹事長に就任。(2度目)

1968年11月、再び大蔵大臣に就任。

1971年7月、外務大臣に就任。

1972年7月、自民党総裁選挙で田中角栄に敗れる。

1973年11月、3度目となる大蔵大臣に就任。

1974年12月、副総理・経済企画庁長官に就任。

1976年12月、内閣総理大臣に就任。(渡部註:福田・大平正芳密約による。
@福田総裁に任期は2年 A幹事長は大平)

1978年、派閥解消を目指して党員投票による自民党総裁予備選挙を導入
し実施されたが、現実には大平正芳候補を支持する田中派が大掛かりな
集票作戦を展開する。

一方で福田派は派閥解消を主唱する建前や事前調査における圧倒的優勢
から動きが鈍く、当初の下馬評が覆され福田は大平に大差で負けること
になる。

福田は「予備選で負けた者は国会議員による本選挙出馬を辞退するべき」
とかねて発言していたため本選挙出馬断念に追い込まれることになる。

自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ1人である。「天
の声も変な声もたまにはあるな、と、こう思いますね」の言を残して辞
任。(1978年12月)

1986年7月、派閥を安倍晋太郎に禅譲し、福田派会長を辞任。

1990年2月、政界を引退。

1995年7月5日、慢性肺気腫のため死去。享年90。

平成7年7月5日:大勲位菊花大綬章 (執筆:06・07.04)


2016年11月29日

◆日本における売春の現状

渡部 亮次郎



私の大学在学中に国会で売春防止法案が審議されて成立。卒業とともに売
春宿はなくなった。しかし法律は「防止」であって「禁止」ではないこと
が示す如く、売春はなくなっていない。

売春防止法は『何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならな
い。』としている。

しかし、売買春そのものに刑罰は設けられておらず、売春防止法におい
て、売春行為自体は禁止されていても、刑罰の対象とはならない。

その理由としては、売春防止法制定当時の官僚による国会答弁が参考となる。

<性欲の捌け口を作ることで性犯罪を防止すること、諸先進国では合法化
されている国が多いこと、風俗業従事者の生活維持、地域経済・税収への
深刻な影響を挙げている>。

他方、売春防止法では単に売春を行ったという単純売春(条例に反さない
範囲において)は刑事処分対象外であるが、売春の勧誘、周旋、売春契
約、売春をさせる業(俗にいう「管理売春」は、これに含まれるなど売春
を助長する行為は禁止されており、刑事処分の
対象となる。

売春防止法が売春そのものを禁止するのではなく、売春を助長する行為を
禁止しているのは、そもそもの立法経緯において、女性の性的役務の隷属
被害や、暴力団等や親による搾取行為を無くすのが主
目的で、売春行為自体を取り締まる事が主目的ではなかった。

『売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗もので
あることから、売春を助長する行為等を処罰すると共に、性行又は環境に
照して売春を行うおそれのある女子に対する補導処分及び保護更生の措置
を講ずることによって、売春の防止を図るこ
とを目的とする』為である。

売春防止法の他に、児童買春・児童ポルノ禁止法が存在する。児童に対す
る性的搾取・性的虐待を防止し、児童の権利を擁護することを目的として
いる。

売春の斡旋、あるいは売春をさせる業を為すことは刑罰の対象となってい
るが、斡旋ではなく知り合った男女が売春しているにすぎないという建前
を用いてソープランドでは公然と売春が行われている。

旧赤線地帯などでは、ソープランドのような風呂を設けずに個
室で売春させている所も多く、ファッションヘルス、ホテトルなどにおい
ても、店が売春を黙認している所もあるなど、売春の斡旋、売春をさせる
業を為したということで処罰されないよう、店側は関知しないという建
前、暗黙の了解のもとに営業している例は見られる。

この外、テレクラ、出会い系サイトを発端として当事者同士の合意で売買
春がなされる場合や、ラブホテル付近に売春する側が立ってが客待ちを
し、売買春が為される場合などもある。

また、韓国で2004年に性売買特別法が施行された結果、韓国人売春従事者
が日本をはじめとする海外諸国で「遠征売春」が増加しているといわれる。

2016年11月28日

◆パイナップルも無かった

渡部 亮次郎



朝と昼の食事のあとは果物を必ず食べる。だから秋は楽しい。果物の種類
が豊富だからだ。冬が近付くとみかんに混じってときどき供されるのがパ
イナップルだ。

南国の果物だから生まれ育った秋田では子ども時代はお目にかからなかっ
た。敗戦後、缶詰を初めてたべて美味しかった。しかし
生を食べたのは大人になって上京後である。

アメリカから返還される前に特派員として渡った沖縄では畑に植わってい
るのを沢山見たが、なぜか食べなかった。今、東京のデパートで売られて
いるのは100%フィリピン産である。

「ウィキペディア」によれば、パイナップルの原産地はブラジル、パラナ
川とパラグアイ川の流域地方。この地でトゥピ語族のグアラニー語を用い
る先住民により、果物として栽培化されたものである。

15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝
播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493
年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の
大陸に伝わった。

1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航
路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。

当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい
果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。

次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して
行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾
に導入された。

日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年に
オランダ船が長崎へもたらした記録もある。

パイナップル(レユニオン)は植付け後15〜18か月で収穫が始まる。自然
下の主収穫期は、たとえば沖縄では7〜9月と11〜翌年2月である。

1年を通した生産面の労働力の分配や缶詰工場の平準化を図り、植物ホル
モンであるエチレンやアセチレン(カーバイドに水を加えて発生させ
る)、エスレル(2-クロロエチルホスホン酸)、を植物成長調整剤として
利用し、計画的に花芽形成を促して収穫調節を施している。

栽培適地は年平均気温摂氏20度以上で年降水量1300mm内外の熱帯の平地か
ら海抜800mくらいまでの排水の良い肥沃な砂質土壌である。

世界生産量の約5割がアジア州で、残りの5割はアフリカ州、北アメリカ
州、南アメリカ州の間でほぼ均等に分かれている。

2002年時点のFAOの統計によると世界生産量は1485万トン。1985年時点に
比べて60%以上拡大している。主要生産国はタイ (13.3%)、フィリピン
(11.0%)、ブラジル (9.9%)、中国 (8.6%)、インド (7.4%)、コスタリカ、
ナイジェリア、ケニア、メキシコ、インドネシアである。

1985年の世界総生産は923万トンで、主産地はタイ、フィリピン、ブラジ
ル、インド、アメリカ、ベトナムなどである。日本では沖縄県が主産地で
2002年時点では1万トンである。

1985年から2002年までのシェアの推移をたどると、米国のシェアが6%から
2%までじりじり下がっていることが特徴である。既に米国は上位10カ国に
含まれていない。


2016年11月27日

◆糖尿病で起きる合併症

渡部 亮次郎



48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく
放置すれば健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ
人、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に
遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したの
だ。これを2型という。

4つ歳の離れている兄は郷里秋田の地元紙の記者時代、30代で既に発症して
いた。また、私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直
(すなお)さんも30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しない
まま70歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを
所持しているという認識もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣
のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能
しなくなったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生
きない」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか透析開始を遅
らせた。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めた
が、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた患者のインス
リン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しかし、自らはその恩
恵に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つ
くので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」
と思ったものだ。

私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済
生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだっ
た。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても
私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖
尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが糖尿病は日本で
は全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不全だったが、そ
の原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られた病院が済生会中央病
院。患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥な
んだろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う
態度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区
葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も
継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出
血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台
にある船員保険病院(現在はせんぽ高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサング
ラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして
出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じると
いう。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受け
た。あれから22年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常な
し」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大
事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもこ
こを勧めて5月27日に受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らな
かった」といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてイ
ンスリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻の
日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなく
なった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失
神して救急車で入院。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。血糖値は25に下
がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴でたすか
るたすかったのだった。

10年ぐらい前になる。以後、血糖値の管理が簡単だからとインシュリンの
注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の注射だったが、
現在は朝の1回だけ。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインシュリンがボールペン型の注射器
に納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛み
は殆どない。注射が好きというひとはいないだろうが、痛くないのだから
逃げる必要もない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がり
だった。だからインシュリン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として
田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。
園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きる合併症で死ぬのだ。それ
を防ぐのが注射によるインシュリンの補給。それでも万全ではない。血管
や心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑える
が、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された
「T−pa」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。

脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以
内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して回復不能となる。長嶋さん
がそれだ。その後の主治医が私と共通。

教授はまず脳梗塞に掛からないよう血液の粘りを少なくしようと
ワーファリンという薬の服用を命じた。だから毎日飲んでいるが、
効き過ぎて関節内血腫を起こしてしまった。2011年9月5の緊急入院の理由
である。次に起きるのは何だろうと思う。しかし心配しても始まらない。
           2011・9・24

2016年11月26日

◆インスリン注射不要の夢

渡部 亮次郎



2006年8月、京大の山中伸也教授が、人の皮膚から採った細胞に4つの遺伝
子を入れて培養したら、万能細胞ができた。iPS細胞=人工多能性幹細胞
と言うそうだ。

万能細胞から、神経細胞、心臓細胞、臓器細胞、血液細胞、軟骨などが作
られ糖尿病や心臓病に使えるとされている。

自分の皮膚から採った細胞だから、自分の体に入れても拒否反応がない。
ノーベル賞だという声が上がって本当に受賞した。細胞や臓器の再生へ、
万能細胞の研究競争が激化するだろう。

山中教授は、何年かしたら、人工細胞ができると言う。激しい競争がある
からだ。

しかし、4つの遺伝子は、癌細胞から採っているので、人に応用すると思
わぬ事故になる可能性があると言う。

山中氏は、神戸大→大阪市立大→カリフォルニア大と研究を続けて、世界初
の万能細胞を作った。

人工細胞は、糖尿病、心筋梗塞(しんきんこうそく)、脊髄損傷(せきず
いそんしょう)などの治療に使える。
http://www2.ocn.ne.jp/~norikazu/Epageh3.htm

このうち糖尿病治療への展望について専門家に聞いて見ると、うまくすれ
ばインスリン注射が要らなくなる可能性があるという明るい見通しがある
らしい。

糖尿病は、食べたものを血肉にするホルモン「インスリン」が膵臓から十
分に出てこないため、溢れた栄養(ブドウ糖)が血管を内部から攻撃した
末に小便に混じって出る病気である。小便が甘くなるから糖尿病。

糖尿病それ自体ではなかなか死なないが、内部から血管を糖分で攻撃され
ると、脳梗塞、心筋梗塞、盲目、足の切断、癌多発といった
「合併症」を招いて、寿命より10年は早く死ぬ。

栃木県にある自治医科大学内分泌代謝科の石橋俊教授によると、駄目に
なった膵臓や膵頭を何らかの方法で丈夫なものを移植すれば問題は一挙に
解決し、インスリン注射も要らなくなる。

しかし日本ではドナーが不足し、膵頭を調整する試薬の供給がストップし
たりして、こうした治療を受ける患者は2桁どまりだ。

そこで注目されたのが、インスリン「製造工場」ともいえる膵ベーター細
胞の再生治療だったがヒトの受精卵の仕様に付随する倫理的制約や拒否反
応が壁になって進んでいなかった。

そこへ登場したのが山中教授の万能細胞。ヒトES細胞から膵ベーター細胞
を作る研究は壁に突き当たったが、山中教授のiPS細胞なら、自分の皮膚
から出来た物だから拒否反応も倫理的な問題も起きない。

問題は今回できた4つの遺伝子が、がん細胞からとっているので、人に応
用すると思わぬ事故になる可能性があることだ。石橋教授は「この問題が
解消されれば、実用化は意外に早いかも知れない」と言っている。

2016年11月25日

◆日中正常化同行取材記

渡部 亮次郎



日中国交正常化40周年とか。確かにNHK政治記者時代、総理官邸取材
チームのサブキャップだったので、交渉のため北京を初訪問する首相・田
中角栄に同行した。

この正常化が果たして正しい選択だったか、その後の外務省のフォローが
正しかったかなど、評価は様々だろうがとにかく36歳のときのこと。忘れ
去る前に、思い出の記を残しておきたい。

中国の公衆便所には仕切り板もドアもなかった。万里の長城を訪れたとき
のこと。其処の公衆便所に入って驚いた。学校の体育館みたいな板敷きの
広いところに細長いアナが何十もあいていて仕切りもドアも無い。底に
しゃがんで用を足せというのだ。

前にしゃがんでいる男の尻をみながら用を足せ。自分の尻も後ろから見ら
れているのは当然である。

「記者」とかカメラマンは政権の敵である。反革命分子も潜り込んでいよ
う、殺し屋も潜んでいるかもしれない。何しろ国営通信社新華社の人間以
外は「敵」である。

偉い人に数m以上近付く記者は「近距離記者」。「遠距離記者」は20m以
上は近付いてはならない。日本人記者とて田中首相にやたら近づいてはな
らん。

カメラの望遠レンズは事前に中国側の点検を受けなければいけない。中に
銃が仕込まれていないとは限らないからだ、という。

やたらチップをやってはいけない。もらう人間はいないからだ。ところが
西日本新聞の記者が運転手に金張りダンヒルのライターをさしだしたとこ
ろ、人目のないことを見て取ってすばやくポケットにしまいこんだ。

1972年北京市内にはタクシーがまだ走っていなかった。万里の長城へ行く
バスに乗り遅れてしまった。共産党から特別に車をだしてもらったがこち
らは中国語が喋れない、相手は日本語がわからない。それでも何とか車を
出してもらったのは、フランス語が通じたからだった。40年経ってフラン
ス語はすっかり忘れた。

その車は時速40Km以上は出なかった。それでもバスに追いついた。バス
は40Km以下だったのだ。

5分も走ったら郊外に出た。肥えたごかつぎにであった。記者団のバスが
通過したからと許可が出たのだろう。

私に付いた通訳は石家荘から動員された小母さんだった。平かなが書け
た。なぜかと聞いても答えなかった。彼女ら通訳を通じて日本側記者の言
動は逐一、上部に報告されているものと承知していた。

「そろそろ粥がたべたいな」とつぶやいたら翌日の朝食が粥だった。

北京でも上海でも生水を絶対飲んではいけない。猛烈な下痢をおこす。だ
から同行記者団は一様に遠足よろしく、水を背負っていった。(それから
35年後、このことを忘れ、杭洲で水割りウィスキーを呑んで下痢。遂には
低血糖に陥り死に掛けた)。

田中首相・大平外相・二階堂官房長官が毛沢東の「謁見」を許されたと知っ
たのは翌朝。中国側が用意したカラー写真を配られて初めて知った。真夜
中の3時ごろだったらしい。その数時間後に何十枚ものカラー写真を制作
する能力があったとは、今も驚きだ。「宣伝」には特別長けているのが中
国共産党。

一行は上海にも一泊。そのときはじめて「大衆」と出合った。彼らが戦後初
めて目にする「敵」日本人。明らかな敵意を感じた。2012・9・28